一方その頃 洞窟にて③
ひっくり返ったまま四本の足を縮め、私はぶるぶる震えた。
決して寒いわけではない。怖い。いや、怖いっていうか、申し訳ないけどキショすぎる~~! タヌキがじゃないよ! タヌキは悪くないよ! むしろ可哀想だよ!
でも周りに散らばってるその氷の粒の中身が、ほぼ全部虫とかダニとか卵とか、そういうやつだと思うと嫌すぎる~~!
しかも、これを出したのは私である。私の魔法です。私が「ノミダニ疥癬、消えろ~~!」ってやった結果です。
自分でやっておいて自分で一番怯えている。仕方ないじゃん。魔法がもうちょっとこう、何も見せずにふわっと浄化してくれる感じだったら良かったのに、別にそんなこと無かったんだもん……。物理的に結果がお披露目される形式だったせいで……。
私が地面の上でぶるぶるしている間にも、家族はタヌキを囲んだままだった。さっきまで病気を警戒していたのに、今はそれとは別方向に警戒している。
お父さんが鼻先を少し伸ばして、タヌキの周りへ散らばった氷の粒を見る。叔父虎も見る。ガブとヴァウとナーヤなんて、さっきより明らかに興味が増していた。
「いま何て言ってるの……」
「父君は『なんだこれは』。叔父君も大体同じだね。ガブは……『さっきまでなかった』」
「うん」
「ヴァウは『動いている』」
「やめて」
「氷の話ではなく、この獣の話だよ」
「びっくりした~~!」
氷の中身が動いていたら私もう二度とここで寝られない。私は勢いよく起き上がった。タヌキがわずかに頭を持ち上げた。それを見たナーヤが一歩下がり、ガブが逆に一歩前へ出る。ヴァウは首を傾げた。
「ナーヤが『うわ、こっちを見た』。ガブは『生きてる』。ヴァウは『触っていいか』」
「駄目だよ!」
「母君もそう言っている」
お母さんの前足がすぐにヴァウの胸元へ伸び、そのままぐいっと後ろへ押し戻した。ヴァウは不満そうに耳を横へ向けたけれど、今日はお母さんも譲らない。そのままガブまでまとめて後ろへ追いやっている。
よかった。お願いだから誰も触らないで。魔法で悪いやつは全部凍ったはずだけど、絶対とは言えないし、何より今そこへ顔を突っ込まれたら、なんか嫌すぎ。穢れの概念。
タヌキの方は、自分の身体から何が起きたのか分かっていないらしい。さっきまで地面へ張りつくように伏せていたのが、今は少しだけ頭を上げ、ゆっくり自分の脇腹へ鼻先を向けている。
痒みがなくなったのかな。それならいい。皮膚そのものはまだ痛そうだし、毛も生えてないし、お腹もぺったんこだけど、少なくとも身体の中で無限にダニが増える地獄からは解放された……はず。
「フィロン、この子もう大丈夫かな」
「少なくとも、君の力が君の望んだ通りに働いたのなら、原因になっていた小さな生き物は取り除かれたのだろうね。ただ、傷んだ皮膚も衰弱した身体もそのままだ。すぐ元気になるわけではないよ」
「そっかあ」
「食べられるものが必要だろう。それから、出来れば清潔な場所で休ませたいが……」
そこまで言って、フィロンが黙った。無理だね。私たちのおうちは虎の洞窟です。清潔さについて人間の病院みたいなものを求められても困る。定期的にお母さんが寝床の草を替えてくれているので、野生動物宅としてはかなり綺麗な方だと思います。でも患者さんを療養させる設備はありません。
それにお父さんたちが許すかどうかも分からない。今のところ、食べるつもりはなくなったようだけど、おうちへ入れてあげようね、という雰囲気でもない。そりゃそうだ。突然知らない病気のタヌキが来て、我が子が何かしたら身体中から謎の氷を大量にこぼし始めたのである。
私がお父さんでも、とりあえず様子を見る。それに元気になってもふもふまるまるのタヌキになったら、あら美味しそう。子供たちのおやつにちょうどいいね、となる可能性の方が高い。我ら肉食獣。タヌキも食べます。食べたことないけど、食べるか食べないかで言ったら食べる。
そんなことを考えていると、少し離れた岩の陰からフィロンの声がした。
「ところでガウーワ。君は今、どれくらい家族から離れられる?」
「どれくらい?」
