第二章 第9話 「見えているもの」
七夕の夜が明けた。
京の空は、何事もなかったように澄んでいる。
風も、穏やかだった。
――流れは戻った。
清継はそう思った。
人は茶を飲み、笑い、言葉を交わしている。
噂は消えた。
少なくとも、そう見えた。
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三条の市。
「昨日の茶、うまかったな。」
「ほんまや、噂は嘘やった。」
人の声は明るい。
荷は動く。
銭も動く。
すべてが元に戻ったように見える。
(結び直した。)
清継は胸の内でそう言い切る。
疑いは晴れた。
流れは整った。
――そう思った。
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だが。
ほんのわずかに、違う。
茶を手に取る男が、一瞬だけ手を止める。
値を聞く前に、周りを見る。
誰かの顔色を伺う。
「……まぁ、ええか。」
そう言って買う。
笑ってはいる。
だが、どこか固い。
(気のせいや。)
清継はそう片付ける。
人は元に戻るのに時間がかかる。
それだけのことだ。
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幸は、茶を渡しながら気づいていた。
「……ありがとうございます。」
礼を言われる。
だが、その目は――少しだけ遠い。
昨日とは違う。
戻っているのに、戻りきっていない。
「清継さん。」
小さく呼ぶ。
「ほんまに、戻ったんですか。」
清継は迷わず答える。
「戻った。」
その声は、はっきりしていた。
迷いはない。
だからこそ、幸は何も言えなかった。
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堺。
宗久は帳面を閉じた。
「売れてはいる。」
与四郎が頷く。
「せやけど。」
宗久は指で机を叩く。
「量が減っとる。」
「……え?」
「前より、少しだけ。」
その“少し”が問題だった。
減っているのに、気づきにくい。
崩れているのに、崩れきらない。
「妙やな。」
宗久は呟く。
「風は止んどらん。」
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禁裏。
変わらぬ静けさ。
だが、茶は戻っていなかった。
「本日の御茶は。」
「……まだ控えております。」
誰も反対しない。
誰も確かめない。
ただ、昨日と同じ判断が繰り返される。
御簾の奥。
綾は静かに座していた。
(戻っていない。)
そう分かっている。
だが、動かない。
動けない。
ここでは、風は目に見えない。
ゆえに、止めることもできない。
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京へ戻る道すがら。
弥七が言う。
「旦那。」
「何や。」
「一つ、変なことがあります。」
清継は歩みを緩めない。
「言うてみ。」
「噂。」
弥七は空を見上げる。
「消えたようで、消えてへん。」
「……どういうことや。」
「同じことを言うてるのに。」
「言い方が違う。」
清継は眉をひそめる。
「違う?」
「はい。」
弥七は指を立てる。
「前はな。」
「『あかんらしい』やった。」
「今は。」
少し間を置く。
『前に問題あったけど、もう大丈夫らしい』
清継は足を止めた。
「それの、何が違う。」
弥七は静かに言う。
「どっちも、“らしい”です。」
風は変わっていない。
ただ、形を変えただけだ。
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夕暮れ。
縁は組紐をほどいていた。
「また、ほどくんですか。」
幸が聞く。
縁は頷く。
「一回結んだもんでもな。」
「歪みがあったら、ほどく。」
「そのままにしたら、あとで切れる。」
幸は黙る。
(歪み……。)
胸の奥に、何かが引っかかる。
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清継は一人、川辺に立っていた。
流れを見る。
水は、同じように流れている。
――変わっていない。
そう見える。
だが。
小さな枝が、水面で回っている。
流れているのに、進んでいない。
「……。」
清継は目を細める。
(いや。)
(流れは、戻ったはずや。)
そう思う。
そう思いたい。
そうでなければ、説明がつかない。
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夜更け。
堺の蔵の奥。
灯りは一つ。
静かな空間で、男が帳面を眺めていた。
「……おかしいな。」
部下が顔を上げる。
「何がでございましょう。」
男は指で数字をなぞる。
「落ちてへん。」
「……は?」
「人の動きや。」
茶は売れている。
量はわずかに落ちている。
そこまでは計算通り。
だが。
「止まるはずやった。」
男は呟く。
「一度疑えば、人は止まる。」
「それが続けば、流れは痩せる。」
「せやのに……。」
帳面を閉じる。
「戻りよる。」
部下が戸惑う。
「ですが、評判はまだ揺れております。」
男は頷く。
「そこが妙や。」
「疑っとるのに、手を出しよる。」
矛盾している。
普通なら、あり得ない。
しばしの沈黙。
やがて男は、ゆっくりと笑った。
「……おるな。」
空気が変わる。
部下が息を呑む。
「誰かが。」
「流れを読んどる。」
静かな声だった。
だが確信があった。
「結び直しとるんやない。」
「歪みごと、流しとる。」
それは、ただの商いではない。
「誰や……。」
男の目が細くなる。
「面白い。」
「ようやく、話になる。」
湯を注ぐ。
茶を点てる。
その動きは、無駄がなかった。
「次は。」
一口、含む。
「“気づいとる者”を相手にする。」
その言葉は、わずかに楽しげだった。
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その頃。
京の川辺。
清継はまだ流れを見ていた。
水は流れている。
枝も、やがて流れていく。
(やっぱり、流れとる。)
そう結論づける。
だが。
それは、ほんのわずかな風の揺らぎだった。
誰かが動かしたわけではない。
ただの偶然。
ただの、人の営み。
それが。
黒幕の計算を、ほんの少しだけ狂わせていた。
そして――
そのことに。
清継は、まだ気づいていない。
風は、止んでいない。
結びは、まだ歪んでいる。
だが。
その歪みの中で、何かが静かに動き始めていた。




