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戦国京都流通譚 正水 〜和菓子から始まる“本物”の価値の取り戻し〜  作者: 莵月
第二章(地の展開):流れを繋ぐ者たち ―縁と商い―
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第二章 第16話 「見返り結び」

 宇治の朝は、まだ光を持たない。

 宇治橋の上に、淡い霧がたちこめていた。


 川霧は低く流れ、まるで水面そのものが息をしているように揺れている。

 ひとの気配は少ない。


 かわりに、音がある。


 水の音。

 橋板を踏む、わずかな軋み。

 遠くで鳴る、寺の鐘。


 そして、まだ目に見えぬものが通り過ぎるような――気配。


 清継は足を止めた。


(……ここは。)


 言葉にならない。

 だが、わかる。


 此岸と彼岸のあわい。


 流れが、ただの水ではない場所。


「こっちや。」


 霧の向こうから、縁の声がする。

 その声は不思議と迷わない。


 清継は一歩、踏み出す。


 橋の上で、霧がふっと割れる。

 その先に、小さな店があった。


 京組紐 見返り結びの店

 「宇治結び 莵々のととのえ


 灯りは弱い。

 だが、消えてはいない。


 暗がりの中で、淡く指し示すような光。


「ここが……。」


 清継が呟く。


 縁は戸口に立ったまま、振り返る。


「迷わんやろ。」


 その言葉に、清継はわずかに目を細める。

 中へ入ると、音が変わる。


 外の水音が遠のき、代わりに糸の擦れる微かな音が満ちる。

 張られた糸が、暗がりの中でかすかに光を返す。


「変わっとるな。」


 弥七が言う。

 縁は首を振る。


「変えとる途中や。」


「途中……?」


 幸が聞き返す。

 縁は糸を一本、指にかける。


「結びはな。一回で決まるもんやない。」


「何回もやり直す。」


「ほどいて、結び直す。」


 清継の目が動く。


(……見返り。)


 縁は糸を結ぶ。

 一度、結ぶ。

 そして、ほんの少しだけ戻す。


 だが――ほどけない。


「これが見返りや。」


 静かに言う。


「戻るためやない。」


 一拍。


「迷わんためや。」


 幸が息を呑む。


 縁は続ける。


「進んでると、どっち向いとるかわからん時がある。」


「その時、ふっと振り返る。」


「どこから来たかを見る。」


 糸を軽く弾く。

 かすかな音が鳴る。


「そしたらな。」


「次に進む道が見える。」


 清継の胸に、その言葉が落ちる。


(……指し示す。)


 縁は糸を差し出す。


「結びはな、道しるべや。」


 外に出る。


 霧はまだ残っている。

 だが、少しずつ薄れてきていた。


 縁が指をさす。


「あっちが宇治上うじがみ神社。」


「こっちがあがた神社。」


「表と裏。」


「生と死。」


 風が吹く。


 霧が揺れる。


 その向こうに、わずかな光。


「その間に、流れがある。」


 川の音が強くなる。

 水が石に当たり、低く響く。

 遠くで鳥が鳴く。


 どこかで、櫂が水を切る音。


 清継は川を見る。


 流れている。

 止まらない。

 だが、急がない。


「京はな。」


 縁が言う。


「流れを決める場所や。」


「せやけど、ここは違う。」


 一歩踏み出す。


 霧の中へ。


「流れを見失わん場所や。」


 弥七が腕を組む。


「で、どうする。」


 縁は答える。


「すぐには動かへん。」


「まず、結ぶ。」


「人を。」


 川霧の向こうで、舟の影が揺れる。


 まだはっきりとは見えない。

 だが、確かにある。


「渡辺も、兵庫も、尼崎も。」


「いきなり繋がる思うか?」


 縁が笑う。


「無理や。」


「せやから、見失わん結びを作る。」


 清継が呟く。


「見返りか……。」


 縁は頷く。


「迷わんための結びや。」


 幸が不安そうに言う。


「でも……流したら、また乱れませんか。」


 少し沈黙が落ちる。


 水音だけが続く。

 清継が口を開く。


「整えるもんは、いる。」


 弥七が顔を上げる。

 清継は続ける。


「せやけどな。」


「止めるんやない。」


 霧の向こうに、朝の光が差し始める。


「巡らせながら、整える。」


 その言葉は、静かに空気を変える。


 幸が言う。


「……どうやって。」


 清継は川を見る。


「水や。」


「流れを知っとるやつ。」


 縁が短く言う。


「おるで。」


 一拍。


「石清水や。」


 その名で、空気が締まる。


 弥七が呟く。


「八幡か……。」


 縁は頷く。


「あそこは、水を“扱う”場所や。」


「流れも、人も。」


 清継の中で、宗歓の言葉がよみがえる。


 “整えられた流れを見せてやろう”


 清継は小さく言う。


「……茶か。」


 縁が笑う。


「せや。」


「茶はな、水で変わる。」


「同じ葉でも、味が変わる。」


 川霧の向こうで、光が強くなる。

 暗がりに差し込む、淡い光。


 清継の中で、線が繋がる。


 流れ。

 水。

 整え。


 そして――


「人か……。」


 縁は頷く。


「人も同じや。」


 沈黙が落ちる。


 だが、それは迷いの沈黙ではない。

 道が見えた沈黙だった。


 清継は言う。


「行こう。」


 一歩、前へ。

 霧の中へ。


「石清水へ。」


 その足取りは、もう迷わない。


 宇治橋の上で始まった流れは、まだ小さい。


 だが確かに。


 指し示された道を、進み始めていた。


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