003
今日は朝から何かがおかしい。
小雀からすれば、朝一で鷹代蒼に出くわした事もそうだし、その前に双子の弟達が週末遊びに行きたいとやけにぐずったのもそうだった。ついでにその所為でお弁当に入れるはずの卵焼きを少し焦がしてしまったし、急いだ為に玄関で転びかけた。
今もそうだ。
今はむしろ異常だ。
「……何なのでしょう、これは」
何故、平日のはずの今日、朝の教室に人が一人もいないのだろう。
いや、教室に人が居ないのは百歩譲ってありえない話ではないとしよう。だが、先ほどまで廊下でたむろしていたはずの生徒達までいないというのはどういう事か、小雀には分からなかった。
開きっぱなしの扉から一歩下がって、クラスタグを確認する。高等部二年B組。自分のクラスだ。間違いない。
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
小雀の記憶では、他のクラスの人間に呼び止められた蒼と別れ、それから真っ直ぐ教室へと向かったはずだった。
廊下を歩いている時にはまだ、周囲に人がいた。珍しく同じクラスの人間と行き会わず、話しかける事も話しかけられる事も無かったが、そんな時もたまにはある。
問題はその後だ。
「いや、問題はそこだな」
「……っ!」
突然背後から聞こえた声に、小雀は声も無く悲鳴を上げた。
喉から心臓が飛び出そうなくらい驚かせてくれた犯人を振り返り、更に驚く羽目になる。
「な、……なん、な」
「会話が無いって事はつまり、お互い認識してないって事だ。この状態だと[穴]に飲み込まれやすくなる」
「何を言って……」
「学校に[穴]が多いのは分かってたけど、まさかお前が適性者だったなんて思いもしなかった。まったく、俺も案外気が抜けてるのかもな」
「なにを」
「まあ運が良かった、って、言うべきかどうかは分からねーけど、朝だからあっちこっち開いてるし、学校から出るには問題なさそうなのが不幸中の幸い……」
「……何を言ってるのでございますか鷹代蒼!」
呪文のような蒼の長台詞を、小雀は思わず悲鳴のような声でぶった切ってしまった。我ながら情けない声だと一瞬後に思ったが、出してしまったものは仕方が無い。
異常な状態で、正常な顔をして喋るクラスメイトに対してこれ以上の反応をする事は、小雀の精神状態からすると極めて難しいことだったのだから。
「皆は!? ここどこなの! わけわかんない!」
「ここはどこ? やっぱりお前、頭良いな」
「話聞いてんの!?」
「聞こえてるよ」
それは聞き流しているのとどう違うんだ。
などと叫びたいのをぐっと堪えて、ついでにパニックに陥りそうな自分自身も飲み込んで、小雀は精一杯落ち着かせた静かな声で尋ね直した。
蒼は何かを知っている。少なくともこの状況がどういうものなのかを把握している。ならばとっとと聞きたいことを聞いて安心を得るのが先だ。
「それで、ここは、どこなのでございますか」
「俺も知らない」
「なんですって!?」
「名前は知らない。強いて言うなら、東京の裏側」
「裏?」
「そう、裏側だ。翠は何て言ってたかな……えーと……あいつのネーミングセンスはおかしいんだよ……」
翠というのは、たしか鷹代蒼の姉だったはずだ。だいぶ年上で、学内で同じ生徒として出会ったことは無いが、一度だけ中等部の授業参観に父兄の代わりに出席したのを見かけたことがある。
その時の蒼は、どうだっただろう。両親が来れない事にも、代わりに姉が来た事にも、何かを思っているようには見えなかった。小雀の記憶にある蒼は、いつでも自分の立場――タカシロ・コーポレーションの跡取り息子である立場を持て余して、出すぎず控えすぎない位置だけを保つのに精一杯になっている姿ばかりだ。
不意に数年前まで記憶と感情を引き戻された小雀は、無意識に顔を顰めた。ついでにどうして蒼と折り合いが悪いのかも思い出してしまったからだ。
「ああ、そうだ、思い出した」
自分の事で精一杯なのに、他人の事にばかり気が付く蒼を見ていると、鏡を見ているような気分になるからだ。
「何です」
「[幻灯区]、俺と何人かはそう呼んでる」
「げん……とう……」
「東京の裏側、第24区目、[幻灯区]」
今だってそうだ。
「そんな所に、どうしてワタシとアナタがいるんです」
「お前は迷い込んだんだ」
正常な顔をして、異常を平然と蒼は喋る。
「アナタは」
「お前を追いかけた」
「何故ですか」
「あんまり言いたくないんだけど……」
「というか、ゼロから説明して下さいまし」
「……分かったよ、けど後でな。とにかくお前は迷い込んだんだ。俺はそれを知って、お前の後を追いかけて此処に入った。信じる信じないはお前の自由だけど」
とりあえず、と、窓の向こうに見える青い青い空を背に、蒼は小雀に手を差し出した。
「確実に助けてやれる。お前が俺の事を好かないのは分かってるし、お互い様だけど、ちょっと休戦してくれねーかな」
今だってそうだ。
不要な事まで言いながら、蒼は小雀の一番欲しい安心をくれた。
これはまだ日常の延長線上にあるものなのだという事を、握った手の感触が教えてくれた。
とはいえ、夢であれば良かったと思わずにもいられなかったのだけれど。




