6話 証明の物語
その日から、俺は書き始めた。
長編だった。
初めてだった。
終わりが見えない物語を書くのは、思っていたよりもずっと苦しかった。
「遅い」
秋はいつも通り、隣にいた。
書店でも、公園でも、部屋でも。
気づけば、そこにいる。
「文が甘い」
「うるせえ」
「内面、足りない」
「わかってる」
会話は、生きていた頃と何も変わらない。
ただ一つ違うのは。
誰も、秋を見てない。
それだけだった。
「ねえ」
ある日、秋が言った。
「ここ」
俺のノートを指さす。
「このシーン」
そこは、事故の日の描写だった。
俺が想像で書いたもの。
「これさ」
秋は静かに言う。
「時間、おかしくない?」
手が止まる。
「……どこが」
「信号、青だったって書いてる」
「……そう聞いた」
「でもさ」
秋は首を傾げる。
「その時間帯、この道の信号、赤のはずだよ」
背中が冷たくなる。
「……なんで分かる」
「だって」
秋は、当たり前みたいに言った。
「私、見てたから」
空気が、止まった。
「……は?」
「だから」
淡々と続ける。
「車、止まらなかったでしょ」
頭が、追いつかない。
「……お前」
声が震える。
「見てたって……」
「うん」
秋は頷く。
「ぶつかる瞬間も」
その言葉が、やけに鮮明に響いた。
「……おかしいだろ」
やっと絞り出す。
「どこから見てたんだよ」
秋は、少しだけ考えるようにしてから。
「さあ――」
その夜、眠れなかった。
書きかけの原稿を何度も見返す。
違和感が、増えていく。
時間。
証言。
位置。
全部、少しずつズレている。
でも。
決定的な証拠はない。
何も、断定できない。
「ねえ、音」
暗闇の中で、声がした。
「怖い?」
隣に、秋がいる。
「……別に」
強がる。
「じゃあさ」
秋は少しだけ笑った気がした。
「最後まで書いてよ」
静かな声だった。
「証明して」
その言葉は、やけに優しかった。
――それからどれくらい経ったのか。
気づけば、夏が終わりかけていた。
蝉の声も、もう弱い。
最後のページを書き終えたとき。
手が、止まった。
終わった。
長編が。
初めて、最後まで書けた。
「……できた」
小さく呟く。
隣を見る。
――秋が、いなかった。
「……秋?」
部屋は静かだった。
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「秋――」
何も、返ってこない。
そのとき、ふと気づいた。
原稿の最後のページ。
そこに、一行だけ。
覚えのない文章があった。
『面白かったよ』
心臓が、強く跳ねる。
震える手でページをめくる。
ほんのり甘い香りがした。
あのときと、同じ匂い。




