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生きる、何が、あっても  作者: 虹の箸
第二章 相食む。譲れないものがあるから

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新たな争いの萌芽

第二章始めました。

 世界大戦を終結させたのは、王都の壮麗な宮殿で結ばれた一枚の条約だった。


 敗戦国となった旧枢軸国の中心となった『ゲルマン国』に対し、王国連合が突きつけた賠償金は、天文学的な数字だった。


国家予算の数十年分にも及ぶその負債は、ゲルマン国の経済を完全に破壊し、二度と軍備を再建させないための極めて冷徹な「枷」であった。


「これでゲルマンは最低でも半世紀、自国の民を食わせるだけで精一杯になる。……資金がなければ、銃は撃てない。完全な平和のシステムだ」


 条約の草案を起草したルキウスは、参謀本部の執務室でそう独り言ちた。


 合理主義者である彼にとって、国家とは数字と資源の集合体だった。


賠償金という物理的な重圧で国家の生命線を完全に断てば、戦争という『非効率なエラー』は物理的に起き得ない。彼の計算式に、一片の狂いもなかった。


 ――だが、ルキウスの完璧な計算式には、たった一つだけ決定的な欠落があった。


 それは、誇りを踏みにじられ、明日のパンすら奪われた人間の『感情』という、最も非合理的で制御不能なファクターである。


 戦後数年。ゲルマン国の首都は、この世の地獄と化していた。


 重すぎる賠償金の支払いによって引き起こされた、壊滅的なハイパーインフレ。


昨日まで一杯のコーヒーが飲めた紙幣の束で、今日はマッチ一本すら買えない。


人々は乳母車に山積みの札束を乗せてパン屋に並び、それでも買えずに飢えて死んでいった。


 この惨状を座視できなかったのが、先の大戦の功績と民からの絶大な人気をバックに、光の頂点たる『聖王』に即位したエリアナだった。


 彼女は超国家的な権限を行使し、私財と教会の資金を投げ打って、ゲルマン国へ大量の食糧と『エリアナナース』たちによる医療支援部隊を送り込んだ。


「私たちは勝者として来たのではありません。同じ人間として、命を繋ぐために来たのです」


 エリアナの派遣したナースたちは、泥と雪にまみれたゲルマンの路上で、飢えた子供たちに温かいスープを配った。


 だが、かつて戦場で兵士たちを救った『慈愛』は、この極限の飢餓社会においては、思いもよらない拒絶に遭うことになる。


「偽善者め……っ! 貴様ら王国人が我々からすべてを奪っておいて、何が慈愛だ!」

 スープの鍋を蹴り飛ばしたのは、擦り切れた軍服を着たゲルマンの青年だった。


彼の腕には、鉤十字を模した奇妙な腕章が巻かれていた。


「我々ゲルマンの誇りは、パンの切れ端で買えるほど安くはない! 偽りの平和を拒絶せよ! 奪われたすべてを、我らの血と鉄で取り戻すのだ!」


 青年の演説に、虚ろだった民衆の瞳に暗く、熱狂的な炎が灯っていく。エリアナナースたちは、石を投げられ、悲痛な思いでその場を撤退するしかなかった。


 王都の大教会でその報告を受けたエリアナは、静かに目を伏せた。


 肉体の傷は科学で治せる。だが、国家レベルで刻まれた『屈辱』という魂の病は、どれほど清潔な包帯を巻いても治ることはない。彼女の構築した完璧な医療システムは、「施しを憎悪する」という人間の業の前に、無力さを突きつけられていた。


 光が届かない場所で何が起きているか。それを誰よりも早く、そして正確に嗅ぎ取っていたのは、裏社会の頂点に君臨するアレンだった。


 王都の地下深く、ヴィットーリオ・ファミリーの隠し倉庫。


 アレンは、国境を越えて密輸されてきた木箱をバールでこじ開け、中身を見て目を細めた。


 そこに入っていたのは、ゲルマン国で作られた真新しい『新型の短機関銃』の山だった。


「ドン。ここ最近、ゲルマン側からの密輸品が異常です。美術品や宝石じゃない。奴ら、クズ同然になった自国通貨の代わりに、こっちの闇市で武器を売り払って『外貨』と『鉄』をかき集めてやがります」


