第31話『朱雀編』隼人火を見つめ直す
シュン、という湯の沸く音が静かに響く。
窓から差し込む朝の光が、床に柔らかな幾何学模様を描いていた。
神殿のような物理的な重厚さはない。
けれど、ここには「人の命が営まれている」という
確かな情報の蓄積(匂い)があった。
隼人は診療所の入り口で、一度だけ足を止めた。
背後では、朱雀が翼を畳み、静かに控えている。
神獣がこれほどまでに気配を抑え、主人の一歩を待つなど
本来のプロトコルではあり得ない。
けれど、今の朱雀はそれが最も「最適」であるかのように
じっと佇んでいた。
隼人が扉を開けると、薬草の香りが肺の奥まで満たしてくれた。
神事の煙のような鋭さはない。
じんわりと回路を温めてくれるような、落ち着いた薫香。
「おはよう! 来たわね」
白衣の袖をまくり、手を洗っていたナギが振り返る。
「……お世話になります」 少し硬い声で挨拶する隼人に
ナギは朱雀を見上げながら悪戯っぽく微笑んだ。
「大所帯での来院ね。
……あ、でも今日は診察券はいらないわよ。
朱雀サイズのカードを発行しても、保管場所に困るもの」
朱雀が低く喉を鳴らす。
呆れているようでもあり、その場の「軽さ」を
受け入れているようでもあった。
ナギはすぐに真剣な表情に戻り、診療台を軽く叩いた。
「じゃあ、今日からは『お灸の基本』
つまり熱源の制御から始めるわよ」
ナギは朱雀に近づき、そっと声をかける。
「ここでは、燃やす必要はないわ。
抑え込む必要もない。
……まあ、天井を焼損させない程度には
気をつけてもらえると助かるけれど」
ナギの口調の奥にある「ここは安全だ」というメッセージに
隼人の胸がふっと揺れた。
「火はね、暴走したいわけじゃないの。
ただ、自らのエネルギーの『使い道』を探しているだけ。
……私たち人間と同じようにね」
朱雀が一歩前へ出ると、診療所内に静かな熱が伝播した。
だがそれは、神殿で感じた圧迫感のある熱ではない。
冬の朝、思わず手をかざしたくなるような、親密で優しい火鉢のぬくもり。
「……ここなら。燃やさなくても、いい気がします」
自然と漏れた言葉に、ナギは深く頷いた。
「ええ。ここでは火は、命を壊す側ではなく
『癒やす側』のエネルギーだもの。それに――」
ナギは隼人の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もし失敗して焦がしても、大丈夫。
一緒に片付ければいいだけよ」
その一言が、隼人の心に固くこびりついていた
「完璧主義という名の呪い」を溶かしていった。
窓から吹き抜ける風が、火と人の気配を心地よく混ぜ合わせる。
――ここなら、やり直せる。
朱雀がそっと羽を揺らした。
それが、この聖域を「認めた」という合図であることを
隼人は静かに確信していた。




