第9話 月夜の越境
ダルムレン長城から700歩ほど離れたところで御者は馬車を止めた。流石にこの距離なら矢は届かないだろう。
客室の中でイレーヌが苦痛に顔を歪めている。ブランはイレーヌの胸部と腕に刺さった矢を慎重に抜いた。
「いたっ」
「大丈夫ですか?」
「痛いですが死にはしません。念のため胸当てを装備してきて幸いでした」
胸部は軽傷だが、腕からはまだ血が流れている。
ブランは懐からメモ帳を取り出し、ページをめくりながら左手を横に広げた。
「えーっと、包帯は…… あった。【引出 】151番」
ブランの左側に亜空間に繋がる銀円が現れ、そこから包帯を取り出した。
そしてイレーヌの腕に巻いた。包帯が血の赤でにじんでいく。
「一応止血だけ。早めに医者に診てもらってください。──本当は拙が土術を使えるといいのですが」
ブランが土術使いなら【土術:精力移送】で体力回復が可能だったろう。しかし彼は風術使いである。反属性である土術は使用できない。
「ありがとうございます。十分ですよ」
御者が客室に入ってきた。しぶい顔をしている。
「イレーヌさん、これからどうすんだい? 帰っていいのかい?」
あんな矢の雨はもう勘弁と顔に書いてあった。本音を言えば危険手当を要求したい所だろう。
「そうですね、残念ですが」
イレーヌが諦めを口にするとブランがすかさず割って入った。
「諦めるのは早いです。まだチャンスはあります」
「チャンスはあるって…… もう一回長城に近づけってのかい? あっしはもう御免だぜ。行きたいなら小僧一人で行きな」
「はい、拙一人で行きます」
御者もイレーヌも話が飲み込めずキョトンとする。ブランが言葉を続ける。
「イレーヌさん、公女は今ダルムレンの本城にいると考えていいですよね?」
「ええ。警護に向く場所は他にありませんし、今夜は本城で一泊するんじゃないかと」
「それなら拙が長城を越えて本城に潜入します」
御者が訝しげに口を挟む。
「長城を越えるってどうやって?」
「拙は【空術:反重力】という重力を低減する魔術が使えます。これで上空に浮き、その後【風術:追風】という背後から風を出す魔術で移動します。つまり空中移動で長城を越えます」
御者はポカンと聞いていたが、イレーヌはおでこを指差してブランの作戦を検討した。
「長城は越えれるでしょうね。空術使いによる空からの越境はポピュラーな手法です」
御者が驚いて声を強める。
「ええ? それじゃ長城なんて意味ないじゃないか」
それに対しイレーヌはすかざず否定する。
「とんでもない。空術使い以外は止めれるんですから意味大アリですよ」
彼女の言を補足しよう。降臨歴16世紀においてワズドネルの空術使いは一万人程度と推定されている。空術使いの兵士や諜報員は多めに見積もっても千人程度だろう。この千人以外は長城で足止めできるので効果は絶大と言ってよい。
イレーヌが細い目をさらに細めてブランに問う。
「本城に入ってからどうするつもりですか?」
「寝室を中心に探します。貴人用の部屋があるか分かりませんが、高そうな部屋から探して行きますよ」
「公女を見つけたらどうするつもりです?」
「吸血鬼を大人しくさせるには『喉を剣で刺したままにするのが有効』とイレーヌさんの本で読みました。それでいこうかと」
吸血鬼の喉に剣を刺しても即死はしないが、剣が刺さっている限り喉から空気が漏れ続けるので弱体化できる。吸血鬼とて酸素はいるのだ。
イレーヌは傷の痛みを我慢しながらさらに考える。
総統は生死は問わないと言っていたが、できれば生存状態で公女の身柄を確保したい。彼女に聞きたいことは山ほどあるのだ。
作戦を成功に導くためさらに質問する。
「公女を捕まえたあと我々との合流はどうするつもりですか?」
「今日小休憩した町で、と考えています。4日待っても来なかったら拙は死んだと思ってください」
イレーヌはゾッとした。ブランの作戦提案に淀みはなかった。なさすぎた。もしかしたらこの童顔の退魔僧は移動中ずっとダルムレン城への潜入を考えていたのか?
14歳の少年とは思えぬ執念だ。恐ろしいが「この子ならやれるかもしれない」とも思った。
「わかりました。亡命阻止の可能性がある以上、挑まねばなりません。本城へゼシカ公女を探しに行ってください」
「はい」
「ただし、危なくなったら戻ってくるように。死んだらなんの意味もないのですから。いいですね?」
ブランは一呼吸置いてややずれた返答をした。
「危なくならないようにします」
ブランはイレーヌたちと別れ長城の300歩前まで来た。歩哨に見つからないギリギリの距離だ。
この日は半月だった。月明かりがほのかに地表を照らしている。「新月だったらもっと安全だったな」と思いながら行動を開始した。
「【反重力】」
唱えるとフワリとブランの身体が宙に浮いた。【反重力】の出力を高め、城壁の三倍の高さまで浮き上がる。
遠くを見やると四角い建物が青白くたたずんでいた。ダルムレン本城だろう。
「【追風】」
ブランの背中より超自然の風が起こる。反作用により身体が小走り程度の速さで動き始めた。
高くまで飛んだので月を近くに感じる。手を伸ばせば掴めそうだと思った。
目線を下げると何人もの歩哨が地表を警戒していた。思わず口角が上がる。
「そこには誰も来ないよ」
大の大人が自分の存在に気づきすらしない。少年は全能感を覚えながら長城を越えた。
降臨歴1501年6月27日のことだった。




