転換点
狂人とは、常に合理の天秤を破壊する存在である。
だが、その底知れぬ狂気が、時として自らの首を絞める最悪の刃となることを、王国宰相ルキウスは盤面の向こう側で静かに見届けることとなる。
フレンテ共和国を陥落させ、大陸の西側をほぼ手中に収めたゲルマン国の指導者ハトラーは、自らの力を完全に過信していた。
「孤立した王国など、もはや虫の息だ。西の戦線は完全に勝利した」
そう勝手に結論づけた彼は、あろうことか自ら結んだ不可侵条約を破り捨て、その貪欲な牙を突如として東――巨大な共産主義国家『北の連邦国』へと向けたのである。
それは、軍事的な常識から見れば「二正面作戦」という最悪の愚行だった。
だが、ハトラーの狂信的な純血主義は、連邦国の広大な領土と資源を「我らゲルマン民族の正当な生存圏」と盲信していた。数千両の戦車と数百万の兵士が、怒涛の電撃戦をもって連邦国の国境を蹂躙し始める。
奇襲を受けた連邦軍は総崩れとなり、ゲルマン軍は破竹の勢いで東へと進撃した。誰もが、連邦の首都陥落は時間の問題だと確信した。
――しかし、狂人は『自然の摂理』という最大のロジックを計算に入れていなかった。
連邦国は、自らの国土を焼き払いながら徹底的に後退し、ゲルマン軍の補給線を限界まで間延びさせた。そして、その時が来るのをじっと待っていたのだ。
秋の長雨が大地を底なしの泥濘に変え、無敵を誇った装甲部隊の足を止めさせる。
やがて、空から白い粉雪が舞い落ちたかと思うと、気温は一気に氷点下数十度という常軌を逸した領域へと急降下した。
北の連邦国が誇る最強の防衛システム――『冬将軍』の到来である。
「な、なんだこの寒さは……! エンジンが、銃の機関部が凍りついて動かない!」
「閣下! 兵士たちが次々と凍死していきます! 冬季用の装備が足りません!」
悲鳴のような報告が相次ぐ中、泥と雪に足を取られたゲルマン軍は、広大な白銀の地獄の中で完全に凍りついた。進むことも退くこともできず、連邦軍のスキー部隊と耐寒装備に身を固めた反撃部隊によって、無敵のゲルマン軍は次々と雪原の墓標へと変えられていったのだ。
「……やはり、狂人は自らの狂気に喰われる運命にあるな」
王都の地下司令室で、連邦国での戦況報告を受けたルキウスは、ひさしぶりに冷たい笑みを浮かべた。
これでゲルマン国の主力は、東の雪原に完全に釘付けになる。王国が反撃に出るための、千載一遇の好機だった。
だが、世界の盤面をひっくり返す決定的な『特異点』は、東の雪原ではなく、遥か遠くの穏やかな海で起きた。
ゲルマン国と同盟を結んでいた極東の軍事国家『大和国』
彼らが突如として何をとち狂ったのか、不干渉を貫いていた新大陸『ステイツ』が領有する太平洋の離島基地へと、大規模な奇襲攻撃を仕掛けたのである。
休日の穏やかな朝。ステイツの青い空を黒く染め上げる大和国の爆撃機群が、停泊していたステイツの巨大な戦艦群に容赦なく魚雷と爆弾の雨を降らせた。
炎上する艦隊。吹き飛ぶ基地。無防備な背中を刃で貫かれたこの騙し討ちの事実は、瞬く間にステイツ全土へと報じられた。
それは、大和国にとって戦術的には大成功だったかもしれない。だが、戦略的には「絶対に起こしてはならない化け物」の逆鱗に触れる、最悪の自殺行為であった。
「……馬鹿な連中だ。寝ている巨人の頭を、わざわざハンマーでぶん殴りやがった」
ステイツの巨大カジノホテルのペントハウス。
闇の王アレンは、ラジオから流れる『離島基地、奇襲さる』の臨時ニュースを聞きながら、獰猛な笑みをこぼしてブランデーを煽った。
大和国の計算違いは、すでにステイツの国民が「平和ボケした群衆」ではなかったことだ。
アレンが裏から手を回し、莫大な資金を投じて作らせたあのプロパガンダ映画。ルキウスの『血と労苦と涙と汗』の演説に熱狂し、「我々も悪魔と戦う同盟国(王国)を支援すべきだ」という戦意と正義感が、すでにステイツ全土で火薬庫のように限界まで高まりきっていたのだ。
そこへ投下された、大和国による卑劣な騙し討ち。
完全に火がついた。ステイツ国民の怒りは、大爆発を引き起こした。
「リメンバー・ザ・アイランド!!」
「卑劣な独裁者どもに、正義の鉄槌を下せ!!」
映画館で涙を流していた若者たちが、怒りに目を血走らせて次々と志願兵の列に並んでいく。
不干渉を決め込んでいた政治家たちも、この圧倒的な世論のうねりを前にしては、もはや参戦への法案を承認する以外の選択肢はなかった。
「物資だけじゃねえ。この国の莫大な兵力と工業力が、まるごとルキウスの陣営に加わるってわけだ。……これで勝てなきゃ、お前はただの無能だぜ、宰相閣下」
アレンは窓の外を見下ろした。
ネオン輝く歓楽街のすぐ向こうで、ステイツが誇る無数の巨大な軍需工場が、フル稼働で黒煙を上げ始めている。
世界最大の工業力と経済力を持つ『眠れる巨人』が、ついにその重い腰を上げ、表の戦争へと正式に参戦を決めた瞬間だった。
東の雪原で、無敵の軍隊が凍りつき、足を止めた。
西の海を越えて、世界最大の巨人が、圧倒的な武力を手に参戦の咆哮を上げた。
数年間、孤独な絶望の中で王国を支え続けてきたルキウスの元に、ステイツ正式参戦の電報が届けられる。
そして、最前線で血に塗れながら兵士の命を繋ぎ続けていた聖王エリアナの空に、ステイツの巨大な星条旗を掲げた援軍の輸送機が影を落とす。
狂人の傲慢と、大和国の暴発。
そして、闇の王が周到に仕込んでいた熱狂のプロパガンダ映画。
すべての歯車が噛み合い、長きにわたった守勢の時代は終わった。ここから、圧倒的な暴力と物量による連合国側の大反攻作戦が始まる。
大戦のフェイズは今、劇的にひっくり返ったのであった。
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