第二章 第7話 「風は誰のもの」
京の風は、音もなく人の心を揺らす。
三条の市。
朝の賑わいの中に、どこか重たい空気が混じっていた。
「宇治の茶、あかんらしいで。」
「堺の組紐もすぐほどける言うてな。」
誰が言い出したのか分からない。
けれど、誰もが知っている。
そんな顔をしていた。
豆腐屋の前で立ち話をする女たち。
荷を担ぐ男たち。
旅籠の前で客引きをする者。
言葉は軽い。
だが、その軽さのまま、町全体へ広がっていく。
(風や。)
清継は立ち止まり、町を見渡した。
(見えへんのに、全部動かす。)
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幸は、茶箱を抱えたまま動けなかった。
昨日まで笑っていた店主が、今日は視線を逸らす。
「……また今度な。」
その言葉に、責める響きはない。
だが、拒まれている。
それが一番堪えた。
「何もしてへんのに……。」
ぽつりとこぼれる。
清継は静かに荷を引き取る。
「人はな。」
「悪いもんを見るから疑うんやない。」
「見えへんもんを怖がるから疑うんや。」
幸は顔を上げる。
言い返したいのに、言葉が出ない。
分かってしまうからだ。
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その頃。
禁裏は、変わらぬ静けさの中にあった。
白砂。
几帳。
風はあっても、音はない。
その中で、ひとつの小さな変化が生まれていた。
「宇治の茶が落ちたそうでございます。」
「堺の品も、どうやら粗悪なものが。」
女房たちの声は、どこまでも穏やかだった。
だが、確かめた者は一人もいない。
御簾の奥で、静かな間が生まれる。
「では、本日の御茶は……。」
「控えた方がよろしいかと。」
それだけで決まる。
宇治茶は、宮中から外された。
誰も責めてはいない。
誰も疑ってはいない。
ただ、“間違えたくない”だけだった。
その時。
御簾の奥から、やわらかな声が落ちた。
「それは、誰が決めたのですか。」
空気が止まる。
「見たのですか。」
「味わったのですか。」
誰も答えられない。
声は責めていない。
ただ、揺らしていた。
「人は。」
静かな間。
「見えぬものを恐れます。」
さらに間。
「そして恐れたものを、遠ざけます。」
一人の若い女官が、わずかに指を握りしめる。
(確かめなければ。)
その決意は、まだ誰にも知られていない。
御簾の内にいたその人――綾は、ただ静かに目を伏せていた。
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市へ戻る。
伊平は子どもたちへ木片を配っていた。
「ほれ。」
「匂うてみ。」
子どもが笑う。
「ええ匂い!」
「木もな。」
「よう喋るんや。」
その笑い声に、大人が足を止める。
ほんの少しだけ、空気が緩む。
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縁は店先で組紐を組んでいた。
娘たちが覗き込む。
「そんな細い糸で切れへんの?」
縁は首を振る。
「糸は弱い。」
一本、また一本と重ねる。
「せやけど。」
「結んだら強うなる。」
その手つきは、迷いがない。
幸はその様子を見つめていた。
(……結び直せるんやろか。)
ふと、不安が胸をよぎる。
その時。
縁が言う。
「ほどけたもんはな。」
「終わりやない。」
幸が顔を上げる。
「ほどけたから、結び直せるんや。」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
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堺では、与四郎が道端で茶を点てていた。
一碗。
また一碗。
誰に頼まれたわけでもない。
「お代はいりません。」
旅人が恐る恐る口をつける。
「……うまい。」
それだけで、隣の男も座る。
噂ではなく、一碗が人を集めていく。
宗久が呟く。
「商いいうんはな。」
「売ることやない。」
「安心して帰ってもらうことや。」
清継は深く頷いた。
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夕刻。
高台で風を受けながら、老師が言う。
「風は止められまへん。」
清継は黙って聞く。
「せやけど。」
老師は一本の松を見る。
「根を張った木は倒れん。」
伊平が笑う。
「根ぇ張るんは、時間かかります。」
老師は頷く。
「せやから急ぐな。」
「天は巡る。」
「人の心も、巡る。」
その言葉は、どこか遠く――
宮中の静けさと、同じ響きを持っていた。
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夜。
小さな居酒屋。
男たちが酒を酌み交わす。
「宇治茶あかんらしい。」
「ほんまか?」
「みんな言うてる。」
一人の老人が杯を置いた。
「飲んだんか。」
「……いや。」
「見たんか。」
「……いや。」
静けさが落ちる。
老人が言う。
「世間いうもんはな。」
「嘘を聞き慣れてしもうた。」
「せやから。」
「ほんまのことほど、疑う。」
誰も言い返せなかった。
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その夜。
弥七が戻る。
「旦那。」
「分かりました。」
「噂だけ流す者がおります。」
清継は目を閉じる。
胸の奥がざわつく。
物は壊していない。
人も傷つけていない。
だが。
(結びだけを、ほどいてる。)
空を見上げる。
細い月。
流れる雲。
月は変わらない。
揺れているのは、雲と――人の心。
清継は静かに言う。
「なら。」
「もう一度、結び直す。」
その声は小さい。
だが確かに、地に根を張る音がした。
風の中で、何かが変わり始めていた。




