2話 翌日
書店の空気は、少し冷えていた。
外の熱気が嘘みたいに引いて、代わりに紙とインクの匂いが漂っている。
その奥に、ほんのりと甘い香りが混じっていた。
(いい匂いだな……)
無意識に、そんなことを思った。
その瞬間だった。
「あの――」
後ろから声がして、俺は反射で振り返った。
振り向く速度が、自分でも引くくらい速かった気がする。
(今の、声出てたか……?)
立っていたのは、同い年くらいの女の子だった。
黒髪。整った顔立ち。
どこか涼しげで――でも目だけは妙に強い。
「おすすめの本、ありませんか?」
「……は?」
一瞬理解が追いつかなかった。
「俺に? 本? おすすめ?」
人生で一度も言われたことのないジャンルの質問だった。
「あ、いや……その……」
頭の中で言葉が滑る。
「本、どのくらい読みますか?」
とっさに、そんなことを聞いた。
女の子は少し考えてから答える。
「ミステリが好き。たぶん、人よりは読んでると思う」
その言い方が、妙に自然だった。
自慢でも謙遜でもない。ただ事実を言っているだけ、みたいな。
「じゃあ、えっと……」
俺は知っているタイトルをいくつか挙げてみた。
けど――。
「あ、それ読んだ」
「それも好き」
「それはちょっとトリックが弱いかな」
(全部読んでる、だと……?)
最後の一冊を言い終えた時、俺の手札は完全に尽きた。
「すみません。もう紹介できる本が……」
女の子は少しだけ笑った。
からかうでもなく、困らせるわけでもなく。
ただ面白そうに。
そのとき、俺は一冊の本が目に留まった。
読んだことのないタイトルだった。
「これ……読んだことありますか……?」
指差すと、彼女は少し目を開いた。
「あるよ」
間髪入れずに、そう言った。
「すっごく面白い。おすすめ」
今度は、はっきりと笑った。
さっきよりも、少しだけ感情が乗っている。
「じゃあ、これで……」
俺はその本を手に取った。
ついでに、思い切って聞いてみた。
「あの……他にも、なんか面白い本あったら教えてくれませんか?」
女の子は頷いて、何冊か本を抜き取った。
「じゃあ、とりあえずこれ」
渡された本は、どれも知らないものばかりだった。
「すみません……俺がおすすめ聞かれたのに……」
「全然いいよ」
あっさりとした返答。
でも、どこか優しかった。
少しだけ、沈黙が落ちる――。
このまま終わるのが、なぜか嫌だった。
「あの……」
気づいたら、口に出していた。
「もし嫌じゃなかったら――俺が書いた小説、読んでくれませんか?」
女の子の目は、ぱっと開いた。
まるで、光が差したみたいに。
「もちろんいいよ」
即答だった。
「君の書いた小説、読んでみたい。」
「言っても……短編しか書けないんですけど……」
「いいよ、全然」
その言い方に嘘はなかった。
名前も知らないのに、妙に安心した。
「……夏目音です」
「久遠秋」
――短い自己紹介。
それだけで、何かが始まった気がした。




