光と影3
エリアナを嫌悪し、祈祷書を引き裂いた貴族出身の聖女候補が、泣き叫びながら修道院を追放されてから数ヶ月。
表向きのエリアナは「彼女たちに神の御加護があらんことを」と涙を流して祈る、慈愛に満ちた悲劇の聖女として、教会内での信奉を集めていた。
しかし裏では、自らに牙を剥く者を一人、また一人と確実な罠にかけ、社会的に抹殺していく。それが、エリアナが、どんな泥水を啜ってもあの頃よりはマシだと選んだ道だった。
いじめを行っていた末端のシスターたちを一掃したエリアナの視線は、すでに教会のさらに深い闇――権力の中枢である『コンクラーベ(教皇選挙)』へと向けられていた。
だが、次代の聖王の座を争う枢機卿たちは、一筋縄ではいかない古狸ばかりだ。教会内部の権力闘争を勝ち抜くには、神聖な祈りだけでは圧倒的に手駒が足りない。
汚れ仕事を物理的に担い、教会の外から敵の弱みを引っ張ってくる『手足』が必要だった。
「裏社会の人間と接触したいのです。口が堅く、腕の立つ者を」
ある夜、エリアナは横領の証拠を突きつけて手駒につけたの会計司祭を自室に呼びつけ、冷徹に言い放った。
「ば、馬鹿なことを! 教会の人間が裏社会とと繋がるなど、露見すれば破滅ですぞ!」
「お甘い事を、トップに近い枢機卿達がそういった術をお待ちでなきとでも?それに露見させなければいいのです。次の標的は、対立派閥のボルドー枢機卿。彼の息の根を止めるための『毒』が要るのです。……あなたなら、ツテがありますね?」
横領の証拠を握られている司祭に、拒否権はなかった。彼は脂汗を流しながら震える手で、とある場所と時間を指定した。
数日後の深夜。指定されたのは、王都の裏路地にひっそりと佇む、廃れた礼拝堂だった。
崩れかけた女神像。ステンドグラスは割れ、冷たい隙間風と月明かりだけが堂内に入り込んでいる。神の目すら届かないような暗がりの中、エリアナは祭壇の前に跪き、目を閉じて祈りの姿勢をとっていた。
――ふと、背後の空気が変わった。
足音は一切なかった。扉が開く音もしなかった。だが、確実に『死』を纏った何者かが、背後の闇の中に立っている。
エリアナは振り向かなかった。光と闇が交わってはならないことくらい、彼女にも分かっていた。あくまで自分は依頼主であり、顔を合わせる必要はない。
エリアナは祭壇を見つめたまま、淡々と口を開いた。
「依頼は二つ。邪魔なボルドー枢機卿の裏の身辺調査と、彼が隠し持っている私兵の排除。報酬は、教会の裏帳簿から望むだけ出します。引き受けますね?」
静寂。
暗殺者からの返答を待つ数秒間が、永遠のように感じられた。
やがて、背後の闇から、低く、少しだけ掠れた声が返ってきた。
「……相変わらず、無茶な要求をするな。エリエ」
ドクン、と。エリアナの心臓が大きく跳ねた。
その愛称で呼ぶのは、世界に二人しかいない。一人は貴族の屋敷にいる。ならば、この背後にいるのは。
信じられない思いで、エリアナは祈りの姿勢を崩し、ゆっくりと振り返った。
割れたステンドグラスから差し込む青白い月光。その光に照らされた視線の先には、闇に溶け込むような黒い外套を羽織った少年の姿があった。
「アレン……?」
見間違えるはずがない。スラムで一つの毛布を分け合い、共に凍えた幼馴染。
しかし、目の前に立つ彼は、あの頃の純朴な少年ではなかった。背は伸び、その体躯には隙がなく、何より外套の奥から酷く冷たい血と硝煙の匂いを纏っていた。
彼の瞳は、人の命を奪うことに躊躇のない、冷酷な裏社会の住人のそれだった。
「奇遇だな。ヴィットーリオ・ファミリーの暗殺者として仕事に来てみれば、まさか依頼主が『聖女様』とはね」
アレンの口元に、自嘲するような笑みが浮かぶ。
その言葉を聞いた瞬間、エリアナもまた、息を呑んだ。
アレンは、手段を選ばず政敵を排除し、教会の裏金を使って暗殺者を雇おうとしているエリアナの『腹黒い暗部』を、この瞬間、完全に理解してしまったのだ。
清廉潔白な光の道を歩んでいると信じていた幼馴染は、泥に塗れた権力闘争の只中で、政敵を罠にかけようとしている。
ただの影として彼女を護り抜くと誓った幼馴染は、自らも闇に手を染め、人の命を奪う暗殺者となっていた。
互いに隠しておきたかった、一番醜い現実。
沈黙が降りた廃教会で、エリアナはギュッと唇を噛み締め、震える声で絞り出した。
「……幻滅、した?」
神聖な祈りなど、とうに捨てた。私は目的のためなら人を呪い、陥れる。こんな薄汚れた私を見たら、あの心優しいアレンはきっと軽蔑して去っていく。
恐怖で顔を歪めるエリアナに対し、アレンは静かに歩み寄り――その足元で、騎士のように片膝をついた。
「いや」
見上げたアレンの瞳には、軽蔑の色など微塵もなかった。
あるのは、スラム時代と何も変わらない、深くて真っ直ぐな愛情だけ。
「どんなに泥に塗れていようが、俺はお前の手足だ。聖王になるんだろ?」
アレンはエリアナの震える手を取り、その甲にそっと額を当てた。
「祈り以外のすべては、俺が片付けてやる」
その言葉に、エリアナの目から一粒の涙が零れ落ちた。それは悲劇の聖女を演じるための嘘の涙ではなく、安堵と、共犯者を得た喜びの涙だった。
互いの暗部をさらし出した邂逅。しかしそれは、決して交わるはずのなかった聖女と暗殺者が、光と闇の裏表一体の『共犯関係』として、永遠の絆を結んだ瞬間でもあった。
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