救助隊の朝
村長宅へ集まった頃には、朝食の時間をとうに過ぎていた。
昨夜から一度も眠っていない者も多い。ブラムウェルも夜中に山へ入り、いったん戻ったあと少しだけ横になったが、眠ったというより目を閉じていた時間があっただけだった。
髪にはまだ湿ったところが残っているし、外套の裾についた泥も乾ききっていない。暖炉には朝から多めに薪が放り込まれているのに、村長宅の広間は妙に寒く感じられた。人が多いせいで椅子が足りず、使節団の護衛の何人かは壁際に立っている。卓上にはジェナたちが運んできた黒パンと薄いスープが置かれていたものの、減り方は鈍かった。
使節団の人間は、昨日とはまるで違う顔をしている。昨日の会談では、自国の立場を背負っていることを意識してか、誰もが多少なりとも胸を張っていた。今はそんなものを保っている余裕がないのだろう。褐色の肌に黒髪というルーヴェル人らしい容貌は揃っていても、年嵩の者はもともと白いものの混じった髪をひどく乱し、若い者は目の下へ寝不足の影を作っている。
中でもオスカーはひどかった。昨日、アリアを娼婦呼ばわりした時には腹立たしいほど生意気に見えた若い神官が、今朝は椅子へ座ったまま背中を丸めている。二十代半ばほどの男なので、本来なら一晩くらい眠らなくても平気そうなものだが、顔に出ているのは単なる疲労ではない。眠れなかったこと以上に、レオンハルトを案じ続けた時間の長さが、そのまま目元や頬に残っているようだった。
レオンハルトの家へは、すでに早馬を出している。
失踪が確定して間もなく、ヘルマン参事官が連絡を決めたらしい。夜道を走らせる危険もあるため最初の宿駅までは土地を知る者が同行し、そこから先は馬を替えながら王都へ向かわせるという。書状を書いたのはゲルハルトだったが、何度も書き損じてしまい、最後にはルドルフが清書したものへ署名したと聞いた。
そのゲルハルトは、卓の向こう側に座っていた。もともと黒かったらしい髪にはかなり白いものが混じっている。年齢相応といえばそうなのだろうが、今朝はそこへ一晩ぶん余計に歳を取ったように見えた。
昨夜、山へ行くと言い張って村長たちに取り押さえられていた時の勢いも、今はすっかり失せている。ブラムウェルたちが山から戻った時には、村長宅の柱へくくりつけられたまま、村の年長者たちに囲まれて懇々と説教をされていた。
途中でオスカーが助けに入ったので、それ以上は見なかったことにしたが、今の様子を見るかぎり、さすがに頭は冷えたらしい。
「昨夜、確認できた足跡はここまでです」
ブラムウェルは卓へ広げた地図の一点を炭筆で示した。正式な測量図ではない。セデ村周辺を歩き回るうち、自分で少しずつ書き足してきたものだ。
尾根や川、目立つ巨木、崩れやすい斜面などが細かく記され、余白には調査中に思いついた走り書きまで残っている。昨日までなら他人へ見せる前に少しくらい整理したかったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「村を出た直後は、子供用の靴跡が雪にはっきり残っていました。北へ向かっていることも分かった。途中で何度か足を取られた跡もありますから、別人が作った足跡という可能性もほぼないでしょう。
ただ、この辺りから雪が薄くなっています。岩と落ち葉の多い場所を通ったらしく、昨夜はそこで見失いました。暗い中で無理に先へ進んでも捜索する人間まで迷うので、いったん打ち切っています」
「今朝は、その先まで見たんだな」
ヘルマン参事官の問いに、ブラムウェルは頷いた。五十代後半ほどに見える男で、使節団ではゲルハルトのすぐそばに控えていた文官である。
浅黒い額の両脇には白髪が増え始めているが、姿勢だけは昨日と変わらず整っている。ただ、茶を口へ運ぼうとして、一口も飲まず戻すのをこれで二度見た。
