↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国京都流通譚 正水 〜和菓子から始まる“本物”の価値の取り戻し〜  作者: 莵月
第三章(人の証明):巡りの証 ―流通戦―
PR
65/73

第四章 第3話 「義藤は知る」

 近江の館を発ち、伏見へ向かう。


 道はゆるやかに山へ入り、やがて逢坂の関へと続く。

 夕刻やった。


 山の端に日がかかり、空が赤く滲んでいる。

 石の道は昼の熱を残し、踏むたびにかすかに温い。


 風は下りてくる。

 乾いた土と草の匂いを含んでいる。


 人の往来は、減っていた。


 関を越える者は足早に過ぎ、

 振り返る者はおらん。


 足利義藤は、馬を下りて歩いていた。


「……境やな」


 ぽつりと漏れる。


 供の者が答える。

「はい。ここより先、京とは気配も変わります」


 義藤は、何も言わん。

 ただ、歩く。


 そのときや。

 ふと、足が止まる。


 道の脇。

 草に半ば埋もれた、小さな野仏があった。


 夕日を受け、輪郭だけが赤く浮かび上がる。


 顔は削れ、形も曖昧や。

 せやけど――

 そこに、確かに“在る”。


 その傍らに、老人が座していた。


 背は曲がり、衣は擦り切れている。

 手には数珠。


 低く、刻むように声を落とす。

「南無……南無……」


 途切れへん声や。


 義藤は、その場に立ったまま聞いていた。


 やがて、老人が目を開ける。

「……お立ちで」


 穏やかな声や。


 義藤は一歩、近づく。

「この仏――」


 少し言葉を探し、


「名は、あるのか」


 老人は、野仏を見やる。

 そして、小さく笑う。


「名、か」


 一拍。


「誰も知らん」


 義藤は眉を寄せる。

「では、どう呼ぶ」


 老人は、指で土をなぞる。

「ここは、逢坂や」


 一拍。


「せやから――」


 野仏を軽く叩く。

 乾いた音が返る。


「逢坂の仏さん、や」


 義藤は、その名を反芻する。

「……逢坂の仏さん」


 名というには、あまりに軽い。

 せやのに――しっくりと収まる。


「誰が、置いた」

 義藤が問う。


 老人は首を振る。

「分からん」


 一拍。


「せやけど」

 空を見上げる。


「誰かが置き、誰かが拝み、誰かが忘れた」


 沈黙。


「それでも、ここにある」


 風が通る。草が揺れ、影が伸びる。


 義藤は、野仏を見つめる。


 削れた顔。

 崩れかけた輪郭。


 それでも――消えてへん。


「仏はな」

 老人が言う。

「作られたもんや」


 一拍。


「せやけど、残るもんや」


 義藤が問う。

「釈迦も、か」


 老人はうなずく。

「釈迦は、人や」


 静かな声や。

「生まれて、歩いて、死んだ」


 一拍。


「せやけど」


 野仏を指す。

「仏は残る」


 義藤は、ゆっくりと手を伸ばす。


 触れる。

 冷たい。

 昼の熱は、もう抜けている。


「何が、残る」


 老人は、少しだけ考え――答える。


「巡りや」


 風が、また通る。


「人が人に渡したもん」

「それが、残る」


 義藤は、小さく息を吸う。

「……流れ、か」


 老人がうなずく。

「止まれば、消える」


 一拍。


「巡れば、残る」


 沈黙。


 遠くで、関の番の声が響く。

 日が、沈みかける。

 空が、暗みに変わる。


 義藤が言う。

「人の言葉も、同じか」


 老人は、目を細める。

「ほう」


「流れれば、残る」

「せやが」


 一拍。


「混ざれば、歪む」


 義藤の言葉に、老人は小さく笑う。

「よう見ておる」


 しばしの沈黙。


 やがて、老人が言う。

「釈迦は、道を示した」


 一拍。


「歩くのは、人や」


 義藤は、ゆっくりとうなずく。

「……伏見へ参る」


 老人は答えん。

 ただ、また数珠を繰る。


「南無……」


 その声だけが残る。


 義藤は立ち上がる。

 もう一度、野仏を見る。


 夕日は、ほとんど沈んでいた。

 せやけど――その姿は、まだ見えている。


「……残る、か」


 小さく呟く。そして、歩き出す。


 逢坂を越え、伏見へ。


 見えぬ流れの中へと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『戦国京都流通譚 正水』

目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。