【第2話】感情の観測と、無自覚な包囲網
窓ガラスが割れた翌日。
私はいつも以上に緊張しながら、アルヴィス様の執務室のドアを叩いた。
「失礼します、アルヴィス様。お怪我の具合はいかがですか?」
返事の代わりに、強い力で腕を引かれた。
よろめいた私の体を受け止めたのは、冷やりとした魔導師のローブではなく、彼の逞しい胸板だった。
「……アルヴィス様!?」
「動くな。観測中だ」
彼は私の肩を掴んだまま、至近距離でじっと私の瞳を覗き込んできた。
銀色の瞳が、まるで深淵のように私を射抜く。近すぎる。彼の吐息が、私の前髪を揺らすほどに。
「昨日、君の周囲に発生したあの『桃色の煙』。あれが何という感情に分類されるのか、私は一晩かけて考察した。だが、既存の魔導書には該当する色の記録がない」
「そ、それは……理屈で分かるものではなくて……」
「だからこそ、実地検証が必要だ。今、私の指が君の鎖骨に触れている。……ほう、煙が一段と濃くなったな。脈拍も上昇している。これは拒絶か? それとも苦痛か?」
彼の長い指先が、服の襟元にそっと触れる。
その無機質な動作一つひとつに、心臓が爆発しそうになる。
(……五秒後)
視界が揺れる。
予知の中で、彼は私の髪を一房掬い上げ、そこに唇を落とそうとしていた。
「待っ、待ってください! アルヴィス様、次は髪に触れようとしていますよね!?」
「……驚いたな。予知の精度が上がっている。だが、なぜ私がそうすると分かった?」
「視えるんです! でも、そういうのは、その……好きな人にだけするものなんです!」
思わず叫んで身を引くと、アルヴィス様は不思議そうに首を傾げた。
「『好き』、か。それは、特定の個体に対して執着し、自己の不利益を顧みずに優先する非合理的な精神状態のことか?」
「…………まあ、大体合ってますけど」
なんて情緒のない定義だろう。
けれど、彼は真剣な顔で私の頬に手を添えた。
「ならば、私は君に対してその状態に近いのかもしれない。エレン、君が予知で私の危機を救うたび、私の胸の奥で未知の魔力が励起するのを感じる。これは、不快ではない」
彼は淡々と、恐ろしいことを言う。
感情を理解していないはずの男に、そんな真っ直ぐな瞳で言われて、正気でいられるはずがない。
「私は決めた。君のその『桃色の煙』の正体を、私が定義する。……それまでは、他の誰にもその色を見せるな。いいな?」
それは、主従の命令というよりは、独占欲の塊のような響きを含んでいた。
三秒後の未来。
彼が満足げに微笑み、私の頭を撫でる姿が見えた。
ああ、神様。
私の未来視は、どうやら彼に振り回される未来ばかりを映し出すようです。




