第32話『朱雀編』隼人火を制す
朝の診療所は、相変わらず静かだった。
けれど――ほんの少しだけ、前とは違っていた。
薬草を刻む音。
薬湯の、控えめな沸騰音。
開けた窓から抜けていく、やわらかな風。
その中に、ごく自然に隼人がいる。
朱雀は、あの日と同じように静かだった。
でも、分かる。
今は、“待てる火”になっている。
「はい次。火、ちょっと強いから慎重にね」
ルカの声に、隼人は「うん」と短くうなずいた。
診療台にいるのは、火属性の魔法師。
魔力が強くて、どうしても体に熱がこもりやすいタイプ。
隼人は迷いなく、艾を整えて火皿をセットする。
手の動きはスムーズで、指先も落ち着いている。
……少し前の自分なら、
この距離で火を扱うこと自体、ちょっと怖かったかもしれない。
でも、今は――
(……大丈夫だ)
そう思えるのが、少し不思議だった。
ルカが、ちらっとこちらを見た。
「火、暴れてないね」
「……うん」
その瞬間、患者の気が一瞬だけ揺れる。
それに応えるように、灸の火がふっと大きくなりかけた。
――前なら、絶対あたふたしてた。
「ヤバい」って思って、無理に火を抑えようとして、
むしろ煽っちゃってた。
でも今は違う。
隼人は、火をじっと見つめた。
火“だけ”を見る。
「……今じゃない」
小さく呟いて、指先で火皿の位置をわずかに調整する。
必要な熱だけを残して、
それ以上にはしない。
ルカが素直に言った。
「上手くなったね。助手っていうか……もう一人前だよ」
隼人はちょっと照れくさそうに笑った。
「……まだ、だよ」
でも、その声には、前みたいな自信のなさはなかった。
施術が終わり、患者は穏やかな顔で帰っていく。
その背中を見送ってから、ナギがぽつりと口を開いた。
「隼人」
呼ばれて、振り返る。
「……そろそろ、だね」
それだけで、全部伝わった。
隼人は、小さく息を吐く。
「……はい」
朱雀は、診療所の外で静かに待っていた。
翼を畳み、火を抑えて、まるで最初からそこにいたみたいに。
「じゃあ、行っておいで」
ナギのその言葉は――
“帰ってきてもいいんだよ”って、言ってくれているように聞こえた。
隼人は、朱雀の羽にそっと触れる。
「帰ろう」
朱雀は鳴かない。
ただ、静かに翼を広げた。
舞い上がる。
急ぐ必要は、もうない。
証明する必要も、もうない。
神殿が見えてきたとき――
不思議と、胸は騒がなかった。
朱雀が、神殿の境界へ近づいていく。
空気が、少しだけ硬くなる。
そして次の瞬間。
翼が境界に触れたとき、火脈が“試すように”脈打った。
神殿の気配が、こちらを量っている。
喉が小さく鳴ったけれど――
心は、動じなかった。
逃げたいとも、証明したいとも、思わない。
火はそこにある。
そして、自分もちゃんとここにいる。
朱雀が、境界を越える。
神殿の火は、拒絶しなかった。
無視もしなかった。
ただ、静かに――“見ている”。
石畳に降り立ったとき、隼人はようやく息を吐いた。
そのとき。
神殿の奥から、足音が聞こえた。
姿を現したのは、師だった。
いつも通りの無駄のない歩き方。
威厳のある態度。
「戻ったか」
隼人は、一歩前に出た。
「……はい」
師は、隼人と朱雀を交互に見て、ぽつりと言った。
「火はもう、行き場を失っていない。
留めることを知ったようだな」
その言葉を聞いた瞬間――
胸の奥に、小さな熱が灯る。
でもそれは、かつてのように燃え上がる熱じゃない。
もっと、静かで穏やかな、心を温める熱だった。
隼人は深く、頭を下げた。
「……ただいま、戻りました」
師は、うなずく。
「帰還だな」
そしてほんの少しだけ声を落とし、続ける。
「……だが、忘れるな。
火は“慣れた時”に、いちばん牙を剥く」
隼人は顔を上げ、
師のまっすぐな目を正面から受け止めた。
「はい」
その返事は短い。
でも、今度は――逃げない声だった。
朱雀が、静かに翼を震わせる。
熱が、神殿の空気に溶けていく。
神殿の火は、今もそこにある。
以前と同じように、燃えている。
でも今は――
もう、隼人を試すようには燃えない。
火を恐れず、
火に縛られず、
火と、共に生きる。
隼人は、もう一度だけ深く息を吸った。
そしてその胸の奥に、
静かな熱を――そっと、納めた。
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