暗躍1
王都最大の物流拠点である王立第一港湾。その深夜の海面は、まるで地獄の釜の底のように赤々と照らし出されていた。
開戦に伴い、莫大な予算をつぎ込んで急造された最新鋭の軍用輸送船。それが、出港の朝を待たずして突如として巨大な火柱を上げたのだ。
燃え盛る重油の臭いと、怒号が飛び交う港湾。警邏隊が慌ただしく駆け回るが、犯人の影すら掴めない。これは単なる事故ではない。敵国の工作員による、極めて周到な破壊工作だった。
事態を重く見た軍情報部は、焦燥に駆られていた。これ以上兵站を絶たれれば、前線は一ヶ月と持たない。しかし、広大で複雑な港湾施設において、無能な警邏隊にネズミを狩る能力はない。
そこで、実質的に軍情報部を裏から操っている参謀本部――ルキウス・特務機関の意向により、一つの極秘裏の接触が図られた。
相手は、王都の闇を牛耳るヴィットーリオ・ファミリー。
「港湾労働組合は、末端の荷揚げ人夫に至るまで、完全に俺たちのシマ(領分)だ。誰がよそ者で、誰が不審な動きをしているか。……俺たちの目からは、ネズミ一匹逃げられやしない」
深夜。人気のない第十三倉庫の中で、ファミリーの顔役として交渉の場に出たアレンは、軍の特務将校を前に葉巻の煙を揺らしながら不敵な笑みを浮かべた。
「マフィアの貴様らに、国家の防衛を任せろと言うのか!」
「任せろとは言ってない。俺たちが『掃除』をしてやるから、黙って見ていろと言っているんだ」
アレンの要求はシンプルだった。港湾部における、ヴィットーリオ・ファミリーの『絶対的な自治権の黙認』
背に腹は代えられない軍がその契約に首を縦に振ったその夜から、アレンによる血も涙もない、冷酷な港の『掃除』が始まった。
数日後の深夜。海霧が立ち込める王立港湾の片隅で、敵国の工作員が息を潜めていた。
彼の目的は、新たに建造された弾薬輸送船の底に、時限式の魔力発火装置を仕掛けること。警邏隊の巡回ルートは完全に把握している。絶対の自信を持って、彼は装置の起動符に魔力を流し込もうとした。
――その時だった。
ふと、首筋にぞくりと冷たいものが走った。
背後には誰もいない。足音も、衣擦れの音も、一切の気配すら感じない。
だが、まるで古くから語り継がれる恐ろしい怪談のように、見えない『死の気配』だけがそこにあった。背後に立つ何者かが、自身の命を刈り取るために、冷たい息を殺して覗き込んでいるような、原始的な恐怖。
工作員が震える手でナイフを抜こうとした瞬間。
虚空から突如として現れたアレンの刃が、一切の慈悲もなく工作員の頸動脈を深く切り裂いていた。
「……っ、が……!?」
「三流だな。火薬の匂いが染み付いてるぜ」
声を発する間もなく、工作員の体は音を立てることなく暗い海の底へと沈められていった。
アレンの『息を止めている間は認識されない』スキル。それは、夜の港において彼を真の亡霊へと変えた。
闇に紛れて破壊工作を企てていた敵国のスパイたちは、誰一人として背後の暗殺者に気づくことなく、怪談の犠牲者のように次々と海へ消えていったのである。
アレンの掃除は、外部からの敵だけに留まらなかった。
翌日の昼。過酷な労働環境と低賃金に不満を募らせた一部の港湾労働者たちが、労働組合の支部前でピケを張り、大規模なストライキを企てていた。荷運びが止まれば、軍の機能は麻痺する。
「ふざけるな! 俺たちを使い捨てのボロ雑巾みたいに扱い上がって! ストライキだ!」
気勢を上げる労働者たちのに、数人の屈強な男たちを連れたアレンが静かに姿を現した。
彼は怒鳴りもせず、ただ懐から重厚な拳銃を抜き放ち、ストライキの首謀者の足元へ向けて一切の躊躇なく発砲した。
鼓膜を劈く銃声。首謀者が悲鳴を上げて尻餅をつき、群衆が凍りつく。
硝煙を漂わせながら、アレンは獲物を見下ろすような冷たい瞳で労働者たちをねめつけた。
「国が負ければ、俺たちのビジネスも終わる。今は軍の荷運びを最優先しろ」
「な、なんだと……!? 俺たちにはストライキの権利が……!」
「俺のシマにそんなもんはない」
アレンは銃口を、今度は首謀者の額へとピタリと突きつけた。
「逆らう奴は、明日の朝には港の養分だ。……仕事に戻るか、魚の餌になるか。三秒で選べ」
圧倒的な暴力と、その背後のヴィットーリオ・ファミリーという絶対的な恐怖。
労働者たちは震え上がり、誰一人として逆らうことなく、無言で荷降ろしの仕事へと戻っていった。
アレンの冷徹な管理下において、王立港湾はかつてないほどの防衛網と、作業効率を叩き出した。
スパイは消え、労働者の反乱は暴力によって統制される。
軍事物資は滞ることなく、前線へと送り出され続けた。
後に軍上層部は、「裏社会のクズども」がもたらした治安維持に頼り切り、彼らを手放せなくなるほどの依存状態へと陥っていくこととなる。
これは後に『アンダーワールド協定』と呼ばれ、国家と裏社会が、互いの利益のために結託した最初の歴史的事件となった。
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