実戦1
士官学校を文句なしの首席で卒業したルキウスは、『少尉』として任官した。
息をつく間もなく彼が投入されたのは、隣国との国境地帯で数年にわたり泥沼化していた最前線、通称『腐肉の塹壕』だった。
空を覆う鈍色の雲、絶え間なく続く敵の砲撃、そして死体と排泄物が混ざり合った腐臭。
ルキウスが指揮を任された小隊は、敵の奇襲によって本隊から分断され、圧倒的多数の敵軍に三方を完全に包囲されていた。援軍の望みは絶たれ、孤立無援。
薄暗い防空壕の中では、歴戦の古参兵たちでさえ絶望に項垂れ、震える手で家族への遺書を書き始めていた。
しかし、泥に汚れた軍服を纏う若き少尉だけは、欠けた懐中時計の秒針を見つめながら、まるで午後の紅茶の時間を告げるかのように淡々と命令を下した。
「右翼の機関銃座を放棄しろ。全員、左翼の防空壕へ後退。……五分後、敵は必ず右翼の空いた穴から突撃してくる」
「なっ……何を狂ったことを言っておられるのですか、少尉殿!」
遺書を書いていた古参の軍曹が、血相を変えてルキウスに詰め寄った。
「右翼を放棄すれば、防衛線に大穴が開きます! そこを抜かれれば、我々は背後から撃たれて全滅だ!」
「いいから下がれ。僕の命令は絶対だ」
「ふざけるな! 士官学校上がりの青二才が、俺たちを犬死にさせる気か!」
軍曹がルキウスの胸ぐらを掴み上げた、その時だった。
ルキウスの氷のように冷たく、底知れぬ深淵を覗き込むような瞳と視線が交差した。
「……っ」
歴戦の軍曹が、死の恐怖よりも深い『異質な何か』に当てられ、思わず手を離して後ずさる。
「敵の指揮官は、慎重だが手柄に飢えている。三方を包囲してなお突撃してこないのは、我々の反撃を恐れているからだ。……ならば、明確な『餌』を与えればいい」
ルキウスの脳内で、戦場の状況が組み上がる。
地形、天候、敵兵の疲労度、そして指揮官の心理状態。すべてのデータが噛み合った瞬間、ルキウスはついに自身のスキル《軍師》を解放した。
『――右翼からの突撃を、確定する』
それは予知ではない。因果律への強制介入。
敵の指揮官の脳に、「右翼の守りが崩れた。今なら無傷で突破できる」という『抗えない戦術的錯覚』を植え付け、その行動を強制させる悪魔の力。
ルキウスの言葉通り、ぴったり五分後。
防備の手薄になった右翼の塹壕へ向けて、敵の歩兵部隊が怒涛の如く雪崩れ込んできた。完全なる突破を確信し、勝鬨を上げる敵兵たち。
だが、そこはすでにルキウスが緻密に設計した『死地』だった。
放棄された機関銃座の下、そして塹壕の底。そこには、陣地に残されていた大量の地雷と、かき集められた爆薬のすべてが密集して仕掛けられていた。
すべては、敵主力部隊を一点に誘い込み、一網打尽にするための完璧な罠。
「起爆しろ」
懐中時計を閉じるルキウスの冷たい声と共に、起爆装置が押し込まれた。
直後、鼓膜を破る轟音と、大地を揺るがす猛烈な爆発が右翼の塹壕を吹き飛ばした。突撃してきた数百の敵兵は、悲鳴を上げる間すら与えられず、凄まじい業火と土砂に呑み込まれ、文字通り一瞬で消し飛んだ。
敵の動きを完全に『確定』させていたからこそ成立した、針の穴を通すような冷酷な殲滅戦。
味方の損害、ゼロ。敵主力部隊、完全撃破。
土煙が晴れた後、すり鉢状にえぐれた巨大なクレーターと、炭化した敵兵の残骸を見下ろしながら、部下たちは腰を抜かし、神でも見るかのような目で若き少尉を畏怖の眼差しで見つめていた。
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