聖なるものの王として
教会の頂点たる『聖王』は、王都の豪奢な宮殿の奥深くで、絹のクッションに沈みながら神に祈りを捧げる存在のはずだった。
だが、エリアナはその古い常識を自ら叩き壊した。
彼女は純白の法衣の上に、泥と血にまみれた軍の外套を羽織り、絶望的な防衛戦が続く世界中の最前線を飛び回っていた。
王国軍の衛生・医療部門の最高責任者として、自ら野戦テントに入り、悲鳴を上げる傷病兵の血肉に触れながら、前線の士気を必死に鼓舞して回っていたのである。
なぜ、彼女がそこまで現場に固執するのか。
それは、ゲルマン国を支配する狂人・ハトラーが引き起こしている、あまりにもおぞましい所業をこの目で直視し、自らの足で立ち向かうためだった。
あの狂人は、領土の拡大だけでは飽き足らず、『純血』という狂信的なイデオロギーのもと、ただ信じる神の姿や、祈りの角度が違うというだけの無辜の民衆たちを根絶やしにしようと、組織的な大虐殺を行っていた。
救済を司る者として、そんな悪魔の所業を絶対に許すわけにはいかなかった。
しかし、彼女が直面している戦場の現実は、あまりにも過酷で惨たらしいものだった。
近代戦における国際的な取り決めにおいて、軍の『衛生兵』は原則として非戦闘員と定められていた。彼らはヘルメットや腕章に、遠くからでも目立つ『白地に赤く染め抜かれた百合の十字』の標章を身につけ、武装は自衛用の拳銃一丁のみに制限されていた。
彼らの最大の任務は、敵を殺すことではない。弾雨の飛び交う最前線に丸腰で飛び込み、「負傷者を後方へ送るまで、何が何でも命を繋ぐこと」であった。
銃弾に倒れた兵士のもとへ這い寄り、まずは止血帯で大量出血を食い止める。激痛に泣き叫ぶ兵士の首筋に、使い捨てのシレット注射器でモルヒネを打ち込み、傷口には感染を防ぐための粉末状のサルファ剤(抗菌薬)をたっぷりと散布して、分厚い包帯で保護する。
エリアナが心血を注いで確立したこの初期治療のシステムと、後方への迅速な移送体制により、本来なら死を待つしかなかった何十万という兵士の命が救われていた。
――だが。
狂人ハトラーの軍隊は、命の尊厳はおろか、戦場のルールすら完全に足蹴にしていた。
「聖王様、ダメです! この標章は目立ちすぎます!」
泥まみれの塹壕の中で、古参の小隊長がエリアナの腕章を必死に隠そうとした。
「奴ら、兵士の士気を最も効率よく削ぐために、わざと『衛生兵やナース』を優先的に狙撃してくるんです! 白い百合のマークは、敵の狙撃手にとって絶好の的なんですよ!」
その報告に、エリアナは唇を強く噛み締めた。
命を救うための神聖な中立の標章が、死神を呼び寄せる的になっている。
前線に配置されたエリアナナースや衛生兵たちの多くは、今や泣く泣く誇りであるはずの白百合の標章を泥で塗りつぶし、非戦闘員という建前を捨てて、歩兵と同じように小銃で武装せざるを得ない悲痛な状況に追い込まれていた。
慈愛の象徴であるはずの彼らが、命を繋ぐために泥を被り、自らも人殺しの道具を手に取らなければならない。これ以上の悲劇があるだろうか。
エリアナは震える手で自身の腕章を泥で汚しながら、後方の野戦病院へ向かう負傷兵の移送ルートをさらに強固な装甲車列で保護するよう、絶え間なく指示を出し続けた。
その日の深夜。
砲撃の音が遠く響く、薄暗い野戦病院のテントの中。
重傷者たちのうめき声が響く中、手術衣を血で真っ赤に染めたエリアナは、ようやく訪れた短い休息に身を預け、冷たい木の椅子に座り込んでいた。
テントの隅に置かれた、ひび割れた旧式の軍用ラジオ。
そこから、ノイズ混じりの音声が、静かに、しかし力強い熱を帯びて流れてきた。
『――私が皆さんに提供できるものは、血と、労苦と、涙と、そして汗以外の何ものでもありません』
エリアナは、カップを持っていた手を止めた。
それは、遠く離れた王都の議会で放たれている、王国宰相ルキウスの演説だった。
『いかなる犠牲を払おうとも、勝利を。いかなる恐怖に直面しようとも、勝利を。その道がどれほど長く、苦しいものであろうとも、勝利を掴み取ることです』
合理主義者であり、すべてを冷徹な計算式で処理してきた、冷たい氷のような幼馴染。
その彼が今、すべてをかなぐり捨てて、血を吐くような思いで国民の感情に直接訴えかけ、魂を震わせて抗戦を呼びかけていた。
彼もまた、自分たちと同じなのだ。
手段は違えど、どれほどお互いを傷つけ、道が分たれようとも。あの日、スラムの泥水の中で交わした『理不尽に命が奪われる世界を壊す』という根本の想いだけは、ただの一度も折れてなどいなかった。
ラジオから聞こえてくる、ルキウスの不器用で、熱を帯びた声。
それを聞きながら、エリアナの張り詰めていた頬が、ふっと緩んだ。慈愛に満ちた聖王の顔ではなく、場末のバーで彼をからかっていた時のような無防備な笑みがこぼれた。
「……計算通りに事が進んで、澄ました顔をしている貴方より」
エリアナは、雑音の混じるラジオに向かって、そっと優しく語りかけた。
「そうやって感情を表に出して、不器用に泣き喚きながら意地を張っている子供の頃の貴方の方が、私はずっと好きだったわよ。……ルキウス」
遠く新大陸から闇の物資を送り続ける、裏社会の王。
絶望的な局面の中で孤軍奮闘し、国を奮い立たせる国家の宰相。
そして、最前線の血と泥の中で命を繋ぎ続ける、光の聖王。
互いの顔を見ることはなくとも、三人の幼馴染たちの魂は、この狂熱の世界大戦という最悪の闇の中で、かつてないほど強固に、そして深く結びつき始めていた。
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