第二章 第23話 「似せるもの、奪うもの」
京の町は、ざわついていた。
声には出さぬ。
だが、確かに広がっている。
甘い噂。
軽い菓子。
日持ちする紅。
その名は、もう隠れていない。
「正水紅、か。」
低く呟く声。
暖簾の奥。
店の中は、薄暗い。
香の匂いではない。
砂糖と火の匂い。
重い、甘さ。
そこに立つのは――京屋の主。
紅の欠片を指でつまむ。
透ける色。
「……軽いな。」
口に入れる。
静かに噛む。
そして、目を閉じる。
「残らん。」
短く言う。
だが、その声には苛立ちが混じる。
「なんでや。」
誰にともなく呟く。
机に置かれた別の菓子。
自分のもの。
形は整っている。
味も悪くない。
だが――
重い。
残る。
違いは、そこだった。
「砂糖やない。」
ぽつりと。
「小豆でもない。」
一拍。
「……水か。」
視線が鋭くなる。
だが、それだけではない。
「火加減……いや、順か。」
再び口に入れる。
舌で転がす。
探る。
だが、掴めない。
「真似はできる。」
低く言う。
「せやけど――同じにはならん。」
その時、戸が開く。
風が入る。
甘さの中に、外の匂いが混じる。
使いの男が入ってくる。
「旦那。」
「堺でも、出回っとります。」
主は顔を上げる。
「早いな。」
男は頷く。
「兵庫から、流れたようで。」
一瞬の沈黙。
主は、ゆっくりと笑う。
「なるほどな。」
「流れを作ったか。」
その言葉に、わずかな興味が混じる。
だが、次の瞬間には消える。
「せやけど――」
紅を指で折る。
す、と割れる。
「流れは、奪える。」
静かに言う。
その声は、もう迷っていない。
「作り方、探れ。」
男が頷く。
「はい。」
「それと――」
主は続ける。
「止めれるもんは、止めとけ。」
その言葉は、重い。
表には出ない。だが、確実に動く。
見えぬ手が、伸びる。
同じ頃――
堺。
商人たちは、すでに動いていた。
机の上に、いくつもの試作。
色は似ている。
形も似せている。
だが――
一人が首を振る。
「違う。」
「重い。」
別の男が言う。
「甘すぎる。」
さらに一人。
「残るな。」
沈黙。
その中で、一人が言う。
「水や。」
皆が顔を上げる。
「宇治の水や。」
空気が変わる。
「取り寄せるか。」
「できるか?」
「運べばええ。」
「止められるぞ。」
「小さく運べばええ。」
その言葉に、誰も否定しない。
流れは、もう理解されている。
「……やってみるか。」
決断は、静かに下される。
同じ頃――
油座の近くは勝竜寺城。
空気は、重い。
軍の気配。
整えられた動き。
その中に、異物のように置かれたもの。
紅。
皿の上に、静かにある。
それを見ているのは――
松永久秀
細い指でつまむ。
匂いを嗅ぐ。
口に入れる。
ゆっくりと、味わう。
久秀は、紅をもう一度口に入れる。
ゆっくりと味わう。
甘さはある。
だが、残らない。
すっと消える。
「……面白いな。」
低く言う。
その声には、興味と――計算が混じる。
その背後で、
伊勢貞孝(宗歓)は動かない。
ただ、見ている。
久秀が言う。
「止めるか?」
軽く。
だが、その問いは軽くない。
宗歓は、わずかに目を細める。
「止めにくい。」
短い答え。
それで十分だった。
久秀は、ほんのわずかに笑う。
「なら――」
一拍。
風が、障子を鳴らす。
外の気配が、わずかに入り込む。
「使うか。」
その言葉は、静かに落ちる。
だが、重い。
宗歓は、すぐには答えない。
紅を見る。
その色。その軽さ。
その“残らなさ”。
やがて、ゆっくりと言う。
「……流れは、止まらん。」
肯定でも、否定でもない。
ただの事実。
久秀は頷く。
「せやな。」
そして、続ける。
「なら、どこで握るかや。」
その一言で、場の意味が変わる。
菓子ではない。
流れの話だ。支配の話だ。
風が、もう一度動く。
今度は、先ほどとは違う。
外から内へではない。
内から、外へ抜ける風。
宗歓が、それを感じる。
(……巡りが、変わったか。)
誰にも言わない。
だが、理解する。
京の中だけでは、収まらない。
水も。
人も。
物も。
外へ出る。
そして――戻らない。
久秀が立ち上がる。
「京は、揺れるな。」
何気ない言葉。
だが、その先を知っている響き。
宗歓は、静かに頷く。
否定しない。
できない。
すでに、動いているからだ。
外では、風が強くなる。
見えぬところで、いくつもの流れがぶつかり始めている。
関銭。
検め。
座。
それらは、まだ力を持つ。
だが――
それだけでは、抑えきれないものが出てきている。
宇治で生まれた紅。
小さな一つ。
だが、それはもう
止める対象ではなかった。
動きを変えるものだ。
場をずらすものだ。
久秀は、振り返らずに言う。
「見とけ。」
「おもろなる。」
その言葉を残し、去る。
宗歓は、一人残る。
静かな室内。
紅が、皿の上にある。
変わらぬ形。
だが――
同じものではない。
風が抜ける。
今度は、はっきりと。
外へ。
宗歓は、その流れを見送る。
(……京の外か。)
初めて、視線が都の外へ向く。
その先に、何があるか。
まだ、見えてはいない。
だが――
一つだけ、確かだった。
戦は、まだ始まっていない。
だが、もう避けられない。
形を変えた戦。
水のように巡り、
風のように広がるものとの戦が。
静かに、始まろうとしていた。