「ああ。以前は洞窟から少し離れるだけでも、すぐに連れ戻されていただろう」
「あ~~、最近は住処の周りだったら探検しても許されるようになったよ。大人が呼んだらすぐ戻らなきゃ駄目だけど」
これはかなりの進歩である。少し前までの私は、単独行動をしようものなら五分もしないうちに誰かが迎えに来る箱入りベビトラだった。
今もベビトラではあるけれど、最近は近所ならきょうだいたちや一匹でうろうろしても怒られない。私たちも自立心を育てるお年頃。危ないことをしないと家族にも少しずつ理解してもらえたらしい。
まあ、叔父虎の背中から滑り落ちたり、どったんばったんプロレスしたり、私に至っては知らない白蛇と友達になったりしているので、子供から目を離すとろくな事をしない。申し訳ないね、健全な範囲で悪さをしてすくすく育ちます。
「それなら、少し付き合ってくれないか」
「どこか行くの?」
「私たちと同じ存在が、近くにいるようなんだ」
フィロンの言葉に、パチパチと瞬きをした。同じ存在。人間だった記憶を持ったまま、別の生き物としてこの世界に生まれたもの。私とフィロンみたいな、神獣と呼ばれているらしいもの。
「ほんと!? いつからいたの!?」
「それが、分からないんだ。少なくとも、こちらへ近づいてきた時には気づかなかった」
「え?」
なんだそれ。近くにいるのが分かるのに、来た時には分からない。意味が分からなくて、首がこてんと傾いた。
「私も、いつも同胞の居場所が分かるわけではないんだよ。君が生まれた時は違った。あの時は探そうともしていないのに、遠くで突然、何かが増えたような感じがした。かなり強い感覚だった」
「ああ、前に言ってたやつ」
「そうだね。ただ、その後ずっと君の居場所が分かっていたわけではないんだ。最初に感じたものを覚えていたから、時々そちらへ意識を向けてみて、まだいる、と確かめることは出来たけれどね」
転生者レーダーというより、転生者あっちだなセンサーくらいらしい。思っていたよりだいぶ性能が低い。
「じゃあ今回は?」
「さきほど君の力を見て、以前のことを思い出したんだ」
「虫を全部凍らせて私がひっくり返ってたやつ?」
「主にその前段階の、力を使った方だね」
「よかった」
ひっくり返ってピギャピギャ言ってる時じゃなくてよかった。
「君が生まれた時の感覚を思い出して、何となく同じように周囲へ意識を向けてみた。その時に気づいたんだ。ひどく近いところに、覚えのある感じがある、と」
「そんな近くにいるの?」
「ああ。ただし、場所がはっきり見えるわけではないよ。この辺りにいる、くらいだ。意識を外せば、ほとんど分からなくなる」
フィロンの声が少し考え込むように低くなった。
「おそらく今回は、偶然その存在が私の感じ取れる範囲まで近づいていたんだろう。もっと遠くにいた時から分かっていたわけではない。もし昔のことを思い出さなければ、すぐ近くにいたとしても気づかなかったかもしれないね」
「めちゃくちゃ見逃す可能性あるじゃん」
「あるだろうね」
「同胞探しに向いてない能力だ……」
「そもそも、同胞を探すための力なのかどうかも分からないからね」
それもそうだった。私たちには能力の説明書など付属していない。フィロンが何百年もかけて「こういうことが出来るっぽい」と調べてきただけだ。
「でも、いるんだ?」
「ああ。今こうして意識している間は分かる。昨日までここにいたものではないと思う。以前、君を訪ねてこの辺りまで来た時には何も感じなかったからね」
「じゃあ最近来たんだ」
「おそらくは」
なるほど。一気に興味が湧いた。フィロンの話では、私たちみたいな存在はものすごく珍しい。でも、いないわけではない。
フィロン自身、今まで何人か会ったことがあると言っていた。つまり、新しいお友達かもしれない。私はその場へきちんと座り直し、目を閉じた。集中。心を静かに。余計なことを考えず。感じるのです。私たちと同じ魂的な何かを。冴え渡れ、我が霊感……。
…………。
風が吹いている。川の音がする。タヌキがちょっと動いた。ガブが後ろから尻尾を踏んだ。何も分からん。諦めて目を開ける。
「気のせいじゃない?」
