第二章 第2話 「堺から来た風」
春の風は、京だけを吹くもんやない。
淀を下れば、やがて堺へ至る。
その風は、金も、噂も、人の思いも運んでくる。
伏見の河岸に一艘の舟が着いた。
荷を運ぶ者たちが慌ただしく動き出す。
荷札には丸に三つ星。
堺でも指折りの商家の印やった。
弥七の目が細なる。
「……えらい客が来ましたな。」
舟から降りた男は、豪奢な身なりではない。
浅葱色の羽織に、使い込まれた草履。
それでも、一歩足を進めるたびに、周りの空気が静まる。
人を従わせる威圧ではない。
人が自然と道を譲る品格だった。
男は河岸に降り立つと、まず川を見た。
流れを見つめ、小さく笑う。
「ええ川や。」
その声は穏やかだった。
清継は一歩前へ出る。
「ようお越しくださいました。」
男は清継を見る。
そして軽く頭を下げる。
「堺より参りました、宗久と申します。」
今井宗久。
その名を聞いた途端、河岸の空気が変わる。
「今井宗久やて……。」
「あの堺衆の……。」
町人たちが顔を見合わせる。
宗久は苦笑した。
「名前ばかり、一人歩きしますな。」
「商いは、人がしてくれるもんです。」
「名前がするもんやおへん。」
その一言に、清継は目を細めた。
「ええ言葉ですね。」
「ほんまですか?」
宗久は笑う。
「わしは逆に、お噂を聞いて参りました。」
「伏見に、おかしな商人がおると。」
弥七が吹き出す。
「おかしな……。」
宗久も笑う。
「菓子屋だけに。」
その場が少し和む。
しかし宗久の目だけは笑っていなかった。
「正水。」
その二文字を静かに口にする。
「堺まで届いております。」
清継は驚かなかった。
人の流れは、噂も運ぶ。
「思うたより早かったですね。」
「早いですよ。」
宗久は川面へ視線を向ける。
「人は嘘より、ほんまもんを伝えたがります。」
少し間を置き、続ける。
「特に、一度違いを知った者は。」
清継は父の言葉を思い出していた。
『人の流れは、一度失うたら戻らへん。』
宗久は続ける。
「せやけど。」
「流れは、変えられます。」
「良くも。」
「悪うも。」
その声音が少し低くなる。
「最近、堺でも妙な動きがあります。」
弥七が反応する。
「妙な?」
宗久は周囲を見回した。
聞き耳を立てる者がいないことを確かめ、小さく声を落とす。
「商人が、商いで動いてへん。」
「誰かの思惑で動いとる。」
清継の目が鋭くなる。
「誰です?」
宗久は首を横に振った。
「まだ分かりまへん。」
「せやけど……。」
少し考え込む。
「その者は。」
「金より。」
「人の流れを欲しがっとります。」
風が吹く。
河岸の旗が揺れる。
宗久はその揺れを見つめながら、ぽつりと漏らした。
「流れを握る者は、町を握る。」
「町を握る者は、国を動かす。」
その言葉に、清継は静かにうなずいた。
「なら。」
「流れは、誰にも握らせたらあきませんね。」
宗久は笑った。
「その答えが聞きたかった。」
二人は顔を見合わせる。
その瞬間だった。
河岸の向こう。
荷を運ぶ人足に紛れ、一人の男が踵を返す。
藍染の羽織。
何の変哲もない旅商人。
しかし、その目だけは二人を見据えていた。
弥七は気づく。
気づいたふりをせず、荷を担ぎ直す。
男は人混みに消えた。
「旦那。」
弥七は笑みを崩さぬまま、小さく言う。
「風が一つ、増えました。」
清継も振り返らない。
「ああ。」
「追うな。」
「流れだけ見とけ。」
「はい。」
そのやり取りを聞いた宗久は、静かに目を細めた。
(なるほど。)
(この男は、敵を追わん。)
(流れを追うんや。)
堺から吹いてきた風は、ただの春風ではなかった。
天下を揺らす嵐の、まだ誰にも見えない前触れだった。




