宰相の苦悩
カチ、カチ、カチ……。
深夜の宰相府。誰もいない執務室で、ルキウスの懐中時計が刻む無機質な音だけが、異様に大きく響いていた。
壁に広げられた巨大な戦略地図。そこには、ルキウスの完璧だった計算式が、無惨に引き裂かれ、血塗られた現実が広がっていた。
「……信じられない。完全に、僕の想像の『埒外』だ」
極限の合理主義者であり、百人に一人の天才軍師。そのルキウスの知能をもってしても、狂人ハトラーの思考を予測することは不可能だった。
ルキウスの「時間稼ぎの宥和政策」は、完全に裏目に出た。
ハトラーは、ルキウスが与えてしまった時間とズデーテンの工業力を使い、王国軍の予想を遥かに超える速度で悪魔的な軍隊を創り上げていた。
だが、それ以上にルキウスの計算を狂わせたのは、敵の『常軌を逸した外交と戦術』だった。
第一の誤算。
ゲルマン国は、絶対に相容れないはずの共産主義国家『北の連邦国』と、突如として不可侵条約を結んだのだ。
「イデオロギーの真逆な水と油が手を結ぶなど、政治学的にあり得ない」とルキウスは弾き出していた。だが、狂人は論理など意に介さない。
自らの背後を安全にするためなら、昨日の不倶戴天の敵とも平然と握手をする。これでゲルマン国は、全力で西側――つまり連合国側へと牙を剥くことが可能になった。
第二の誤算。
王国連合の強力な同盟国である『フレンテ共和国』の崩壊。
フレンテは、ゲルマン国との国境沿いに「絶対に突破不可能」と謳われる強固な大要塞線を築いていた。ルキウスもまた、この要塞が数年は敵を食い止めると計算していた。
しかし、ハトラーの軍隊は要塞に正面から挑まなかった。彼らは、戦車など絶対に通行不可能とされていた『険しい森林地帯』を、あろうことか大機甲部隊で強行突破するという狂気の奇策に出たのだ。
ルキウスがかつて編み出した『諸兵科連合』を、さらに凶暴化させた電撃戦。
論理と常識の虚を突かれたフレンテ軍は完全に崩壊し、大要塞は無用の長物と化した。
現在、フレンテの首都は陥落の寸前であり、王国連合の軍勢は大陸の端へと追い詰められ、絶望的な撤退戦を強いられている。
ただ、ゲルマン軍のこの完璧すぎる勝利において、たった一つだけ『小さな瑕疵』があったとすれば。
フレンテ軍の抗戦を主張する若き将軍を一人、海を越えてルキウスの王国へと取り逃がしてしまったことだ。
ハトラーにとってみれば、「国を失った将軍一人など、ただの負け犬に過ぎない」と、些末な問題のように思われた。
……だが、この小さな瑕疵が、後に狂人の首を絞めることになるとは、今はまだ誰も知らない。
「……チェックメイト、か」
ルキウスは乾いた唇から自嘲を漏らし、革張りの椅子に深く沈み込んだ。
同盟国は倒れ、大陸は狂信者たちの手に落ちた。
海を隔てたこの王国だけが、今や世界で唯一、ゲルマン国の圧倒的な暴力にたった一国で立ち向かわなければならない。
盤面は最悪だ。
かつてなら、こんな時、部屋の暗がりから黒いスーツの男が「仕方ねえな」と笑いながら現れ、敵の補給線を裏からズタズタに引き裂いてくれただろう。
かつてなら、絶望に沈む国民に対し、純白の聖女が「希望を捨てないで」と祈りを捧げ、国中を一つにまとめ上げてくれただろう。
だが、もうあの二人はいない。
国家というシステムを守るため、合理性を追求しすぎたルキウス自身の手が、彼らを遠ざけ、その絆を決定的に切り裂いてしまったのだ。
「光の加護も、闇の支援も、今の僕には求める資格がない」
ルキウスは一人だった。
誰の助けも借りられない。裏社会のゲリラ戦も、宗教による大衆の扇動も使えない。
追い詰められた国家の正規軍と、己の頭脳だけを頼りに、この未曾有の国難を乗り切らなければならない。
極限の孤独と、重圧。
胃を握り潰されるような苦悩の中で、ルキウスは葉巻を取り出し、震える手で火を点けた。
紫煙が、薄暗い執務室の空気を重く満たしていく。
(……僕は、合理主義者だ。勝算のない戦いはしない。降伏すれば、王国の形だけは残せるかもしれない)
狂人に国を売り渡し、屈辱の中で生き延びるか。それとも、絶望的な抗戦を選び、国ごと灰燼に帰すか。
宰相としての最も合理的な解は、間違いなく「降伏」だった。
だが。
脳裏にフラッシュバックしたのは、あの日、スラムの泥水の中で震えていた自分たちに、冷たいパンを投げ与えながら嘲笑った大人たちの顔。
強い者が弱い者を理不尽に踏み躙る、あの光景。
「……冗談じゃない」
ルキウスは、葉巻を灰皿に強く押し付けた。
「冗談じゃない!!」
氷のように冷たかった彼の瞳の奥に、かつてアレンやエリアナと共に抱いていた、熱く、どうしようもない『意地』と『怒り』が燃え上がっていた。
「計算式が狂ったのなら、もう一度、血と泥の中で組み直すだけだ。狂人には、狂人の論理すら凌駕する『徹底した抗戦』をもって報いてやる」
ルキウスは立ち上がった。
机の上の懐中時計を拾い上げ、軍服のポケットにねじ込む。
今から彼は、議会に向かわなければならない。
絶望に打ちひしがれ、降伏論に傾きつつある議員たちと、震える国民に向けて、徹底抗戦を呼びかけるために。
部屋を出る直前、ルキウスは誰もいない暗がりと、窓から見える教会の尖塔に向かって、誰に聞かせるわけでもない小さな声で呟いた。
「見ていろ、アレン。エリエ。……僕が創り上げたこの国は、システムは、絶対に屈服しない」
孤独な宰相は、防空壕のサイレンが鳴り響く王都の夜へ、たった一人で歩みを進めた。
彼が議会で放つことになる『血と労苦と涙と汗』を国民に要求する大演説は、やがて世界中を震わせ、反撃の狼煙となる。
しかし、その孤独な戦いの道のりがどれほど長く、過酷なものになるか、まだルキウス自身にも計算しきれてはいなかった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