「いるよ」
「即答」
「今は意識を向けているからね」
「私はなんにも感じないよ」
「そうか……」
フィロンの声が少し低くなった。落ち込んだというより、考えている時の声だ。最近ちょっと分かるようになってきた。
フィロンは何か引っかかることがあると、一度黙って頭の中でいろいろ並べ始める。私も考えてみる。もしかして私には才能がないのだろうか。転生者レーダー不搭載虎。ちょっと悔しい。
「……いや。君に分からないことにも、理由があるのかもしれない」
「能力が違うとか?」
「それも考えられる。私は今の身体になってから、生き物の言葉を理解できる。君には君の力がある。同じ存在だからといって、全てが同じとは限らない。ただ、それだけではないかもしれない」
言われた意味がすぐには呑み込めず、頭の中で何度か言葉を転がしているうちに、首がゆっくり横へ傾いていった。さっきから右へ左へこてんこてんを繰り返している。
「時間だよ」
「時間?」
「私が君より長く生きていることだ」
反対側にまたコテン。フィロンがまた難しいことを言っているけど、必要なことなのでなんとか理解に食いついていきたい。小虎としての私は「わかんな~い! あ、ちょうちょ!」という気持ちだけど、前世成人女性の私は「ふんふんなるほど、解説お願い」って気持ち。勝て! 前世の私!
「君が生まれた時、私は何もしていなくても君の存在に気づいた。今回の相手については、そういう強い感覚を覚えた記憶がない。つまり、少なくとも私がこの辺りへ来てから新しく生まれたものではない可能性が高い」
「うん」
「そして今、意識を向ければ私には分かるのに、君には何も分からない。もしこの感覚が、自分より後にこちらへ生まれた同胞にだけ向くものだとしたら、一応は説明がつく」
「この人、私より先輩ってこと?」
「その可能性がある、というだけだよ」
おお。なんかそれっぽい。フィロンはまた少し考えるように黙った。
「もちろん、今は推測にすぎない。二人だけでは比較するにも数が足りなすぎるからね。私が君より長く生きているから感じ取れる範囲そのものが広い、という可能性もあるし、単に私だけが持っている性質かもしれない。
ただ、同胞が生まれた瞬間だけ強く分かり、その後は近くにいて意識を向けなければ気づかない、というのは今までの経験とも合う」
「じゃあフィロンが今まで何人か見つけられたのも」
「長く生きていたから、その瞬間に出会う機会が多かっただけなのかもしれないね」
「じゃあ私も長生きしたら、新人が生まれた瞬間に『むっ』てなるかもしれないんだ」
「どうして『むっ』なのかは分からないが、そうなる可能性はあるね」
なるほどなあ。じゃあ私も虎生で一回くらいは「むっ、新人が生まれた……!」ってなる日が来るのかもしれない。
いや、でも私ってどれくらい生きるんだろう。前に聞いた話だと、だいたい人間くらいの寿命らしい。何十年か。フィロンみたいに何百年コースではない可能性が高い。そうするとチャンス少なくない? 私が生きている間に、同じ大陸の近場へちょうど転生者が生まれないといけない。
でも相手がネズミとかなら寿命のスパンが短いし、世代交代も早いからチャンスあるかな。いや、転生者が生まれる頻度と動物の繁殖速度に関係があるとは誰も言っていない。何を真面目にネズミ転生者の出現率について考えているんだ私は。
「見に行こう!」
「君ならそう言うと思ったよ」
問題はお父さんたちである。
タヌキの方を見る。家族はまだ全員そちらへ夢中だった。タヌキが前足を動かすたびにガブが首を伸ばし、お母さんが押し戻す。叔父虎は少し離れて匂いを嗅ぎ、お父さんは周囲を警戒している。今なら行ける。でも黙っていなくなるのは駄目。
私は家族から少し離れたところへ移動すると、前足を地面へ立てた。ほりほり。ほりほりほり。雪の下の土が見えるまで爪で浅く掘り、最後にそこへ前足を一度ぺたんと置く。
よし。完璧。これは私が遊びに行くときの合図である。これをやることにより、可愛いガウーワは行方不明になったわけではなく、おうちの周りで元気に遊んでいます、という証拠になるのだ!
