第三章 第13話 「人の綻び」
伏見の流れは、止まってはいなかった。
だが――わずかな“淀み”が出始めていた。
「……おかしいな。」
蔵の裏手で、甚八が呟く。
弥七が振り返る。
「何がや。」
甚八は短く言う。
「減っている。」
「何が。」
「中身や。」
弥七の顔が変わる。
「抜かれとるんか。」
甚八は頷く。
「ほんのわずかや。」
「せやけど、確実に。」
弥七が腕を組む。
「よう気づくな、そんなもん。」
甚八は樽を軽く叩く。コン、と鈍い音。
「音が違う。」
弥七が苦笑する。
「わしには一緒にしか聞こえんわ。」
甚八は肩をすくめる。
「耳がええんや。」
弥七がすかさず返す。
「性格が疑い深いだけやろ。」
一瞬の間。甚八はわずかに口元を緩めた。
「どっちでもええ。」
空気が、少しだけ緩む。だが緊張は消えない。
その頃、表では。お葉が商人たちの間を動いていた。
「はいはい、順番やで。」
「焦らんと、ちゃんと通るから。」
柔らかな声。
だが、通すべきものと止めるものを、きっちり分けている。
一人の男が、少し強引に割り込もうとする。
「急ぎや。」
お葉は笑う。
「みんな急ぎや。」
そのまま、軽く道を塞ぐ。男の目が一瞬だけ揺れる。
その動きを、お葉は見逃さない。
「……あんた、どこの人?」
軽く聞く。男は答えない。
その一瞬の沈黙。
それだけで十分だった。
お葉はにこりと笑う。
「後ろ、並んでな。」
だがその目は、笑っていない。
場面が戻る。
甚八が、樽の底を撫でる。指先で、わずかな違いを探る。
「雑やな。」
弥七が聞く。
「分かるんか。」
甚八は答える。
「急いどる。」
「慣れてへん。」
一拍。
「中のもん、知らんやつや。」
弥七が低く言う。
「中やな。」
甚八は立ち上がる。
「表、見てくる。」
弥七がニヤリとする。
「お葉に任せとけばええやろ。」
甚八は振り返らずに言う。
「せやから行く。」
弥七が肩をすくめる。
「心配性やな。」
甚八がぽつりと返す。
「崩れるんは、一瞬や。」
弥七の表情が、少しだけ引き締まる。
その頃、お葉はさりげなく人の流れを変えていた。
「今日はこっちから回ってな。」
「こっちは後でええで。」
自然に。誰も疑わない形で。
だが――さっきの男だけは、違う場所へ誘導されていた。
細い路地。人の少ない場所。
そこに、甚八が立っている。
男が足を止める。
「……なんや。」
甚八は何も言わない。
ただ、見ている。逃げ道を塞ぐように。
やがて、男が舌打ちする。
「ちっ……」
走ろうとした瞬間――お葉が背後に立っていた。
「急ぎやったんちゃうの?」
柔らかい声。だが、逃げ場はない。
男は諦めたように肩を落とす。
甚八が低く問う。
「誰や。」
沈黙。
男はしばらく黙っていたが――やがて、吐き出すように言う。
「……運ぶだけや。」
「誰に頼まれた。」
「知らん。」
嘘だった。
甚八は一歩だけ近づく。
「もう一回。」
男の目が揺れる。
「……京や。」
弥七が後ろから現れる。
「京の誰や。」
男は唇を噛む。そして、かすかに言う。
「……金、もろたんや。」
それだけだった。だが、十分だった。
場面が変わる。
京。
宗歓が報告を聞く。
「捕まった、か。」
静かな声。影の男が言う。
「一人だけです。」
宗歓は笑う。
「十分だ。」
一拍。
「気づいた、と思うだろう。」
影の男が言う。
「違うのですか。」
宗歓はゆっくりと杯を回す。
「気づいたのは、こちらの“影”だけだ。」
「本体ではない。」
その目が細くなる。
「むしろ――」
「これで、どこまで見ているかが分かる。」
伏見。
甚八が言う。
「浅いな。」
弥七が頷く。
「先っぽや。」
お葉が腕を組む。
「せやけど、来とるな。」
清継が静かに言う。
「人で来た。」
三人が頷く。清継は続ける。
「ほな、こちらも人で返す。」
お葉が笑う。
「得意やで。」
甚八は短く言う。
「見張る。」
弥七が肩を回す。
「捕まえる。」
風が吹く。流れは、まだ止まらない。
だがその中に――確かに“敵”が入り込んでいた。
そしてそれは、まだほんの始まりに過ぎなかった。




