第二章 第4話 「堺に残る傷」
春の海は、空の色を映して青く揺れていた。
伏見を発った荷船は、淀川をゆっくりと下り、やがて大きな海へと開ける。
潮の香りが風に混じると、清継は思わず空を見上げた。
雲は西へ流れ、白い帆もまた、その流れに身を任せている。
「天も、流れとるんですね。」
ぽつりと漏らした言葉に、船縁へ腰を掛けていた宗久が微笑んだ。
「止まっとるように見えるもんほど、よう動いとります。」
その一言に、清継は父の言葉を思い出した。
**──川を見失うな。**
あの頃は、川のことだと思っていた。
せやけど今は少し違う。
川だけやない。
風も。
人も。
商いも。
時代も。
みな、流れている。
「旦那。」
幸が甲板の向こうを指差した。
「見えてきました。」
朝靄の向こうに、幾本もの帆柱が林のように立っていた。
大小さまざまな船が港へ入り、あるいは港を離れてゆく。
南蛮船の黒々とした船体。
瀬戸内から来た廻船。
紀州の材木船。
九州から運ばれてきた塩。
明の陶磁器を積んだ唐船。
港そのものが、一つの生き物のように息づいていた。
「……これが。」
清継は息を呑む。
「堺。」
宗久は誇らしげでもなく、ただ静かに頷いた。
「京には帝がおられます。」
「堺には、流れがおります。」
「流れ……ですか。」
「ええ。」
宗久は港を見渡した。
「ここを治めとるんは、一人の殿様やありません。」
「会合衆も、職人も、船頭も、商人も、それぞれが町を支えとります。」
「誰か一人が欠けても、この町は回りまへん。」
清継は港を歩く人々を見つめた。
鉄砲鍛冶が槌を打つ音。
香木を削る匂い。
異国の言葉を交わす商人たち。
寺へ向かう僧。
魚を売る女たち。
笑う子ども。
怒鳴る荷役。
誰もが忙しい。
それでも、不思議と乱れてはいなかった。
「まるで……。」
思わず漏れた言葉に、宗久が振り返る。
「何に見えました。」
清継は少し考え、静かに答えた。
「大きな川です。」
宗久は目を細めた。
「その言葉を聞けただけで、今日お連れした甲斐がありました。」
港へ一歩足を踏み入れた、その時だった。
「宇治の旦那やな。」
聞き慣れぬ低い声が背中から飛んできた。
振り返ると、一人の老人が立っていた。
日に焼けた肌。
商人らしい身なり。
しかし、その目だけは鋭い。
宗久が軽く会釈する。
「お久しゅうございます。」
老人は宗久には目もくれず、清継をじっと見据えた。
「正水を売っとる若い衆いうんは、あんたか。」
「はい。」
「……よう来た。」
そう言うと老人は踵を返した。
「ついて来なはれ。」
宗久は小さく息をつく。
「旦那。」
「この方は、堺でも古い香木商でな。」
「昔、一つの店を潰されたお人です。」
「潰された……?」
「商売敵やおまへん。」
宗久の声が、少しだけ低くなる。
「信用を奪われたんです。」
港を吹き抜ける潮風が、一瞬だけ冷たく感じられた。
清継は無意識に空を見上げる。
白い雲が、何事もなかったように西へ流れていく。
**天は巡る。**
ならば、人の悪意もまた巡るのだろうか。
その答えは、まだ誰も知らなかった。




