第二章 第21話 「最初の流れ」
宇治の朝は、少しだけ騒がしかった。
昨日と同じ川。
同じ橋。
だが、音が増えている。
舟の音。
人の声。
荷の擦れる音。
その中に――
甘い匂いが、混じっていた。
縁が布をほどく。
中から現れるのは、紅。
整えられた形。
小さく切り分けられたそれが、静かに並ぶ。
「ほんまに持つんやな。」
弥七が言う。
「一晩、置いても崩れてへん。」
清継は一つ手に取る。
指に張りつかない。
だが、乾いてもいない。
(……いける。)
「流すで。」
短く言う。
舟が用意される。
荷は、少ない。
箱も、小さい。
だが、それでいい。最初は、一つでいい。
縁が縄を結ぶ。
見返り結び。目印。
そして――道しるべ。
「どこ行きや。」
舟の男が聞く。
清継は答える。
「兵庫。」
男が眉をひそめる。
「通るか?」
その問いは、現実だった。
清継は言う。
「一つや。」
一拍。
「通る。」
男は少し考え、やがて頷く。
「……やってみるか。」
舟が離れる。櫂が、水を切る。
静かな音。
だが、その一音がやけに重い。
全てが乗っている。
失敗すれば――終わる。
成功すれば――広がる。
川が、それを運ぶ。
見送るしかない。
沈黙が落ちる。
誰も、何も言わない。
ただ、水の音だけが続く。
ぽたり、と。
時間が過ぎる。
長くはない。
だが、やけに長い。
やがて――別の舟が見える。
弥七が目を細める。
「……戻ってきた。」
早すぎる。
空気が張る。
縁が小さく言う。
「止められたか……。」
舟が着く。
男が飛び降りる。
息が荒い。
だが――
顔は、暗くない。
「通った。」
短く言う。
場が、止まる。
「ほんまか。」
弥七が詰め寄る。
男は頷く。
「ああ。」
息を整えながら続ける。
「全部は見られんかった。」
「小さい荷やったからな。」
「開けられたけど――」
一瞬、間を置く。
「食うてみたんや。」
縁が吹き出す。
「は?」
男も、笑う。
「役人がな。」
「怪しいもんやと思ったんやろ。」
清継の目が細まる。
「……で?」
男は言う。
「もう一つ寄こせ、やと。」
一瞬の沈黙。
そして――笑いがこぼれる。
弥七が腹を抱える。
「止める気ないやんけ。」
縁が言う。
「味で通ったな。」
清継は静かに頷く。
(……人や。)
制度やない。
網でもない。
最後に選ぶのは――人や。
男が続ける。
「兵庫の連中にも渡した。」
「少しやけどな。」
「……欲しがっとる。」
空気が変わる。
広がりが、見える。
まだ小さい。
だが、確かに。
流れは、生まれた。
その時だった。
橋の上に、人影が現れる。
足音が整っている。無駄がない。
弥七が小さく言う。
「……また来たな。」
静かに現れたのは、
伊勢貞孝
宗歓は、荷を見る。
箱。縄。
そして――紅。
何も言わない。
だが、すべてを理解している。
やがて、口を開く。
「通ったか。」
確認。
だが、すでに答えは知っている声。
清継は言う。
「通った。」
宗歓は、ひとつ手に取る。
指先で確かめる。
重さ。
質感。
そして、口に入れる。
誰も、動かない。
静寂。
宗歓は、ゆっくりと飲み込む。
一拍。
そして――
「……残らん。」
低く言う。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
宗歓は言う。
「止めにくいな。」
否定ではない。
認識。
清継は答える。
「止まらんようにした。」
宗歓の目が、わずかに細まる。
そして――
ほんの少しだけ、笑う。
「面白い。」
短く言う。
背を向ける。
「増えるぞ。」
それは、警告か。
それとも――認めたのか。
判断はつかない。
だが、一つだけ確かだった。
流れは、もう止まらない。
小さな一つが、通った。
それだけで、十分だった。
人が、選び始めている。
甘さで。
軽さで。
巡りで。
正水紅は、動き出した。
静かに。
だが、確実に。