「陽が出てからバルトたちと入り直しました。足跡が消えた場所から先を探して、岩角鹿の死骸を一頭見つけています。六本脚の大型魔獣です。この辺りにも生息していますが、少なくとも子供が単独で遭遇していい相手じゃない」
ブラムウェルが地図のさらに北へ印をつけると、使節団側から息を呑む気配がした。
今朝見つかった岩角鹿は、まだ若い個体だった。親元を離れてそれほど経っていないらしく、体格も重さも普通の鹿と大差ない。
ただし、この時期の岩角鹿はむしろ危険である。親の保護を外れたばかりで警戒心が強く、縄張りも定まっていない。目についた相手を敵か獲物と判断すれば、考えるより先に突っ込んでくる。
成獣ほど大きくないぶん動きも速く、人間を見つければ逃げるどころか、六本の脚で一気に間合いを詰めて襲いかかってくることも珍しくない。
「かなり食い荒らされていました。昨夜のうちに別の獣が寄ったんでしょう。ただ、死因になった傷は食われる前についたものです。首に深い裂傷がありました」
「白虎ではないのですか」
ルドルフが書き留めていた手を止めた。三十前後の細身の男で、普段はゲルハルトの書記役をしている。きっちり撫でつけていたはずの黒髪が今日は額へ落ちたままで、紙の端にはいつついたのか黒い指跡が残っていた。
「違うと思います。氷嶺白虎が殺したなら、傷口が凍っている可能性が高い。以前調べた個体もそうでした。今朝の岩角鹿はそうなっていません。それに、首の傷の一部は細い刃物が入ったように見えました」
「レオンハルト様は短剣を持って出ています」
ルドルフの声が少しだけ硬くなった。
「侯爵家で身体に合わせて誂えたものです。護身用ですから、刃もきちんと入っています」
「だからといって、彼が岩角鹿を仕留めたと決めるのは早いですよ。そこへ行った証拠もまだない。ただし、彼が通った可能性のある範囲で昨夜何かが起きた。それは覚えておいた方がいい」
十歳児が大型魔獣を短剣一本で仕留めたなどと言われれば、普通なら馬鹿馬鹿しいと切り捨てるところだった。
ただ、レオンハルトは剣も魔法も使えると聞いている。無傷で勝てるとは思わないが、追い詰められた末に偶然急所へ刃が入ることまで否定はできない。問題は、その場合あの少年の方も無事とは限らないことだった。
バルトが地図を覗き込み、岩角鹿の印から少し下へ指を滑らせた。昨夜から何度も山へ出入りしているはずなのに、いつも通り感情の読みにくい顔をしている。
ただし腰には普段の狩猟用具に加えて、ジェナが持たせたらしい食料の包みが二つも括りつけられていた。
「こっちには川がある。雪解けで増水してる」
「今朝見た限り、かなり速かったですね」
「落ちたら大人でも危ない。川沿いは俺たちが探す。土地を知らないやつは入れない方がいい」
護衛の一人が一瞬だけ眉を寄せた。四十前後の大柄な男で、短く刈った黒髪の一部がこめかみだけ白くなっている。昨夜は真っ先に山へ入ると言い張っていた一人だったが、今日は反論せずに地図を見直した。この村で生まれ育った猟師と、昨日来たばかりの護衛では、雪山を歩く技量に差がある。それを認められないほど愚かではないらしい。
「川以外にも、気をつけてほしいものがあります」
ブラムウェルが炭筆を持ち直すと、今度は使節団全体へ向けて話した。
「ヤマコダマザルという猿が、この辺りの森に群れで棲んでいます。……注意喚起が遅れました。昨日の捜索の時点で、皆さんかなり呼びかけをしています。『レオンハルト様』『こっちだ』『返事をしろ』と何度も声を上げているので、すでに猿に覚えられている可能性が高いです。あれは意味を理解しているわけではなく、聞いた声をそのまま真似ます。今日は人の声が聞こえても、一人でそちらへ向かわないでください」
「では、本人の声が聞こえても信用できないということですか」
