第二章 第1話 「淀の流れ」
春まだ浅い朝。
宇治川を渡る風は、冬の名残を含みながらも、どこか柔らかさを帯びていた。
伏見の河岸では、高瀬舟が荷を降ろし、京へ向かう馬借が忙しく荷を積み替えている。
宇治の茶、近江の米、丹波の炭、堺から届いた唐物。
人も物も、この川を通り、京へ流れていく。
清継は、その様子を黙って眺めていた。
「旦那。」
後ろから幸が声をかける。
「何を見てはるんです?」
清継は笑わず、川面へ目を向けたまま答えた。
「流れや。」
「また、その話ですか。」
幸が苦笑する。
「せやけどな。」
清継は小さく息をつく。
「川は嘘つかへん。」
流れが滞れば、水は濁る。
無理にせき止めれば、いずれ溢れる。
人も同じや。
商いも同じ。
幸はその横顔を見つめた。
「旦那。」
「ん?」
「……一つ、お聞きしてもええですか。」
「何や。」
少し間を置いて、幸が口を開く。
「旦那は、何者なんです?」
風が吹く。
舟の帆が鳴る。
清継はしばらく黙っていた。
やがて、静かに笑う。
「今まで聞かんかったな。」
「聞いてはいけへん気ぃしてました。」
「せやろな。」
その返事に、幸も少し笑った。
「わしはな。」
川の向こうを見る。
その先には、淀の方角があった。
「昔は、城におった。」
「……城?」
「淀や。」
幸の表情が止まる。
「淀城……。」
清継は静かにうなずく。
「親父が城主やった。」
その言葉に、背後で荷を担いでいた弥七の足も止まる。
「旦那……。」
「ほんまや。」
清継は苦く笑う。
「信じられへんやろ。」
弥七はしばらく黙り込み、やがて頭をかいた。
「いや……それやったら、なんでこんなとこで菓子売っとるんです。」
清継は答えず、川を見つめる。
流れだけが、音を立てていた。
「戦があった。」
短い言葉。
それだけで十分やった。
「城は守れても……。」
そこまで言って、言葉が止まる。
父の背中が浮かぶ。
夕暮れの淀。
舟を岸へ寄せる音。
鎧姿の父が、自分の肩へ手を置いた。
『清継。』
低く、よく通る声。
『城は、人を守るためにある。』
少し間を置き、父は川を見た。
『せやけど、本当に守らなあかんのは、この流れや。』
川を渡る舟。
荷を積む人。
笑う子ども。
働く女たち。
そのすべてを見つめながら、父は続けた。
『城は、また建てられる。』
『せやけど、人の流れは、一度失うたら戻らへん。』
その夜だった。
城下が騒がしくなり、遠くで鬨の声が上がった。
父は一本の麻紐を取り出し、清継の手に握らせた。
飾り気もない、ただの麻紐。
『人を縛るためやない。』
『結ぶために使え。』
父は笑った。
戦を前にした武将とは思えぬ、穏やかな笑みだった。
舟が岸を離れる。
父は岸に立ったまま、最後に一言だけ叫んだ。
『清継――』
『川を見失うな。』
その姿は、朝霧の向こうへ溶けていった。
それ以来、一度も会うてへん。
生きているのか。
討たれたのか。
それすら分からへん。
清継は麻紐を懐から取り出す。
何度も結び直し、擦り切れ、色も褪せていた。
幸は何も言えなかった。
弥七もまた、口を閉ざす。
風だけが吹く。
やがて清継は麻紐を握りしめ、小さく笑った。
「せやからや。」
「わしは城やのうて、人の流れを守る。」
その言葉は、誰かに誓うためではない。
父から受け継いだものを、自分の生き方として選び直す言葉だった。
そのとき、一艘の舟が岸へ着いた。
荷札には、堺の印。
弥七の目が細くなる。
「旦那。」
「来ましたで。」
「……ああ。」
清継は川から視線を外し、ゆっくりと立ち上がる。
堺から来たのは荷だけではない。
新しい流れもまた、この伏見へ流れ着こうとしていた。




