暗躍3
戦争は泥沼化し、王都の市民生活は完全に疲弊しきっていた。
空を覆う煤煙は太陽の光を遮り、街は昼間でも薄暗い。ガソリンの代用品である魔石、砂糖、肉、そして厳しく禁止された酒。
あらゆる物資が厳格な配給制となり、民衆の頬はこけ、目には飢えと不満の暗い炎が宿っていた。
しかし、光が失われれば失われるほど、闇はより黒く、豊かに肥え太る。
「ルキウスの言う通り、禁酒法と配給制は最高に『美味い』な」
ヴィットーリオ・ファミリーの本部、分厚いカーテンが引かれたアレンの部屋。
葉巻を燻らせながら、アレンは山積みにされた札束と物品配給券を見下ろした。戦争協力という大義名分の裏側で、ファミリーはかつてない規模のブラックマーケットを構築していた。
彼が裏から手を回して違法に手に入れた配給券は、王都の闇市場へばら撒かれた。さらに、弱みを握り完全に操り人形とした輜重科の中佐を使い、前線へ送られるはずの軍事物資や高価な医療品を根こそぎ横流しさせ、法外な値段で売り捌く。
軍の協力者という強力な盾がある以上、警邏隊も迂闊には手を出せない。
かつてスラムの路地裏で生きるためのパンを奪い合っていた少年は、今や冷徹な『コンシリエーレ(相談役)』として、単なる暴力組織を国家の経済すら裏から支配する怪物へと変貌させていた。
先の襲撃の後遺症で身体の自由が利かなくなったドン・ヴィットーリオは半ば隠居状態となり、長兄のアンソニーが実質的なドンとして采配を振るっていた。
圧倒的なカリスマと武力を持つアンソニーと、影で盤面を完璧に統制するアレン。ファミリーはまさしく我が世の春を謳歌し、その繁栄は永遠に続くかのように思われた。
しかし、月が満ちれば欠けるように、物事がうまくいっている時ほど、足元に忍び寄る影には気づきにくいものだ。
このままでは王都の裏社会のすべてをヴィットーリオに喰い尽くされ、ジリ貧になると悟った他の四大ファミリーが、水面下で結託し牙を研いでいたのだ。
ある雨の夜。
屋敷の門前に、一台の黒い車が音もなく停まり、重い『荷物』が冷たい石畳の上に投げ捨てられた。
それは、表のビジネスを取り仕切っていたファミリーのもう一つの腕――次男カルロの変わり果てた骸だった。
豪雨の音さえも消え去るような、凍りつくような沈黙が屋敷を包んだ。
血の気を失い、ただ泣き崩れる部下たちの中で、アンソニーだけがカルロの亡骸の前に立ち尽くしていた。その広い背中から立ち昇る怒気は、触れれば灰になるほどのすさまじい熱を帯びていた。
「……殺す。一匹残らず、根絶やしにしてやる」
それはマフィアのボスとしてではなく、弟を奪われた一人の兄の、血を吐くような咆哮だった。
アンソニーの復讐は苛烈を極めた。彼はすぐさま単独で動き、敵対ファミリーの長男を巧妙な罠に嵌め、カルロが受けた以上の苦痛を与えて惨殺した。
だが、それでも彼の心の渇きは癒えなかった。血が血を呼び、怒りが彼から冷静な判断力を奪っていく。武闘派の構成員たちをかき集め、四大ファミリーすべてを相手取った全面戦争に突入しようと暴走を始めたのだ。
アレンは絶望的な状況を幻視した。
アンソニーの武力がいかに絶大であろうと、四つの巨大組織を同時に相手にして勝てる見込みはない。
このまま抗争が泥沼化すれば、血の気の多い彼は絶対に退かず、最終的には蜂の巣にされて殺される。
最愛の『家族』を、これ以上失うわけにはいかない。
アレンは苦渋の決断を下し、暗い寝室で静かに余生を過ごしていたドン・ヴィットーリオの元へ向かった。
事態を聞いた老いたドンは、深くため息をつき、震える手で杖を握りしめて立ち上がった。