「声だけなら。とくに子供の悲鳴はあいつらが面白がって真似ることがあります。ただ、それ以上に厄介なのは逆です。こちらの呼びかけを覚えたヤマコダマザルに要救助者本人が騙されて、救助隊がいると思って山奥へ向かってしまうことがある。今はそちらの方を警戒してください」
昨日までなら、ここでヤマコダマザルの生態についてもう少し説明していたかもしれない。研究者というものは知っていることを話し始めると長い。しかし今必要なのは猿の雑食性でも繁殖期でもなく、人声を頼りに単独行動をするなという一点だけだった。
村長のエダンが、卓の隅に置かれていた小さな笛を一つ拾った。昨夜ゲルハルトを取り押さえた時に腰でも痛めたのか、朝から立ち上がるたび少し動きが固い。それでも本人は何も言わず、笛を吹く真似をしてから皆へ見せた。
「班ごとにこれを持たせる。見つけたら長く二回。声がしただけなら勝手に散らばらない。呼び返すなら、自分の班の人間が見えるところでやれ。猿が笛の音まで覚えたとしても、今決めた合図までは知らん」
「分かりました。こちらの護衛にも徹底させます」
ヘルマンが受けると、壁際にいた護衛たちもそれぞれ頷いた。昨夜までなら、アルディナの小村の村長から指図されることに何か思う者もいたかもしれない。今朝は誰にもそんな顔をする余裕がなかった。
「それと、防寒具について確認したい」
バルトが地図から顔を上げ、ルーヴェル側を見た。
「外套を持って出たって聞いた。祝福がかかってるんだろ。どのくらい持つ」
それまで黙っていたオスカーが、ゆっくり顔を上げた。
「保温の祝福はかかっています。外套だけでなく旅装にもいくつか。……私が数日前に確認して、魔力を補充しました」
「あと何日だ」
「一日ありません」
答えるまでに少し間があった。オスカーは自分の両手を見て、それから指を組み直した。
「今日いっぱい保てば良い方です。普通に着て歩いているだけならもう少し計算できますが、濡れているかもしれない。魔力を通しにくいほど汚れている可能性もある。強い衝撃を受けて術式が傷んでいるかもしれません。明日の朝まで大丈夫だとは、私は言えない」
誰もすぐには口を開かなかった。暖炉の中で薪が崩れ、その音が妙に大きく聞こえた。壁際にいた若い護衛が持っていた黒パンを強く握ってしまったらしく、表面の硬い皮がぱきりと割れ、慌てて力を抜いている。こんな時でも腹は減るし、パンは壊れる。ブラムウェルはそのどうでもいい光景を見て、むしろ少しだけ頭が冷えた。
「……私が見ていれば」
ゲルハルトの声が聞こえた。低く、普段ならよく通りそうな声なのに、今日は喉の奥へ引っかかっている。
「昨日、あの子は眠そうにしていた。私が暖炉のそばへ行かせました。毛布を渡して、休んでいなさいと。それで安心してしまった。眠ったのだと思い込んで、外套を持ち出したことにも気づかなかった。あの子の父親から直接預かっておきながら、私は何をしていたんだ」
「ゲルハルト様だけではありません。私は旅の間、レオンへあれだけ危険について話していたのに」
オスカーが椅子から少し身を乗り出した。
「雪山で一人になるな、知らない獣には近づくな、雪で地面が見えない場所では足元を確かめろ。全部言いました。言って、本人が分かったと答えたから、それで教えたつもりになっていた。昨日だって同じ家にいたんです。私がもう一度見ていれば──」
「私もです。あの時、レオンハルト様が暖炉の傍にいるところを見ています」
ルドルフまで口を開き、ブラムウェルは眉間へ指を当てた。自責するなと言って止められるものではないのは分かる。しかしこのまま使節団の全員が順番に自分の罪状を申告し始めたら、捜索へ出る頃には昼になってしまう。
ぱん、と乾いた音が広間に響いた。
全員の顔がそちらへ向く。アリアが胸の前で両手を合わせていた。少し強く叩きすぎたらしく、自分でも痛かったのか片方の掌を親指で擦っている。それでも皆の視線が集まったのを確認すると、そのまま手を下ろした。
