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第二章 第5話 「一碗に映る月」

 堺の朝は、鐘の音ではじまる。


 港に響く掛け声。

 鍛冶場の槌音。

 魚市場の競り。

 潮の香りに混じる香木の匂い。


 町全体が、ゆっくりと目を覚ましていく。


 宗久は清継たちを町外れへ案内していた。

 喧騒から少し離れた、小さな草庵。


 竹垣の向こうでは、一人の若者が黙々と庭を掃いている。

 二十代半ばほど。

 華やかさはない。


 だが、不思議と目を引く静けさがあった。

 宗久が声を掛ける。


「与四郎。」


 若者は箒を止め、静かに一礼した。


「宗久様、お待ちしておりました。」


「こちらが伏見の清継殿や。」


 若者は清継へ向き直る。


「田中与四郎と申します。」


 その笑みは柔らかい。

 どこか春の陽だまりのようだった。


 ---


 茶室へ入ると、空気が変わった。

 狭い。

 何もない。


 豪華な道具も飾りもない。


 幸は小声で囁く。


「えらい質素ですねぇ。」


 宗久は微笑む。


「何もないように見えて、全部あるんや。」


 与四郎は炭を整え、静かに湯を沸かす。

 その所作には、まだ若さゆえのぎこちなさもあった。

 柄杓を置く位置をわずかに迷う。


 茶筅を取り上げる手が一瞬止まる。


 宗久は何も言わない。

 ただ見守っている。

 やがて、一碗の茶が清継の前へ置かれた。


「どうぞ。」


 清継は両手で茶碗を受ける。


 湯気が立つ。

 香りは控えめだった。


 口に運ぶ。

 静かに目を閉じる。


 しばらく言葉が出ない。

 与四郎は少し不安そうな顔になる。


「……いかがでしたか。」


 清継はゆっくり目を開けた。


「茶を飲んだ気ぃがしません。」


 与四郎の肩が少し落ちる。

 しかし次の言葉に、顔を上げた。


「水を飲んだ気ぃがしました。」


 宗久が静かに笑う。


「それでええ。」


 与四郎も安堵の笑みを浮かべた。


「私も、そうありたいと思うております。」


 ---


 そこへ、一人の老僧が姿を現した。

 墨染めの衣。

 静かな足取り。


 宗久が立ち上がる。


「老師。」


 老僧は軽く頷くだけで、庭へ目を向けた。

 風が竹を揺らす。

 鹿威しが乾いた音を立てる。


 誰も口を開かない。


 長い沈黙。


 幸が耐えきれず、小さく身じろぎしたころ、老師がぽつりと言った。


「今日は月が見える。」


 幸は思わず空を見上げる。


「昼ですよ。」


 老僧は微笑む。


「天には、いつも月がおる。」


 清継は老師の視線を追う。

 そこにあったのは、茶碗の中の湯だった。

 湯面に、障子越しの光が静かに映っている。


「心が静まれば。」


 老師は続ける。


「昼にも月は見える。」


「心が濁れば。」


「満月の夜でも見失う。」


 清継は茶碗を見つめた。


 揺れる湯。

 映る光。


 その姿は宇治川の水面によく似ていた。


「先生。」


「天とは、空にあるものですか。」


 老師は首を横に振る。


「天は巡る。」


「巡るものは、空にもあり、人にもある。」


「春が来て、夏が来る。」


「雨が降り、木が育つ。」


「人が出会い、別れる。」


「すべて巡りじゃ。」


 宗久が静かに言葉を継ぐ。


「商いも同じです。」


「物だけが巡るんやない。」


「人の心も巡ります。」


 与四郎は茶碗を見つめたまま、小さく言う。


「だから一碗には、天が映るんです。」


 その言葉に、清継は息を呑んだ。


 ---


 草庵を辞した帰り道。

 弥七が小走りに駆け寄ってきた。


「旦那。」


 その顔から笑みが消えている。


「堺の組紐屋で騒ぎが起きてます。」


「また、信用を奪う手口です。」


 縁が受け取った一本の組紐を見つめる。


 鮮やかな紅色。

 だが指先で撫でると、赤い色が薄く滲んだ。


 縁は静かに呟く。


「これは染めやない。」


「水が違う。」


 その一言に、清継の胸がざわついた。


 茶筒。

 香木。

 そして組紐。


 狙われているのは品ではない。


 **その土地が育んできた"本物"そのもの。**


 清継は空を見上げる。

 雲は変わらず、西へ流れていた。


 天は巡る。

 ならば、人もまた巡る。


 だが、悪意だけは、誰かが断ち切らねばならない。


 その決意が、静かに清継の胸へ芽生え始めていた。


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