抗争へと向かおうとする武装した部下たちの前に、車椅子に乗ったドンが現れた。
その姿は老いて病に侵されてはいたが、王都の闇を統べてきた絶対的な威厳は少しも失われてはいなかった。
「その銃を下ろせ、アンソニー」
「親父! 止めないでくれ、あいつらはカルロを……俺の弟を殺したんだぞ!」
「だからお前も死に急ぐと言うのか。馬鹿野郎が……!」
ドンの嗄れた、しかし雷鳴のような怒声が屋敷に響き渡った。
ドンはアンソニーの暴走を、何人たりとも逆らえぬ絶対の命令で押さえつけると、自ら陣頭に立ち、莫大な利益を生んでいた闇酒と配給ルートの利権の一部を敵対ファミリーに譲渡するという条件で、強制的な和平を結んだ。
それは、誇り高きヴィットーリオ・ファミリーが他組織に屈したと見なされかねない、屈辱的な決断だった。
だがドンは、己の面子や利益よりも、残された不器用な長男の命を守ることを選んだのだ。
しかし、沸騰した血を冷ますことのできないアンソニーには、その親心が届かなかった。
ファミリーの弱さを晒した屈辱。そして何より、ドンを引き摺り出し、自らの復讐の道を絶った存在への憎悪。
重苦しい静寂が支配するドンの書斎。
アンソニーの重い拳が、アレンの頬に容赦なく叩き込まれた。
床に転がったアレンは、口の中に広がる鉄の味を感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
見下ろすアンソニーの目は、赤く血走り、決定的な『断絶』の色を帯びていた。
「お前は降格だ。明日から一兵卒として扱う」
「……兄貴」
「俺をそう呼ぶな!」
アンソニーの叫びが、部屋の空気を震わせた。
「お前はいつもそうだ。冷たく計算して、一番安全な道を選ぶ。俺たちが血を流して築いた面子も、カルロの無念も、お前にはただの数字にしか見えねえんだろ。……所詮、お前には俺たちと同じ血は流れていない」
血の繋がり。
どれほど命を懸けて尽くそうと、決して越えられない絶対的な境界線。
アンソニーは忌々しげに吐き捨てた。
「もうお前を、弟とは思わない」
アレンは反論しなかった。ただ静かに立ち上がり、深く一礼をして書斎を後にした。
廊下を歩く彼の足取りは重く、影はどこまでも孤独だった。誰よりも彼らを愛し、ルキウスやエリアナのように泥に塗れてでも彼らを守り抜くと誓ったはずだった。だが、その想いは届かず突き返された。
その夜。
雨が静かに降り続く中、アレンは密かにドンの寝室へと呼び出された。
薄暗いランプの光の下、ベッドに横たわるドンはひどく老け込んで見えた。しかし、その瞳だけは昔と変わらない、深く静かな愛情を湛えていた。
「アレン。……アンソニーを許してやってくれ。あいつは、家族を愛しすぎたんだ」
「わかっています。俺のやり方が、冷たすぎました」
ドンは震える手を伸ばし、アレンの傷ついた頬にそっと触れた。
そして、誰にも聞かれないようなかすかな声で、一つの『密命』を彼に託した。
「……行け、アレン。お前には、お前にしか歩めない道があるはずだ」
荷物は、小さなトランク一つだけ。
アレンは深い夜の闇と同化するように、黒いコートの襟を立てた。振り返ることはしない。この雨が自分の足跡をすべて消してくれることを祈りながら、彼は無言でヴィットーリオ・ファミリーの本拠地を後にした。
それは社会の根幹を揺るがす、さらに巨大な破滅の始まりであることを、ドン・ヴィットーリオ以外は、今はまだ誰も知らなかった。
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