「皆さん、女神様が砂漠で迷った商隊をお救いになったお話をご存じですか?」
唐突な話題に、ゲルハルトが瞬きをした。ルーヴェルの神官たちは互いに顔を見合わせたものの、知らない者はいないらしい。アルディナとルーヴェルでは女神のどの姿を重んじるかが違うとはいえ、古い伝承の多くは共通している。
「砂嵐で道を失って、水も尽きかけた商隊のお話です。女神様は彼らの前へ現れて、日差しを避ける場所と泉をお与えになりました。でも、そのまま一人ずつ町まで運んではくださらなかった。商隊はそこで休んで、水を飲み、あとから来た救助隊に見つけてもらったんです」
アリアはいつもの調子で話していた。説教をしているわけでも、大げさに励まそうとしているわけでもない。ブラムウェルには、教会で不安そうな子供へ話をする時もきっとこんな声なのだろうと思えた。
「商隊の人たちは、女神様からいただいた助けで救助隊が来るまで耐えることができました。レオンハルト様にも、まだ助けがあります。保温の祝福がありますし、風を避けられる場所を見つけているかもしれません。
何より、私たちはまだ何も見つけていません。悪いことが起きた証拠もないのに、ここで一番悪いことばかり考える必要はありません」
アリアはそこでゲルハルトを見た。
「嘆くよりも探しましょう。ご自分を責めるのも、叱るのも、謝るのも、レオンハルト様を連れて帰ってからできます。あの商隊に女神様の泉があったのなら、今度は私たちが救助隊になればいいんです」
しばらく誰も返事をしなかった。ゲルハルトは俯いていた顔を上げ、目元を手で一度拭った。昨日から何度泣いたのか知らないが、少なくとも今度はそのまま崩れなかった。
「……その通りですな」
ゲルハルトは深く息を吐いてから立ち上がった。
「自分が何をし損ねたのかばかり数えていました。あの子を見つけるために来たはずの朝なのに、これではいけない。アリア殿、ありがとうございます」
アリアが首を振るより先に、ゲルハルトはエダンたち村人の方へ身体を向けた。
「改めてお願いいたします。我々はこの土地を知らず、昨日来たばかりです。山へ入るにも、皆様のお力なしではかえって足手まといになるでしょう。一人の子供を連れ戻すため、どうか我々に力を貸してください」
「もう貸してるよ」
エダンの返事は早かった。
「昨日からみんな山に入ってる。いまさら改めて頼まれなくても、見つかるまで探す。ただし、山じゃ俺たちの言うことを聞け。勝手に走っていくな。特にあんただ」
最後の一言だけ明らかにゲルハルトへ向けられた。昨日、大人四人がかりで止めた相手なので当然である。ゲルハルトは一瞬だけ何とも言えない顔をしたが、反論せず頭を下げた。
「……承知しました」
「よし。昨日より聞き分けがいい」
エダンが満足そうに頷いたことで、ほんの少しだけ部屋の空気が緩んだ。
そこから先は、ようやく話が前へ進んだ。バルトを含む村の猟師たちは、足跡の消えた地点から川沿いを重点的に見る。
ブラムウェルは岩角鹿の死骸があった場所を起点に、周囲の雪や折れた枝をもう一度調べることになった。使節団の護衛はそれぞれの班へ振り分けるが、土地勘のある者より前へ出ない。ゲルハルトやオスカーを含む神官は、発見時に怪我をしている可能性を考えて班を分ける。アリアも治癒を使えるので山へ入るが、一人で先行しないことをブラムウェルが念を押したところ、「分かってます!」と元気いっぱいに返された。二十日前の出来事を思えば、何度確認しても多すぎるとは思わない。
ジェナたちには、発見後すぐ使える湯と食事を用意してもらう。ソリには毛布、縄、身体を固定するための板も積み込むことになった。
