第二章 第17話 「水の記憶」
瀧本坊の座敷は、静かだった。
だが、無ではない。
香が、ある。
かすかに焚かれた香木の匂いが、空気の奥に溶けている。
甘くもなく、強くもない。
ただ、輪郭だけを残して漂っている。
畳の匂い。
乾いた草の香りに、わずかな湿り気が混じる。
外の水の気配が、室内に入り込んでいた。
清継は一歩、足を踏み入れる。
足裏に伝わる、畳のやわらかさ。
音は、ほとんどない。
だが、完全な静寂ではない。
風が障子をかすかに鳴らし、遠くで水が落ちる。
ぽたり、と。
その一音が、やけに遠くまで響く。
(……軽い。)
空気が違う。
重さがない。
だが、薄い刃のように張り詰めている。
余分なものが、削ぎ落とされている。
床の間に、一幅の掛軸があった。
淡い墨。
にじみ。
掠れ。
霧の中に、寺がある。
いや――あるように“感じる”。
鐘の音が、聞こえそうになる。
だが、鳴らない。
鳴らないからこそ、耳が探す。
「……牧谿やな。」
低い声が、静寂に溶ける。
振り向くと、一人の男が立っている。
細身の体。
衣の擦れる音さえ、ほとんどしない。
だが、その気配ははっきりとある。
里村紹巴
「煙寺晩鐘図。」
紹巴はゆっくりと歩み寄る。
畳がわずかに沈む。
その感触すら、伝わる気がする。
「ええ趣味や。」
清継は掛軸に目を戻す。
匂いが変わる。
いや、意識が変わる。
香の奥に、墨の乾いた気配を感じる。
(……音が、ない。)
だが確かに、そこには“響き”がある。
紹巴が言う。
「この絵な。」
「何も描いてへんように見えるやろ。」
声は低い。
だが、空気を揺らす。
「せやけどな。」
一歩、近づく。
衣擦れの音が、わずかに鳴る。
「全部、あるんや。」
清継の指先に、空気の冷たさが触れる。
「霧も。」
「寺も。」
「鐘の音も。」
遠くで、また水が落ちる。
ぽたり。
「見えへんだけでな。」
その言葉に、清継の呼吸がわずかに変わる。
吸う。
吐く。
空気の温度が、わずかに違う。
紹巴は微かに笑う。
「これが“間”や。」
沈黙が落ちる。
だが、それは空白ではない。
匂い。
温度。
音。
すべてが、そこにある。
「言葉も同じやで。」
「言わんから、伝わる。」
清継は言う。
「……流れも同じやな。」
声が、空気に溶ける。
紹巴の目が止まる。
「見えへんけど、ある。」
「止めたら、消える。」
「流れとるから、響く。」
遠くの水音が、わずかに強くなる。
風が変わった。
紹巴は、ほんの少しだけ笑う。
「おもろいこと言うな。」
掛軸を見る。
「この絵も、流れとるわ。」
清継はもう一度、見る。
霧の奥。
何もない。
だが、すべてがある。
香が、まだ残っている。
消えそうで、消えない。
(宗歓の“整え”とは、違う。)
ここには、押し付けがない。
ただ、感じるだけや。
背後で、気配が増える。
足音はない。
だが、空気が変わる。
曲直瀬道三が立っていた。
「茶はな。」
声は静かだが、深い。
「この“間”を、身体に通すもんや。」
清継は息を吸う。
香が、肺に入る。
温度が、身体に広がる。
遠くで、水が落ちる。
ぽたり、と。
その一滴が、音ではなく――感覚として残る。
すべてが、繋がっていた。




