はじめは…ただ欲しかった…
狂熱に浮かされるゲルマン国の台頭。圧倒的な暴力と民族主義を掲げる『ハーケンクロイツ党』の指導者、ハトラーの狂気は、間違いなく次の世界大戦を引き起こす。
王国軍のトップである参謀長にまで登り詰めたルキウスは、その最悪の未来を誰よりも早く、そして正確に弾き出していた。
「軍を動かすだけでは足りない。開戦の決定権を持つ『政治』そのものを、僕が完全に統制しなければ、この国は再び無益な血の海に沈む」
その日を境に、ルキウスは軍服を脱ぎ捨て、国家の最高権力である『王国宰相』の座を奪い取るための冷酷な内部工作を開始した。
手始めに彼は、自身の希少スキル『軍師』を、戦場ではなく「議会」という盤面で発動させた。
彼はまず、ゲルマン国との国境地帯で起きた小規模な軍事衝突を意図的に『放置』した。
事態が急に悪化し、文民政府がパニックに陥った絶妙なタイミングで、ルキウスは軍の全権をもってこれを鮮やかに鎮圧してみせた。
さらに、かつてアレンから得ていた保守派政治家たちの裏金リストを絶妙なタイミングで新聞社にリークし、現宰相の派閥を完全に崩壊させた。
野党が不信任案を提出するか迷っている瞬間に、スキルを発動して彼らの動きを『確定』させ、議会を完全に機能不全に陥らせる。
国難の危機、腐敗した政治家、そして機能しない議会。
そこに現れた、先の対戦の英雄にして、清廉潔白で冷徹な若き軍略家。
民衆と国王が、彼を『救国の英雄』として熱狂的に支持するよう、すべての盤面を完全にデザインしたのだ。
結果、現宰相は辞任し、ルキウスは圧倒的な支持のもと、ついに国家の全権を握る『王国宰相』へと就任した。
泥水の中から見上げた権力の頂。
だが、彼に感慨に耽る暇はなかった。
宰相就任直後、ゲルマン国のハトラーが、ついに牙を剥いた。
「我らが同胞が住む隣国・チェコスロキアの『ズデーテン地方』を、ただちに我がゲルマン国へ割譲せよ。拒否すれば、即座に全面戦争に突入する」
世界が息を呑んだ。
先の対戦の傷が癒えていない王国連合軍に、狂信的なゲルマン軍と正面からぶつかる余力はない。
だが、要求を呑めば同盟国を見捨てることになる。
各国の首脳が青ざめる中、ルキウスはたった一人、ハトラーとの直接会談――『ミュンヘアン会談』へと赴いた。
怒号を上げ、唾を飛ばしながら領土の正当性を主張する狂人ハトラーに対し、ルキウス氷のように冷たく合理的な『宥和政策』を突きつけた。
「ズデーテン地方の割譲を、我が王国は承認しよう。……その代わり、ゲルマン国は『これ以上の領土要求は一切行わない』と、この協定書にサインしろ」
それは、同盟国の急所を切り売りする、冷酷極まりない取引だった。
後世の歴史家からは、「狂犬ハトラーを甘やかし、世界大戦を招いた史上最悪の弱腰外交」と酷評されることになる決断。
だが、ルキウスの計算は違った。ハトラーが協定を守るなどとは、一ミリも信じていない。彼が欲しかったのは『時間』だった。
ズデーテンという生贄を差し出すことで、王国軍が最新鋭の兵器を量産し、完全な迎撃体制を整えるための『二年間』を買い取ったのだ。
会談を終え、王都の空港へ降り立ったルキウス宰相を、何十万という民衆が熱狂的な歓声で出迎えた。
彼が掲げたハトラーの署名入りの協定書を見て、人々は涙を流して喜んだ。
「宰相閣下万歳! これで戦争は回避された! 我らの子供たちは死なずに済むのだ!」
平和をもたらした英雄。民衆の圧倒的な賛美を浴びながら、ルキウスは感情の読めない瞳で歓声を聞き流していた。
だが
この極限の合理主義が生み出した「偽りの平和」を、絶対に許せない者たちがいた。
深夜の王都。場末のバーの扉が、かつてないほど乱暴に蹴り開けられた。
軍の護衛を外して一人でグラスを傾けていたルキウスの胸ぐらを、闇の絶対王となったアレンが恐るべき力で掴み上げた。
「てめえ、自分が何をしたか分かってんのか!!」
アレンの瞳には、かつてないほどの激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「ズデーテンを見捨てただと!? あそこは、俺のファミリーがゲルマンのハーケンクロイツ・マフィアと血みどろになって防波堤を築いていた場所だぞ! お前がサイン一つで国境を開けたせいで、俺の部下たちは逃げ場を失って全員虐殺された!!」
狂犬に餌を与えれば、より凶暴になって次の肉を求める。
裏社会の理を知り尽くしたアレンにとって、ルキウスの宥和政策は「敵に最大の拠点をタダで明け渡した」最悪の愚行に他ならなかった。
胸ぐらを掴まれたまま、ルキウスは氷のように冷たく言い放った。
「必要な犠牲だ、アレン。ズデーテンを差し出さなければ、明日にはこの王都に爆弾が落ちていた。僕は、時間を買っただけだ」
「ふざけるなッ! その『コスト』ってのは、血を流して死んでいった俺の家族のことかよ!!」
「……アレンの言う通りです。ルキウス、あなたは一線を越えた」
暗がりから進み出たのは、純白の法衣に身を包んだ『聖王』エリアナだった。
しかし、その慈愛に満ちた瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
「ハトラーの軍が進駐したズデーテンで、何が起きているか知っていますか? 私が派遣したナースたちは異端として処刑され、保護していた孤児院の子供たちは、ゲルマンの純血主義に反するという理由で……全員、毒ガスで『処理』されました」
エリアナの声が、悲痛に震える。
「あなたは『時間を買った』と言うけれど。……その時間の代金は、あの子たちの命よ」
冷徹に計算された数字。
その裏側で流された、無数の血と涙。
ルキウスは何も答えず、ただ静かに目を伏せた。胸の奥底で、幼馴染に刃を向けられるような鋭い痛みが走ったが、彼は国家という機械の歯車として、その感情完全に殺した。
「国を、何千万という命を救うためには、誰かが泥を被り、冷酷な決断を下さなければならない。……それが、僕の選んだ道だ」
アレンはルキウスを突き飛ばすように手放し、憎悪と軽蔑の入り混じった視線を叩きつけた。
「お前はもう、俺たちの知ってるルキウスじゃねえ。ただのイカれた『計算機』だ」
「もう、あなたに教会の医療システムは貸しません。私たちは、私たちのやり方で……あの悪魔から人々を救います」
エリアナもまた、決別を告げるようにルキウスに背を向けた。
三人があの日、スラムの泥水の中で交わした誓い。
同じ星を見上げていたはずの幼馴染たちは、国家、裏社会、そして宗教というあまりにも巨大な力を手にした代償として、ここで決定的に、そして致命的に決裂した。
偽りの平和を喜ぶ民衆の歓声が、遠く窓の外から聞こえてくる。
誰もいなくなった薄暗いバーで、一人残されたルキウスは、割れたグラスの破片を見つめながら、ただ冷たい沈黙の中に沈んでいった。
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