雪の中に一晩いた十歳児を見つけた途端に歩かせるようなことがないよう、その辺りも先に決めておく。笛を班ごとに配り終える頃には、さっきまでほとんど手をつけられていなかったパンも少しずつ減り始めていた。昨夜からろくに食べていなかったらしい護衛の青年など、スープへ黒パンを浸してほとんど飲み込むように食べている。
いい傾向だった。腹を空かせたまま雪山へ入って、もう一人倒れられても困る。
ブラムウェルも地図を巻き、使うものだけを背負い袋へ詰め直していたところで、すぐ近くにいたアリアが呼び止められた。
「アリア殿。少し、よろしいでしょうか」
オスカーだった。今度はルーヴェル語ではなく、少し西方訛りのあるアルディナ語を使っている。昨日から会話を聞いていれば分かっていたことだが、この若い神官は日常的なやり取りなら問題なくこちらの言葉を話せる。ただ、感情が昂ると母国語へ戻る癖があるらしい。
「はい。どうしました?」
「昨日の私の発言について、きちんと謝罪させてください」
アリアは手にしていた手袋を卓へ置き、身体ごとオスカーへ向き直った。周囲では皆が出発の準備を始めている。縄を束ねる音や椅子を引く音がしていて、別に二人だけが静かな場所へ移ったわけではない。ブラムウェルも聞き耳を立てるつもりはなかったが、背負い袋を整理しながら普通に聞こえる距離だった。
「あなたを侮辱する言葉を口にしたことです。あれは信仰上の意見でも、交渉の中で必要だった発言でもありませんでした。
私は腹を立てて、あなたが女性であることを使えば傷つけられると思い、あの言葉を選びました。人としても、神官としても愚かな発言でした。本当に申し訳ありませんでした」
昨日の男とは思えないほど丁寧な謝罪だった。自国とアルディナの価値観が違うとも、議論の最中で冷静さを失っていたとも言わない。あれは悪意で言ったのだと、自分から認めている。
謝るならそれくらい当然だと片づけることもできるが、自分に都合のいい事情を一つも横へ置かずに謝れる人間は、実際にはそれほど多くない。
アリアはしばらくオスカーの顔を見ていたが、やがて両手を伸ばした。相手の右手を取ると、片手ではなく自分の両手で包むように握る。
「良いんです。私も愚かな発言も、愚かな行動も、何度もしてきました」
そこについては、ブラムウェルも非常によく知っている。危うく声に出して同意しかけたので、黙って荷物の留め具を締めた。
「それでも、そのたびに周囲の方に止めていただいたり、教えていただいたり、許していただいたりしました。私一人だったら、今でも同じ失敗を何度もしていたと思います。だから、間違えたことよりも、そのあとどうするかの方が大切なんだと思っています」
アリアは握っていた手へ少しだけ力を込めた。
「あなたの謝罪を受け入れます。ちゃんと謝ってくださって、ありがとうございます」
オスカーはすぐには何も言わなかった。昨日まで刺々しく見えていた眉間から力が抜け、張っていた肩も少し落ちる。二十代半ばという年齢を考えれば、むしろこちらの方が本来の顔なのかもしれない。
「じゃあ、行きましょう。レオンハルト様を見つけないと」
アリアはそこで手を離した。謝罪を受け入れたら、それで話は終わりらしい。
くるりと背を向けると、自分の外套を取りに行き、椅子の背へ掛けてあったものを持ち上げて袖を通し始める。さらに腰へ下げる小袋の紐が絡まっているのに気づき、「なんでこういう時に」と小さくぼやきながら解き始めた。
オスカーはその背中をしばらく見ていた。
『……貴女は良い人だなあ……』
今度だけはルーヴェル語だった。誰かへ伝えるつもりで口にしたというより、胸の中に浮かんだものがそのまま零れたような声である。
アリアは聞いていない。少し離れた場所で腰の小袋と格闘していて、ようやく解けた紐を結び直す方へ夢中になっている。
代わりに、ブラムウェルには聞こえた。
思わずオスカーを見ると、向こうもこちらがルーヴェル語を理解することを思い出したらしい。一瞬だけ目が合った。気まずそうに視線を逸らされる。
