太極
ある夜。
王都の裏路地にある、かつてアレンとルキウスが邂逅した場末の薄暗いバー。
「本日貸切」の札が下げられた重い扉を開け、ルキウスは静かに店内へ足を踏み入れた。
「遅いぞ、准将閣下。主役を待ちくたびれて、グラスが空になっちまった」
「申し訳ありません、ルキウス。彼に高いお酒を飲ませないよう見張っていたのですが」
カウンターには、最高級のスーツを着崩した裏社会のドンと、目立たない灰色の外套で純白の修道服を隠した真の聖女が並んで座っていた。
ルキウスは外套を脱ぎ、新調された准将の階級章が輝く軍服姿のまま、二人の隣――自らの指定席へと腰を下ろした。
「軍の再編に手間取った。……それに、主役は僕一人じゃないだろう。君たち二人が教会勢力を消してくれなければ、今回の作戦は成功しなかった」
グラスに注がれた琥珀色の酒。それは、かつてアレンがルキウスから教えられた「十七年物」の極上の酒だった。
三つのグラスが、静かに音を立てて打ち合わされる。
ささやかな、しかし世界で最も重みのある戦勝祝いの乾杯だった。
酒を一口含み、ルキウスは隣で微笑む幼馴染たちの横顔を静かに見つめた。
スラムの泥水の中で、一つの毛布を分け合い、寒さに震えながら夜明けを待っていた三人の孤児。
それが今や、一人は国の軍事と国家機構のすべてを握り、一人は宗教と民衆の心を束ね、もう一人は経済と裏社会を完全に支配している。
誰も気づいてはいない。
事実上、この大国を牛耳り、動かしているのは、場末のバーに座るこの三人なのだと。
「……なぁ、ルキウス。エリエ」
アレンがグラスの氷を揺らしながら、ふと真面目な声を出した。
「俺たちは、どこまで行くんだろうな。泥底から這い上がって、気づけば国の頂点だ。……この先、お前たちは何を見据えている?」
その問いに、エリアナが静かに答えた。
「私は、誰も泥水をすすらなくていい世界を作りたい。強い者が弱い者を踏みにじらない、確かなシステムとしての『ゆりかご』を。そのために、私は完全な聖王になるわ」
彼女の目には、かつての野心とは違う、どこまでも澄み切った慈愛と覚悟の光が宿っていた。
ルキウスは懐中時計の蓋をパチンと閉じ、淡々と口を開く。
「僕のビジョンも、結論から言えばエリアナと同じだ」
アレンとエリアナが、少し驚いたようにルキウスを見た。
「貧困や飢餓、そして戦争という現象は、国家の人的リソースを無駄に消耗させる最も非効率な行為だ。
僕は国家という機械からそれらを完全に排除し、二度とあんなスラムが生まれないような、統制された合理的なシステムを構築する。……子供が寒さに震えて死ぬような世界は美しくないからね」
合理主義の言葉でコーティングされているが、その根底にあるのは「二度とあの過酷な思いを、誰にもさせたくない」という、不器用でありながら強烈な情だ。
冷徹な軍略家の仮面の奥に隠された、昔からちっとも変わらない彼の優しさに気づき、エリアナはふっと笑みをこぼし、アレンも皮肉げに肩を揺らして笑った。
「なんだ、お前ら。結局スラムのガキのままじゃねえか」
「君に言われたくないな、アレン。君のビジョンはどうなんだ?」
「俺か? ……俺はそうだな」
アレンは残りの酒を飲み干し、獰猛で、しかしどこまでも温かい笑みを浮かべた。
「お前らが作る綺麗で眩しすぎる世界には、必ずそこからはみ出す『影』が生まれる。人間の欲望ってのは、システムじゃ縛れねえからな。だから俺は、その影を全部この手で引き受けて、裏からお前らの光を支えてやるよ。……ヴィットーリオ・ファミリーは、そのために育てた最強の番犬だ」
光の聖王。国家の歯車。裏社会の番犬。
方法は全く違う。時に致命的にすれ違い、血を流すこともあるかもしれない。だが、見据えている『星』は、あの泥の路地裏で見上げた時から、何も変わってはいなかった。
「……悪い共謀だ。僕たちを誰も止められない」
ルキウスの微かな独白は、静かなジャズの音色に溶けて消えた。
世界大戦の終わりが近づく中、実質的に国家のすべてを手中に収めた三人の幼馴染は、夜明けの来ないスラムの子供たちを救うため、自らが世界の頂点に立つという壮大な未来の青写真を、静かに、そして確かに描き切ったのであった。
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