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第二章 第8話 「結びの夜」

 夜の帳が降りる頃。

 石清水八幡宮の境内は、静かな熱気に包まれていた。


 笹が揺れる。

 短冊が風に鳴る。


 灯された篝火の光が、人々の顔を淡く照らしていた。


「七夕さんや。」


「今年は人が多いな。」


 京の町から、堺から、近隣の村々から。

 人が集まってくる。


 願いを持って。

 そして――不安も抱えたまま。


 ---


 境内の一角。


 清継たちは、茶の支度をしていた。


「ほんまに、ここでやるんですか。」


 幸の声は少し震えていた。


「疑われとる最中やで?」


 清継は静かに頷く。


「せやからや。」


「疑われとるもんは、隠したらあかん。」


「人の前で、確かめてもらう。」


 幸は唇を噛む。


 怖い。

 だが、逃げたくはなかった。


 その時、縁が一本の組紐を差し出す。

 白と浅葱の細い結び。


「これ、使て。」


「神事の結び方で組んだ。」


 幸が受け取る。

 指に伝わる、しっかりとした感触。


「……強い。」


 縁は笑う。


「ほどけへんようにやない。」


「守るために結ぶんや。」


 ---


 神事が始まる。


 湯立の釜から、白い湯気が立ち上る。

 祝詞が夜に響く。


 静寂。


 風が止まったように感じられた。


 やがて神職が、笹へ組紐を結びつける。


 白い紐が、闇の中でわずかに光る。


 人々が息を呑む。


(結ぶ……。)


 清継はその光景を見つめていた。


 人の願い。

 人の不安。


 すべてを受け止めるように、紐が揺れている。


 ---


 やがて、場が少し緩む。

 清継は一歩前へ出た。


「宇治の茶でございます。」


 ざわめきが走る。


「ほんまに大丈夫なんか?」


「噂と違うんか?」


 視線が集まる。

 疑いと期待が入り混じる。


 幸が前へ出る。

 手は震えていた。


 だが、止めない。


 ――その時。


 幸は、茶筒の横に置いてあった小さな壺へ手を伸ばした。


 蓋を開ける。


 ふわり、と。

 香ばしい香りが、夜の空気に溶けた。


「……なんや、この匂い。」


 誰かが呟く。


「茶……か?」


 それは、ほうじ茶だった。


 強くはない。

 だが確かに、そこにある。


 火で煎った、やわらかな香り。


 囲炉裏の火。

 夕暮れの家。

 人が帰る場所の匂い。


 ざわついていた空気が、わずかに緩む。


 幸は静かに言う。


「これは、いつもの茶です。」


「特別なもんやありません。」


「うちでも、どこでも、飲んでるもんです。」


 その言葉に、小さな笑いが生まれる。


「せやな……。」


「難しいもんやないな。」


 人の構えが、ほどける。

 疑いが、少しだけ遠のく。


 清継はその様子を見ていた。


(香りで、結んだ。)


 言葉ではない。

 理屈でもない。

 人の心は、もっと素直なところで動く。


 幸は、茶を点てる。


 湯の音。

 茶筅の音。


 そして、ほうじ茶の香りが静かに混じる。


 一碗。

 差し出す。


 最初の客は、年老いた男だった。


 しばらく見つめる。

 やがて、口をつける。


 一口。


 二口。


 男は目を閉じた。


 そして、息を吐く。


「……ああ。」


 それは驚きではなかった。

 安心だった。


「うまい。」


 その一言で、空気が変わる。

 次の者が手を伸ばす。


 また一人。

 また一人。

 人の輪ができていく。


 噂ではなく、“味と香り”が伝わっていく。


 誰かが言う。


「これでええんや。」


 その言葉に、さらに人が集まる。


 夜風の中。

 ほうじ茶の香りが、静かに広がっていった。


 ---


 少し離れた場所。


 御簾の影。


 綾は静かにその様子を見ていた。

 幸の手元を見る。


 茶を点てる動き。

 そして――香り。


 ふと、目を閉じる。


(……この香り。)


 遠い記憶が、かすかに揺れる。


 だが、すぐに目を開く。

 視線は、幸の指へ。


 組紐の結び。


 その動きに、わずかな震えが走る。


「……上手になりましたね。」


 その声は、誰にも届かない。


 夜風に溶けて消えた。


 ---


 さらに奥。


 闇の中。


 一人の男が立っていた。


 僧形。


 だが、その目は鋭い。

 部下が低く言う。


「茶は、問題なく出ております。」


 男は笑う。


「よろしい。」


「では次や。」


 ゆっくりと夜空を見上げる。


「人はな。」


「一度信じたものは疑わん。」


「せやけど。」


「一度疑ったもんは、二度と元には戻らん。」


 その言葉には、確信があった。


「結び直せる思うてるんやろ。」


「甘いな。」


 その男――

 松永久秀の影が、静かに夜へ溶けていく。


 ---


 境内。


 人の笑い声が戻っていた。


 茶が飲まれ。

 言葉が交わされる。


「うまかったで。」


「噂、違うやん。」


「ほんまやな。」


 少しずつ。


 少しずつ。


 結び直されていく。


 幸はその光景を見ていた。

 胸の奥が熱くなる。


「……戻った。」


 清継は首を振る。


「戻ったんやない。」


「結び直したんや。」


 空を見上げる。

 星が瞬く。

 流れる天の川。


(天も、人も、流れとる。)


 その中で。

 人は結び。

 またほどけ。


 それでも、また結び直す。


 清継は静かに息を吐いた。


「まだ終わりやない。」


 風は、まだ止まっていない。


 だが――


 この夜、確かに結ばれたものがあった。


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