第三章 第8話 「香りと格」
京の東山に、張りつめた気配が漂っていた。
兵の往来が増え、寺の門は固く閉ざされる。
「動くらしいな……」
「三好か、幕府か……」
囁きは小さい。だが、確実に広がっていた。
戦の匂いだった。
その一方で――町の別の場所では、まるで違う話が流れている。
「伏見の酒、知っとるか。」
「いや、飲んだことはない。」
「ほな、なんで知っとる。」
「知らん。」
笑いが起きる。
だが一人が言う。
「ええ香りらしい。」
沈黙。
「菓子もな。」
「正水紅いうらしい。」
「日持ちするうえに、味が落ちんとか。」
「ほんまかいな。」
「知らん。」
それでも――
「気になるな。」
その一言で、人の心は動く。
東山では、戦の緊張。町では、甘い噂。
二つの流れが、同じ京を満たしていた。
その頃、伏見――
蔵の中に、静かな熱がこもっていた。源蔵が蓋を開ける。
ふわりと立ちのぼる香り。
やわらかく、丸い。
弥七が言う。
「……違うな。」
源蔵は頷く。
「伏水や。」
縁が続ける。
「鉄が少ない水は、香りを濁らせへん。」
源蔵は補う。
「柔らかい水は、麹を急がせへん。」
「せやから、整う。」
清継は静かに言った。
「時間を味にする、いうことやな。」
源蔵が笑う。
「よう分かっとる。」
そのとき――蔵の外から、控えめな声が届く。
「ご無沙汰いたしております。」
清継が振り向く。
「紹巴殿。」
里村紹巴が一礼する。
「先の茶会以来でございますな。」
自然なやり取り。それだけで、場が整う。
紹巴は香りを受け止めるように目を細めた。
「やはり……余白がございますな。」
弥七が小声で言う。
「またそれや。」
だが誰も否定しない。
そのとき――もう一つの気配が入る。
静かに、音もなく。
綾だった。
清継が視線を向ける。
「こちらも、ご無沙汰しております。」
綾は丁寧に頭を下げる。
「先の折は、ありがとうございました。」
その所作は、変わらず美しい。
だが――縁が、わずかに目を細めた。
何かに気づいたように。
綾が正水紅を手に取る。
その手つき。ほんのわずかに、ためらいが混じる。
そして、口に運ぶ。
沈黙。
やがて、静かに言う。
「……やさしい。」
その声に、わずかな震えがあった。
弥七は気づかない。
源蔵も気づかない。
だが、縁だけが見ていた。
綾の視線が、一瞬だけ遠くへ向いたことを。
――誰かを思い出すように。
綾は続ける。
「甘いのに、重くない。」
「あとに残らない。」
その言葉を言い終えたあと――ほんの一瞬だけ、息を止めた。
気づく者は、ほとんどいない。
紹巴が言う。
「それが“品”でございます。」
源蔵が続ける。
「水や。」
縁が頷く。
「伏水やな。」
清継は静かに言う。
「遠くまで行ける。」
そのとき、綾がふと呟く。
「……昔、似た味を。」
誰にも向けていない言葉だった。
すぐに口を閉じる。
弥七が聞き返す。
「なんやて?」
綾は微笑んだ。
「いいえ、何でも。」
だがその笑みは、少しだけ寂しさを含んでいた。
縁は、その様子をじっと見ていた。
何も言わない。だが、心の中で一つだけ確かめる。
――繋がっている。
理由は分からない。だが、確かに。
紹巴が静かに言う。
「見えぬうちに広がるものほど、強うございます。」
綾は小さく頷く。
「宮中でも……」
言葉を選びながら続ける。
「戦の話のあとに、“甘いものが欲しい”と。」
沈黙。
その意味を、全員が受け止める。
清継は短く言った。
「伏見は、それになる。」
風が吹く。東山へは、張りつめた風。
伏見へは、やわらかな香り。
そして――誰にも気づかれないまま、
もう一つの“縁”が、静かに結ばれていた。




