第29話『朱雀編』青龍と共に
風の杜の上空で、気圧がわずかに変動した。
隼人は、肌を撫でる大気の密度が変わったのを敏感に察知した。
(……東の、澄んだ気だ)
音もなく雲を裂き、青い影が祭壇へ向けて緩やかに旋回を始める。
東を司る青龍。
その背には、静謐な風を纏った巫女・カグヤの姿があった。
「……やっぱり、ここだったのね」
風に溶けるような声が杜に響き、青龍が静かに地へ降り立つ。
青龍の巨大な爪が石畳に触れた瞬間
淀んでいた風のノイズが、まるで浄化されるように霧散していった。
「逃げた、という顔ではないわね」
カグヤは真っ直ぐに隼人を見つめた。
そこには詰問も侮蔑もなく
ただ「観測者」としての平穏な眼差しがあった。
「……逃げたよ。でも」
隼人は視線を逸らし、くすぶる胸の内を吐き出した。
「俺がそこにいたら、大事なものを……
あの神殿を、壊しちまうと思ったんだ」
カグヤは小さく、慈しむように息を吐いた。
「火が、あなたの深層意識に応えすぎたのね。
……隼人、それはあなたが悪いわけではないわ」
隼人が思わず顔を上げる。
「火は、あらゆる感情を増幅する。
特に朱雀というシステムは、乗り手の純粋さに過敏に反応するの。
……ナギ・・黄龍の診療所も、その不具合に気づいているわよ」
「龍王からも注視が来ている。だから――」
カグヤは、迷える少年に向けて、静かに手を差し出した。
「一度、戻りましょう。朱雀の神殿へ」
「……逃げ帰れってことか?」
「いいえ。これは『撤退』ではなく、最適化のための『再起動』よ。」
風が、青龍の周囲で穏やかに渦を巻く。
その清らかな流れが、隼人の荒んだ熱を優しく冷却していく。
朱雀が静かに一歩前へ出た。
主の決断を促すように、その緋色の羽を震わせる。
「……分かった。戻るよ」
隼人は深く息を吸い込み、朱雀の首筋に触れた。
指先から伝わる熱は、先ほどまでの刺々しさを失い
どこか親密な温かさを取り戻していた。
「行こう。もう一度」
朱雀が空気を震わせて鳴き、翼を広げる。
先行する青龍の風に乗り、朱雀もまた高く舞い上がった。
熱を帯びた朱の風と、澄み渡る青の気流。
二つの異なるエネルギーが空で混じり合い
歪んでいた地脈のベクトルを正していく。
風の杜の祭壇。
かつて滞っていた祈りが
二羽の神獣が描く軌跡を追いかけるように
今、真っ直ぐに天へと抜けていった。




