第二章 第3話 「消えた香り」
春の朝。
宇治川を渡る霧は、朝日を受けてゆっくりとほどけていく。
その霧の向こうから、一艘の茶舟が伏見へ着いた。
「今年も、ええ出来や。」
舟から降りてきた老人が笑う。
日に焼けた顔。
節くれ立った手。
背には大きな茶箱。
伊平じいさんだった。
「よう来てくれはりました。」
幸が駆け寄る。
「今年の朝日山は機嫌ようてな。」
伊平は茶箱を軽く叩く。
「茶がよう育った。」
清継も笑みを浮かべる。
「楽しみや。」
その時だった。
河岸の隅から、小さな声が聞こえる。
「……宇治茶はもうあかんらしい。」
「香りが飛んどる。」
「堺でも評判落ちたそうや。」
幸の笑顔が止まる。
伊平も黙る。
清継だけが、その言葉を静かに聞いていた。
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昼。
店では常連客が首を傾げていた。
「前より香りが弱い気ぃするな。」
「味は悪ないんやけど……。」
清継は茶を淹れる。
湯の温度。
蒸らす時間。
いつも通り。
香りは確かに立つ。
(……おかしい。)
伊平にも飲んでもらう。
「いつもの茶や。」
宗久も口にする。
「ええ茶です。」
誰が飲んでも変わらない。
それでも町では「香りが落ちた」という噂だけが広がっていく。
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夕刻。
弥七が戻ってきた。
「盗まれた形跡はありまへん。」
「船頭も、馬借も潔白です。」
幸も戻る。
「町中で同じ話ばっかりです。」
『宇治茶は落ちた。』
『昔ほどやない。』
『別の茶でも変わらへん。』
誰も、自分で確かめたわけではない。
「みんな、人から聞いた話です。」
幸の声が震える。
「昨日まで笑うて買うてくれた人まで……。」
清継は静かに立ち上がった。
「伊平さん。」
「茶箱、見せてもらえますか。」
伊平は頷き、一つの茶筒を差し出した。
清継は茶葉を見る。
異物はない。
湿りもない。
蓋も合っている。
「……。」
その横で、伊平が茶筒を撫で始めた。
指先で木目をなぞる。
耳を当てる。
軽く叩く。
そして、小さく息を吐いた。
「この木ぃ……。」
全員が顔を上げる。
「覚えとる。」
「え?」
「木はな。」
伊平は茶筒を抱くように持った。
「水を覚える。」
静かな声だった。
「木は動けへん。」
「育った山の土、水、風を抱えたまま一生を終える。」
「せやから木には癖がある。」
法隆寺で聞いた口伝そのものだった。
「この茶筒。」
「ええ木や。」
「せやけど長いこと湿気を吸うた木や。」
清継が目を見開く。
「湿気……。」
宗久も茶筒を受け取り、鼻を近づける。
「なるほど。」
「香りだけ逃げる。」
弥七が腕を組む。
「茶葉やのうて、器ですか。」
「せや。」
伊平は静かに頷いた。
「茶は本物や。」
「器が、香りを殺しとる。」
その瞬間、清継の頭の中で川の流れが一本につながった。
「河岸や。」
そう言って店を飛び出す。
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河岸の荷小屋。
同じ印の茶筒が積まれている。
清継は一つずつ手に取る。
木目。
重さ。
蓋の噛み合わせ。
そして。
「違う。」
宇治で詰めた茶筒ではなかった。
外見は同じ。
印も同じ。
だが、中身を守る器だけが、古いものへすり替えられていた。
そのとき。
「その結び。」
女の声がした。
振り返ると、一人の老女が茶筒を見つめていた。
腰には色とりどりの糸。
手には組みかけの紐。
「その紐。」
「京の結びやあらへん。」
清継は目を丸くする。
「分かるんですか。」
老女は微笑む。
「結びには癖がある。」
「人と同じや。」
一本の紐をほどきながら続ける。
「急ぐ者は急ぐ結び。」
「丁寧な者は丁寧な結び。」
「結びは嘘つかへん。」
弥七が目を細める。
「旦那。」
「この人……。」
老女は軽く頭を下げた。
「縁申します。」
「組紐を生業にしております。」
そして茶筒の紐を持ち上げる。
「これは京の職人やない。」
「堺でもない。」
「誰かが真似して結んどる。」
宗久の表情が変わる。
「真似……。」
「ほんまもんを知っとる者の仕事です。」
縁は静かに言った。
その場が静まり返る。
敵は、ただの盗人ではない。
器を知り。
木を知り。
結びを知り。
流通を知る者。
その夜。
弥七は荷小屋の隅で、小さな木札を拾う。
見慣れない商印。
宗久は首を振る。
「堺の座には、こんな印はありまへんな。」
清継は木札を懐へしまう。
「茶を盗まれたんやない。」
静かに言う。
「信用を盗まれた。」
河岸を渡る夜風が、静かに吹き抜けた。
どこかで誰かが、この流れを見て笑っている。
姿は見えない。
名も分からない。
だが、清継は確信していた。
敵は、人ではない。
**人の心の流れを商う者**なのだ。




