第二章 第22話 「広がる紅」
兵庫の浜は、潮の匂いが強い。
朝から人が動いている。
荷が積まれ、荷が降ろされる。
魚の匂い。
塩の匂い。
その中に――
甘い匂いが混じっていた。
「それ、なんや。」
荷運びの男が、箱を覗く。
縄には、見慣れぬ結び。
”見返り結び”
目印のように、揺れている。
「菓子や。」
舟の男が言う。
「日持ちするらしい。」
男は笑う。
「そんなもんあるかい。」
そう言いながら、一つ取る。
紅。
見慣れぬ色。
少しだけ透ける。
「……妙やな。」
口に入れる。
しばし沈黙。
そして――
「……なんやこれ。」
驚きではない。
違和感でもない。
ただ、知らない感覚。
「軽いな。」
別の男が言う。
「魚食うた後でも、残らん。」
その一言で、空気が変わる。
風が、わずかに動く。
海からの風が、甘さを運ぶ。
「もう一つあるか。」
「分けろや。」
声が増える。
広がる。
一つが、二つになる。
二つが、十になる。
誰も命じていない。
だが、止まらない。
「どこから来た。」
「宇治や。」
「宇治?」
知らぬ者もいる。
だが、それでもいい。
味は、場所を越える。
「名前は。」
「……正水紅いうらしい。」
その名が、波のように広がる。
風に乗るように。
小さく。
だが、確かに。
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同じ頃――
堺の町でも。
商人たちが、静かに顔を寄せていた。
「通っとるな。」
一人が言う。
机の上に、紅。
切り分けられた断面が、光を返す。
「止められんのか。」
別の男が言う。
「小さい荷や。」
「検めきれん。」
「……しかも。」
一人が口に入れる。
しばし、目を閉じる。
外の風が、障子をわずかに揺らす。
その風に、かすかに甘さが混じる。
「悪くない。」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
「売れるな。」
誰かが言う。
その声に、全員が頷く。
だが――
一人だけ、黙っている。
風が、止まる。
「真似するか。」
問う声。
沈黙。
やがて、低く言う。
「……できるか?」
誰も答えない。
甘さは真似できる。
形もできる。
だが――
「この軽さは、なんや。」
「水やろな。」
「水で変わるもんか?」
疑問が残る。
だからこそ――
欲しくなる。
堺の商人は、静かに笑う。
「面白い。」
その瞬間、風が変わる。
海からではない。
内から、外へ抜ける風。
流れが、逆転した気配。
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同じ頃――
京。
町でも、噂が流れていた。
「知っとるか。」
「赤い羊羹やて。」
「日持ちするらしいで。」
「嘘やろ。」
「ほんまや。」
笑いながら、だが確かめるように。
風が、町を抜ける。
人の声を運びながら。
そして――
宮中。
香が、静かに焚かれている。
白く、細い煙が、天へと伸びる。
だが、その煙が、わずかに揺れる。
風が入ったのだ。
外から。音はない。
だが、空気が変わる。
座していたのは、
目々典侍
その傍らに、
綾
控えている。
「最近、妙な菓子が流れております。」
控えめな声。
だが、場を乱さぬ響き。
目々典侍は、わずかに目を細める。
「ほう。」
短く返す。
その一言で、場が締まる。
綾が続ける。
「赤く、透けるとか。」
「日持ちする、と。」
香が揺れる。
風が、わずかに強くなる。
外の気配が、ここまで届いている。
「宇治から、と申す者もおります。」
一瞬の沈黙。
目々典侍は、何も言わない。
だが、その沈黙が問うている。
「名は。」
綾が答える。
「正水紅、と。」
その名が、空気に落ちる。
静かに。
だが、重く。
その瞬間――
風が抜ける。
香の煙が、わずかに傾く。
上へではない。
横へ。
流れるように。
目々典侍は、その揺れを見る。
(……風が、変わった。)
誰にも言わない。
だが、理解する。
これは、ただの菓子ではない。
流れだ。
綾が、わずかに顔を上げる。
「……お召しになりますか。」
目々典侍は、少しだけ間を置く。
考える。
選ぶ。
そして――
「まだよい。」
静かに言う。
「流れを見る。」
その言葉に、綾は深く頭を下げる。
香が、また揺れる。
風は、止まらない。
外から内へ。
そして、いずれ内から外へ。
まだ小さい。
だが――
確かに、変わった。
宇治で生まれた紅は、
いま、見えぬところで場を動かしている。
誰にも止められず。
誰にも命じられず。
ただ――
巡る。
そして、その先で。
何が起きるかは、まだ、誰も知らない。