ブラムウェルは何も言わなかった。
昨日の時点では、この若い神官へかなり腹を立てていた。今だって好きになったわけではないし、あの発言が消えてなくなったわけでもない。
ただ、子供が消えたと分かった時には体裁も何もなくアリアへ助力を求め、朝になれば自分の暴言を誤魔化さず謝る程度にはまともらしい。人間の評価というものは面倒だ。一度最低まで落としたからといって、ずっとそこへ置いておけるとも限らない。
「ブラムウェルさん。これ、どっちに入れます?」
アリアが救急用品を両手に持って振り返った。どうやらもう完全に別のことを考えている。
「こっちです。包帯類はすぐ出せる方へ。薬瓶は割れるので奥に入れないでください」
「分かりました。あ、板はソリの方ですよね」
「そうです。あと自分の食料も持ってくださいよ。誰かに分けてもらえばいいと思わないように」
「持ちましたよ! 今日はちゃんと持ちました!」
そこを強調する時点で過去に何かあったのだろう。ブラムウェルが返事代わりに眉を上げると、アリアは少しだけ口を尖らせながら自分の荷物を確認し直した。
「それ、私が持ちます」
横からオスカーが声をかけた。今度は普通のアルディナ語で、発音にも特に不自由はない。
「地の利がある人が重いものを持って疲れる必要はないでしょう。私の班は荷物が少ないので、こちらへ」
「でも、オスカーさんも神官ですよね?」
「ええ、ルーヴェルの神官です。体力には自信があります」
「それはそうですけど」
「なら決まりです」
昨日なら、この程度の言い方でもアリアが何か引っかかっていたかもしれない。しかし今は素直に鞄を渡し、代わりに自分は小さな救急袋だけを肩へ掛けた。オスカーも受け取った鞄の重さを一度確かめると、そのまま自分の荷物と一緒に背負う。
仲直りというものは、案外こんなものなのかもしれない。
握手をして、謝罪を受け入れて、それから荷物を一つ持ってもらう。昨日の言葉がなかったことになるわけではない。それでも次に一緒に何かをする余地ができれば、ひとまず十分なのだろう。
外へ出ると、昨夜とは違って山の稜線までよく見えた。雲は残っているが雪は止んでいて、白い斜面が朝の光を強く返している。見えるから安全というわけではない。それでも暗闇の中で足元だけを照らしながら歩くよりはずっとましだった。
広場では、すでに捜索へ向かう者たちが班ごとに集まり始めている。護衛がソリへ縄を固定し、ルドルフは外へ出てまで名簿を確認していた。
ヘルマンは出発する班と村へ残す連絡役を振り分け、ゲルハルトも外套を着込んでいる。昨夜のように一人で飛び出そうとはせず、自分が入るよう指示された班のところで待っているだけでも大きな進歩だろう。
バルトは広場の端でジェナに何か言われていた。声までは聞こえなかったが、ジェナが腰へ括られている食料袋を指差し、バルトが頷き、さらにもう一度念を押されてまた頷いている。山へ入る時でも婚約者には勝てないらしい。
ブラムウェルは手袋をはめ直し、短槍を持った。昨夜、レオンハルトが消えたと聞いた直後には、見つけたら一発くらい殴ってやりたいと思った。十歳児相手に大人気ないとは自分でも分かっている。今も腹は立っているし、とんでもない馬鹿だと思っている。大人たちの目を盗み、夜の雪山へ一人で入り、結果として村まで巻き込んで大捜索である。無事に戻ったなら、父親にもゲルハルトにもオスカーにも、きっちり叱られるべきだろう。
ただ、それをやるには本人が必要だった。生きて見つかってもらわなければ、誰も叱れない。
「行きましょう」
ブラムウェルが声をかけると、それぞれの班が山へ向かって動き始めた。昨日来たばかりの外国人も、村で生まれ育った猟師も、神官も学者も、今だけはやることが同じだった。
山のどこかに、十歳の馬鹿がいる。見つけて、連れて帰って、それから存分に怒ればいい。