私だけ家族と言葉でコミュニケーションが取れないので、自分で編み出した技です。最初のころは何もせずに出かけていた。すると帰ってきた時、お母さんもお父さんも叔父虎もめちゃくちゃ心配していて、三方向から同時に匂いを嗅がれたり舐められたりした。
どうやら私がいないことに気づいたあと、周辺を探し回っていたらしい。きょうだいたちと一緒の時はこんなに心配されないから、私はいちばん「なんかやらかすぞ」と思われているっぽい。言語コミュニケーション出来ないからね。ガブたちが「遊んできます!」って言ってても、私だけ何も言わずふらっと消える感じになっちゃってるんだろう。
なので、出かける前には毎回同じ場所を掘ることにした。何度か繰り返すうちに意味が通じたらしく、最近ではここをほりほりしてから出れば、すぐには追いかけてこなくなった。ガウーワ式置き手紙です。文字は書けないので穴です。
「よし、行こう」
私は家族へ一度振り返ってから藪へ入った。少し進み、洞窟から完全に見えなくなったところで立ち止まる。すぐ近くの木の根元から白い頭が出てきた。
「乗っていいよ」
「助かるよ」
フィロンがするすると私の前足へ登り、そのまま肩を通って背中へ乗る。出発。藪漕ぎ藪漕ぎ。道などない。
雪が残っているところを避け、大きな木の根を跨ぎ、低い枝は頭で押し上げる。フィロンは背中の上で器用に身体を丸め、枝に引っかからないようにしていた。
「もう少し東だね」
「いつもお水飲む川の方?」
「あちらに近い」
「最近あそこ危ないんだよねえ。雪解け水が爆速で流れてるから」
「バクソク」
「ものすごく速いってこと」
「なるほど」
こうしてフィロンの日本語知識がまた一つ増えた。
「この前ガブが流れたの」
「……ガブが?」
「うん。浅いところから飲もうとしてたら足滑らせて、そのまま、ざばーって」
「それは無事だったのかい?」
「叔父虎が走って追いかけて、川の中に前足突っ込んで引っかけた。ガブ、びっしゃびしゃになってた」
「君の家族は、ずいぶん逞しいね……」
無事確保されたあと、お母さんに怒られながら全身をものすごい勢いで舐められていた。たぶん本人は流されたことより、その後の毛繕いの方が嫌だったと思う。身体を押さえ込まれて、頭から尻尾までべろんべろんにされていたから。思い出しながら、ちょっと笑いながら進んだ。全身ケッパケパにされたガブの顔、面白かったなあ。
川が近づくにつれて、水の音が大きくなっていく。冬の間はもっと静かだったのに、春が近づいた今はずっと、ごおお、と低い音がしている。木の間から見える水面も速い。白く泡立ちながら、茶色っぽい水が岩の間を流れている。
「今日は絶対入っちゃ駄目だね」
「その方がいい。君なら多少は耐えられるだろうが、流れは見た目以上に強い」
「私が流されたら誰が助けてくれるかな」
「ご家族全員が川へ飛び込むのではないかな」
「ありそう」
お父さん、お母さん、叔父虎の三匹が一斉に飛び込んだら、それはそれで新しい事故が発生するのでやめておこう。私は川岸から少し距離を取りながら上流へ進んだ。いつも水を飲む場所を過ぎる。ここまで来ると、普段の探検範囲の端っこくらいだ。
「まだ先?」
「近いよ」
フィロンの声が少し真剣になった。私もなんとなく歩く速度を落とす。
何がいるんだろう。フィロンは、同じ存在だと言った。だったら人の言葉で話せるはずだ。動物かな。鳥かな。フィロンが蛇で私が虎なのだから、何でもありだろう。小鳥だったらどうしよう。かわいいけど、私の背中にフィロンと小鳥を同時に乗せたら絵面が完全に童話になる。
熊だったらちょっと怖い。虫だったら……いや。虫だけはやめよう。さっき大量のダニらしきものを見たばっかりなんです。今日これ以上、小さいものは受け付けません。蝶々とかカブトムシくらいだったらいけるかも。
私は鼻を動かした。水の匂い。湿った土。雪。木。少し遠くに獣の匂いもする。それから、知らない匂いがした。獣とはちょっと違う。でも、なんとなく知っている。前に遠くから嗅いだことがある気がする。叔父虎について人間のところへ行った時の匂いに似ている。煙。布。革。それから血。
血!? 慌てて足を止めた。いまなんか、不穏な臭いがした!