 部下の報告に、アレンは新型銃の冷たい銃身を撫でながら、忌々しげに葉巻の煙を吐き出した。


「ただの暴動の準備じゃねえ。……軍隊を作ろうとしてやがる」

 アレンの諜報網は、ゲルマン国で急速に台頭しつつある一つの極右政党の存在を捉えていた。


 ――『ハーケンクロイツ党』


 絶望的な貧困と屈辱の中で、彼らは「ゲルマン民族の優位性」と「王国への復讐」を強烈に謳い上げ、瞬く間に民衆の心を掌握しつつあった。


彼らはただの政治結社ではない。裏社会のルートを使って非合法に武装し、邪魔な政敵を暗殺し、ついにはゲルマンの裏社会すらも暴力で飲み込み始めていた。


 数日後の深夜


 三人は再び、誰の目にも触れない場末のバーに集まっていた。

 だが、戦勝を祝ったあの夜のような穏やかな空気は、微塵も残っていなかった。


「お前の計算式は間違っていたぜ、ルキウス」


 アレンはカウンターに、ゲルマンの新型銃と、ゼロが数え切れないほど印字された無価値な札束を放り投げた。


「飢餓と絶望は、人間を大人しくさせやしない。むしろ、理屈を喰い破る『怪物』を生み出す極上の餌だったんだよ。……ハーケンクロイツ党。奴ら、近いうちに必ずゲルマンの国家権力を乗っ取るぞ」


 ルキウスは札束を一瞥し、眉間を深く刻み込んだ。


「……非合理的だ。パンも買えない国の民衆が、なぜ武器を手に取る? 感情だけで戦争が維持できるとでも言うのか」


「人間はね、ルキウス。時として、パンよりも『誇り』のために死を選ぶのよ」


 エリアナの声は、深い悲嘆に沈んでいた。


「彼らはもう、私たちの医療や施しを受け入れない。彼らが欲しているのは救済ではなく、絶対的な『報復』よ。私が送ったナースたちは、彼らからスパイとして暴行を受け、国境から追い出され始めているわ」


 沈黙が、三人の間に重くのしかかった。


 ルキウスが冷徹に構築した「賠償金による抑止力」は、ゲルマン国民を極限まで追い詰め、結果として最悪のファシズムを生み出す苗床となってしまった。


 エリアナが目指した「国境を越えた医療のゆりかご」は、民族主義という狂信的な壁に阻まれ、引き裂かれた。


 そしてアレンが支配する裏社会のルールすらも、ハーケンクロイツ党の「国家そのものを裏社会化する」という規格外の暴力の前に、脅かされようとしている。


 ルキウスは目の前のガラスを飲み干し叩きつけた。冷静を通り越して冷徹な彼にしては珍しい感情の爆発。


「……僕の、致命的なエラーだ。感情という変数を軽視しすぎた」


 彼は静かにため息をつき、かつてないほど鋭く、そして暗い炎を瞳に宿して二人を見た。


「ハーケンクロイツ党がゲルマンの全権を掌握すれば、彼らは必ず条約を破棄し、再軍備に走る。前大戦の『塹壕戦』など児戯に等しい、殲滅と殺戮の嵐が来るぞ」


 平和は、終わったのだ。


 あの大戦で一千万人をすり潰して得た束の間の休息は、勝者が敗者に強いた傲慢な計算式によって、より醜悪で凶暴な怪物へと孵化してしまった。


「……やってやろうじゃねえか。俺たちの創った『システム』を壊そうって言うなら」

 アレンが上着を羽織り、闇のドンとしての凄絶な殺気を放つ。


「表の戦争が始まる前に、俺のファミリーを使ってゲルマンの裏ルートを全部潰す。奴らの資金源を、根こそぎ絶ってやる」

「私は、国内の病院と教会の地下をすべて『防空壕』と『野戦病院』に改装させるわ。……どんな惨劇が来ても、命だけは繋ぎ止めてみせる」

 エリアナもまた、聖王としての十字架を強く握りしめ、覚悟を決めた。


 三人はグラスを交わすことなく、それぞれの戦場へと背を向けた。


 狂熱に浮かされるハーケンクロイツ党の足音が、遠くゲルマンの地から地響きのように王都へ迫り来る。世界は再び、血と鉄とイデオロギーが激突する、破滅的な第二幕へと強引に引き摺り込まれようとしていた。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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