戦場の白い天使
参謀本部の分厚い防音扉の奥。紫煙に巻かれた円卓で、幼馴染のルキウスはエリアナの提案書をテーブルに放り投げ、ひどく冷たく、無機質な声でこう評した。
『前線での応急処置による兵力の生存率向上、ならびに後方施設の衛生管理。……実に合理的で、兵站の無駄を省く素晴らしい「戦術」だ』
ルキウスにとって、兵士は盤面を構成する『駒』であり、エリアナの医療改革案は、使い捨てられていた駒を再利用するための極めて優秀な『システム』に過ぎなかった。
だからこそ彼は、軍上層部を理詰めで説き伏せ、エリアナに莫大な予算と権限を与えた。軍の損耗を抑えるという目的において、二人の利害は完全に一致していたからだ。
だが、究極の合理主義者であるルキウスには、決定的に見落としているものがあった。
人は、ただ血を止められ、腹を満たされただけでは動かない。人が真に命を懸けるのは、システムに対してではなく――『救済』に対してであるということを。
戦火の音すら途絶えた暗闇の夜。
最前線から少し離れた野戦病院内部に急造された無数の病床で、兵士たちは苦痛に呻き、孤独に震えていた。
エリアナの構築した『システム』は、完璧に機能していた。
前線に配置された衛生兵たちが即座に止血を行い、泥を洗い流す。
後方に運ばれた兵士たちは、煮沸消毒された清潔な布と真水によって手当てを受け、確実に命を繋ぎ止めていた。軍の致死率は劇的に低下し、ルキウスの思惑通り、兵站の無駄は大きく省かれた。
回復術は傷を癒やす。
だが、それはどこまでも肉体的なものに過ぎない。
ひとの心は、いかなる高度な魔術とて癒やすことが出来ない。
血の匂いと、死への恐怖。明日またあの泥濘へ戻らなければならないという絶望。
彼らは怯えていた。
夜の闇を。
朝が来ないことを。目覚めないことを。
夜でもなお響く、遠くの空を裂く高射砲魔術の空気を引き裂き耳をつんざく砲の音を。
そんな漆黒の闇の中に、ほんの一条の光が射した。
ちいさな、ほのかなランプの灯り。
それが、等間隔に並べられた病床の間を縫って、ゆっくりと進む。
「大丈夫ですよ」
脂汗を流し、痛みとトラウマにもだえる兵士の横へと、灯火はやってきた。
そうして、優しく語りかけながら、熱を持った額を冷たいタオルで拭いてやり、乱れた毛布をそっと掛ける。
泥と血にまみれた野戦病院において、彼女の纏う修道服はどこまでも白く。
死の匂いが立ち込める戦場にあってすら清い。
それは、実実上の都落ちとして最前線へ送られたはずの聖王候補――エリアナだった。
日中、最前線での応急手当と指揮を終えた彼女は、夜になると睡眠時間を削って各地の野戦病院を廻り、このような慰問を行っていた。
兵士たちの枕元には小さなリンが置かれており、何事かあればそれを鳴らすことになっている。それは、夜の闇に怯える彼らの元へ、彼女が駆けつけるための仕組みだった。
遠くで小さく、遠慮がちにリンが鳴る。
「はい」
少女が進む。
ちいさな希望の灯火を携えて。
「どうしましたか?」
「すみません…眠れなくて……」
年若い兵士が、エリアナに問われるまま、罪を告白するようにうつむきささやいた。
彼の右腕には痛々しく包帯が巻かれており――激戦の末に重傷を負ったことを物語っていた。
「では、あなたの手を握りましょう。
おとぎ話も聞かせましょう。あなたが眠りにおちるまで」
エリアナは冷たい床に膝をつき、泥の染み付いた青年の手を、自らの白く柔らかな両手で包み込んだ。
スラムで幼い頃、恐ろしい雷雨の夜にルキウスとアレンに聞かせていた、古いおとぎ話。それを、慈愛に満ちた静かな声で紡いでいく。
彼女の手の温もりと、優しく響く声に、青年の震えがゆっくりと治まっていく。
そうしてエリアナは、彼が完全に寝付くまで側にいた。
青年の瞼が落ちて、その端から安堵の大粒の涙が零れ落ちると、彼女はそっと清潔な布で目元を拭ってやって、また次の病床へと歩き出す。
「エリアナさん……」
「戦場の天使……」
「……おれたちの救い主」
「ありがとう……ありがとう……」
彼女が歩んだあと、闇に怯えていた兵士たちは自然と祈りの仕草を取っていた。
あるものは涙を流し、あるものは本物の天使を見いだしたようにして、白い少女を――小さな奇跡を――感謝と畏敬の祈りを捧げ続けた。
ランプの灯りが、野戦病院の奥へと消えていく。
扉の外へ出たエリアナは、冷たい夜風を浴びながら、ランプの火をふっと吹き消した。
先程までの慈愛に満ちた聖女の表情は、暗闇の中でひっそりと、暗い影を落とした。
ルキウスが盤面で動かしているのは、ただの『物理的な軍隊』だ。命令によって肉体を縛ることはできても、心まで縛ることはできない。
だが、死の淵から救い上げられ、絶望の夜に手を握りしめられた兵士たちは違う。彼らは、エリアナのためならば喜んでその命を投げ出すだろう。
この『ランプを持つ天使』の噂は、退役した負傷兵たちの口伝によって、またたく間に王国中の平民たちへと広まっていく。
(ルキウス。あなたは私を、軍の生存率を上げるための道具と思っていて構わない)
エリアナは見えない王都の空を見上げ、悲しげにつぶやいた。
(あなたがシステムとして動かしているこの軍隊も、心があるのよ)
世界大戦という巨大な絶望。
戦場の天使は、その歩みを止めることはなかった。
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