「フィロン。なんか血の匂いする」
「ああ。私にも分かる。ただ、ひどく出血している匂いではないと思う」
「怪我してるのかな」
「その可能性はあるね。昨日からほとんど動いていない理由も、それなら説明できる」
急に心配になった。生まれたばかりの赤ちゃん動物を見に行くつもりだったのに、怪我人かもしれない。人じゃないかも。怪我獣? いや、中身が人間なら怪我人でいいのかな。
私はさっきより少し速く歩いた。フィロンは舌をペロペロ出してる。なんだっけ、ピット器官? 蛇は舌でにおいを嗅ぐとかなんとか……。前世の知識、うっすらとしか役に立たない。
藪が深くなる。枝を身体で押し分けるたび、積もっていた雪がぱらぱら背中へ落ち、フィロンが頭を引っ込めた。
「もう近い。少し右へ」
「こっち?」
「ああ、そのまま真っ直ぐ」
「はーい」
枝を一本、頭で押し上げる。その向こうに、何かがいた。最初に思ったのは、人間だあ、だった。
岩の下へ、小さな人間が座り込んでいた。私が前世で見慣れていた大人よりずっと小さい。子供だ。五歳くらいかな。
褐色の肌に黒い髪。服はずいぶん立派そうなのに、今は雪と泥で汚れていて、髪にも顔にも赤黒いものがこびりついている。血の匂いはこれだ。
でもフィロンが言った通り、今この子から大量に血が出ている感じではない。片方の足を不自然なくらい真っ直ぐ伸ばしている。怪我してる。それに、泣いていた。目の周りが赤い。頬も濡れている。鼻まで赤くなっていて、こっちを見た瞬間、目をものすごく大きくした。
あ。この子、怖がってる。
そう気づいた瞬間、小さな人間が大きく息を吸った。
「うわあああああああああああああああああああっ!!!」
ものすごい悲鳴が上がった。私までびっくりして一歩下がり、背中のフィロンがずりっと横へ滑れかけて慌てて身体を巻きつける。
なに!? なになになに!? 私は何もしてないよ!? 出てきただけだよ!?
小さな人間は岩へ背中を押しつけ、もう後ろへ下がれないのに逃げようとしている。顔が完全に恐怖で固まっていた。さっき疥癬タヌキを見た私より怖がっているかもしれない。
「フィロン、私なんかした!?」
「いや。君を見て驚いたようだね」
「なんで!?」
「君は虎だからね」
…………そうだった。私は人間ではありません。可愛いガウーワちゃん目線では、私はいつもの私である。家族から見ても、たぶんちょっと変だけど可愛い子供である。
しかし今、この小さな人間から見えているものは、格好良すぎるつよつよの最強白虎……。その背中には、ひょろっとした白蛇。しかも怪我して動けない時に、藪からセットで登場。怖いね……。
私はそっと口を閉じた。牙が見えないようにする。なるべく優しそうな顔も作ってみる。
……虎の優しそうな顔ってどうやるの? 耳を伏せる? 駄目だ。たぶんそれ威嚇前の顔にも見える。尻尾振る? 犬じゃない。お腹見せる? 絶対今じゃない。
困ってフィロンを見ることも出来ないので、私はその場へぺたんと座った。これなら少なくとも、襲いかかるつもりがないことくらいは伝わらないかな。
小さな人間はまだ震えている。褐色の頬には涙の跡が残っていて、黒い髪には乾いた血がついていた。
こんな山の中に一人で、怪我をして、昨日からずっと同じところにいたらしい。怖かったんだろうなあ。
そう思ったら、さっきまでの「新しい転生者だ!」というわくわくが少し引っ込んだ。同じ存在とか、神獣とか、そんなことはあとでいい。今いるのは、ものすごく怖がっている、怪我をしたちっちゃい人間だった。




