011
心のどこかで「もしかしてこれってドッキリなのでは?」などと考えていた小雀の儚い希望は、たった一枚の扉の開け閉めによって呆気無く崩れ去った。
鷹代市から全ての動植物を排除するというのは現実的ではないが物理的に出来ないわけではない。しかし、まるで手品のようにあの日常を出し入れする事は、どう考えても不可能だ。
夢であって欲しかった時間は決して夢ではなく、目の前で不可思議な現象を立て続けに起こされた小雀の価値観は大きく狂わざるを得なかった。
「……アナタ、弓道部でしたっけ」
「いいや?」
改めて[幻灯区]に出た蒼と小雀、ついでに何故かついてきた翠の三人は、少し広い通りのど真ん中にいた。車の心配は無いはずだったが、車道の真ん中に居るという事実に若干の落ち着かなさを感じるのは、どうやら小雀だけのようだ。
平然と立っている蒼の手には、いつの間にか弓が握られている。
咄嗟に弓道部と評したが、彼が手に持っているのはもう少しファンタジーな金属製の弓だ。西洋の物と言っていいものかどうかまでは小雀には判断が出来ないが、素手で扱う物には見えない。
矢筒も背負っていないし、そもそもそれはどこから引っ張り出して来たのだろう。
「これが俺の“力”なんだよ」
気負わず言った蒼が、スクランブル交差点へと続く道の向こうへ身体を向けた。案外と様になっている仕草で弓を構える。
弓を持つ左腕を真っ直ぐに伸ばし、右手で矢をつがえる仕草をした。仕草だけだ。実際に矢を持っているわけではない。よくよく見ると、弓には弦もかかっていないではないか。
単なるごっこ遊びのような所作で、蒼の右手がゆっくりと、見えない矢を引いた。
その瞬間、蒼の手元に何か蛍のような光が灯った様に見えて、小雀の目が細くなる。
「――――……光……?」
「見えるのか」
意外そうに聞いてきたのは、今まで眺めているだけだった翠だ。
「ええ、まあ」
話しかけられた事に吃驚して小雀は生返事をしてしまったが、翠は初めて自発的に喋ったにも関わらず全く聞いていなかった。振り返った小雀に気付いていないわけもないはずだが、完璧にスルーの空気が流れて、小雀の目が益々細くなる。自分のコミュニケーション能力はここまで低かっただろうか。
少し目を離している間に、蒼の手元の光は、弓を握る左手から右手の指先へと伸びた一本の線となっていた。
「見えたって? どう見える?」
「矢のかわりでございますか、それは」
「ご名答、と言いたい所だけど、俺にはこれ、普通の矢に見えるんだ」
「……というと?」
「イメージが先に来ちまってるんだろ、多分」
何も無い所に矢が出てくるはずが無い。
だが“力”は確かにそこに存在している。
それを知っているから、別の形に見えるのだと蒼は言う。
例えば、光のような、あやふやで分かりやすい形に。
「ちなみに、撃つとどうなるのでございますか、それは」
「[幻灯区]の物に当たっても、矢の方が消えちまうだけだよ。何も壊せない。“アレ”に当たると動きを止められる、一瞬だけどな。当たり所が良いと後退もしてくれるみたいなんだが、俺の腕じゃまだ難しい」
「当たり所と言うと」
「想像ついてるだろ? 目。実際の目かは分かんねーけどな。あいつら、壁越しでもこっちを見つけてくるし……」
「いえ」
深い黒色の中で、唯一光っていた二つの点を思い出して、小雀は背筋に薄ら寒いものを覚えた。
「目ですよ、あれは」
自分の声とは思えないほど静かに、小雀は断言した。
意表を突かれた蒼が弓矢を構える手を緩めた瞬間、その手の中から光も弓も空気に溶けるように消え失せる。
その不思議も、翠の珍しいものを見るかのような眼差しも気にせず、小雀は目を伏せて繰り返す。
「目です」
さっき“アレ”から逃げる時、小雀は確かに感じたのだ。
見られていた。
逃げる二人の背中をいつまでも“アレ”は見ていた。
敵意も悪意も好奇心も何も無い、無感情で無感動な色をした目が、確かにこちらを向いていたと、小雀は確信していた。
まるで狙いを定めたかのように。
「……。“アレ”はストーカーはしない」
「根拠は」
「無いけどな。最低限、逃げる時間を稼げるくらいの事は教えるよ」
労わるような蒼の物言いに、小雀はまた苛立ちを覚えた。
今の自分はそんなにおかしな顔をしているのかと落胆して、不意にこの苛立たしさの理由まで理解する。
蒼に腹を立てているのではなく、これは自分に腹を立てているのだ。
強くなければいけないのに、気遣われるほど弱い自分に気付かされるから、小雀にとって蒼は好かない人間なのだ。
「ええ、よろしくお願いします、鷹代蒼」
見知らぬ世界では、けれどそれも仕方が無い事だ。
だとすれば一刻も早く、普段の自分を取り戻すための根拠を手に入れる必要があった。
口にするのも馬鹿馬鹿しい、[魔法使い]になる必要があると、桃山小雀は改めて思った。




