神官バトル GO!FIGHT!
アリアが氷嶺白虎の成獣に吹き飛ばされてから、二十日が経った。
あの日、目を覚ましたアリアから息継ぎも怪しい長さの謝罪を聞かされたあと、ブラムウェルは本気でこいつを王都へ送り返してやろうと思っていた。現地協力者の指示を無視し、幼獣へ自分から近づき、触ろうとし、悲鳴を上げさせ、保護に現れた成獣から攻撃を受けた。結果だけ見れば生きているし、アリア本人の特殊な体質のおかげで負った怪我も残っていないが、だから問題がなかったことにはならない。
しかしセデ村から人里まで徒歩で返すわけにもいかない。冬の山道を一人で歩かせれば、神獣に近づく以前に遭難して死ぬ。
仕方なく残留を認める代わりに、もう一度同じことをしたら、こちらに微かに残っている女性への配慮という気持ちを完全に捨て去った対応をするぞ、と脅した。何をどうするのかについては説明しなかった。説明しない方が怖いからである。
脅しが利いたのか、本当に反省したのか。……まあ、反省したのだろう。それからのアリアは、腹が立つほど真面目だった。
朝は村の教会で祈りを済ませ、そのあとブラムウェルのところへ来て、氷嶺白虎について教わる。生息域、食性、成獣と幼獣の行動差、縄張り、警戒行動、威嚇と攻撃の違い、人間側が取るべき距離。前に一度教えた内容でも、分からなければ分からないと言って聞き直すようになった。以前なら「でも神獣様なら」と挟んでいたところでも、今はまず最後まで聞く。そこだけは目に見えて変わった。
昼になれば村人に交じって働いた。傷んでいた教会の壁を補修し、薪を割り、川へ魚を釣りに行き、雪を運び、子供の相手をし、夕方になると教会へ戻って説法をする。
薪割りは最初の三日ほど斧を振り下ろすたびに村人がハラハラしながら腰を浮かせていたが、今ではそれなりに見られる形になった。
竿釣りに関してはバルトより下手だった。これは本人も認めている。一方で網の扱いだけは妙に上手く、漁に関しては一家言あるブラムウェルも、なかなかやるなと言わざるを得なかった。
子供には異様に懐かれた。もともと子供の相手には慣れているらしく、文字を教えろと言われれば地面へ棒で書き、転んだ子がいれば泥を払ってやり、説法の最中に寝た子供がいれば終わるまで膝へ頭を乗せたままにしていた。教会の屋根へ積もった雪を落としている途中で子供から雪玉を投げつけられ、そのまま雪合戦へ参加していたこともある。あれは仕事ではないが、全員笑っていたので良いことだろう。子供が元気なのはめでたいことだ。いちばん元気なのはアリアだったが。
二十日。たったそれだけで、アリアはもう村の人間から普通に名前を呼ばれていた。
「アリア、昼に魚焼くから来いよ」
「ありがとうございます! お手伝いします!」
「手伝わんでいい。お前が触ると余計な仕事が増える」
「そんなことありませんよ、この前はちゃんと三匹さばけました!」
「一匹、腹まで真っ二つにしただろ」
「日々成長中ですので、次は大丈夫です! 力加減を覚えましたので!」
そんな会話を聞きながら、ブラムウェルは黙って資料へ目を落とした。こいつ、本当に馴染むのが早い。
アリアという人間を、ブラムウェルはこの二十日ずっと警戒して観察していた。また何かやらかすんじゃねえだろうな、という極めて正当な理由からである。
その結果、本人が何を考えているのか、顔を見ればなんとなく察せられるようになってきた。もともと裏表が少ないのだろう。嬉しい時は嬉しそうな顔をする。分からない時は眉間に皺が寄る。納得していない時は口を少し尖らせる。何かを思いついた時は目が明るくなり、その直後にこちらを見るようになった。以前はそのまま行動していたので、それに比べれば進歩している。
ブラムウェルの友人知人は研究者ばかりである。
自分を含め、考え方も性格もどこか捻くれ曲がった人間が多い。質問ひとつするにも相手の意図を読み、返答の裏を探り、学会で褒められれば「どこを刺す前振りだ」と警戒するような連中に囲まれて生きてきた。
それに比べるとアリアは非常に分かりやすかった。あの一件さえなければ、素直で好感が持てる人間だと言ってもよかった。ただし、流すには重すぎるやらかしなので、特に加点材料にはならない。
そうしてセデ村にもひとまず平穏が戻っていた日の朝、教会の女神像が光った。
最初に気づいたのは、朝の祈りへ来ていた老婆だった。村の女神像が光ること自体は、この一月ほど珍しいことではない。大神殿からアリアの補佐要員を送るため、村では少しずつ祈りを蓄えていた。
転移の奇跡は人を一人運ぶだけでも大量の祈りを使う。転移に必要な祈りは、運ぶものの大きさや重さだけで決まるわけではなく、離れた二つの女神像を一度つなぐこと自体に大半を使うため、人ひとりでも封書一通でも、最初に必要となる量はそう変わらない。
だからこそ、連絡だけなら普通は人の手で運ぶ。人口の少ないセデ村では一日二日で用意できる量ではなく、村人が礼拝のたび少しずつ捧げ、それを女神像へ溜めている最中だった。
本来なら、必要量が溜まるまであと十日ほどかかる予定だった。その女神像が朝から青白い光を放ち、アリアが駆けつけた時には、像の足元へ一通の封書が落ちていた。人間ではない。荷物ですらない。紙が数枚入った封書ひとつ。それを運ぶためだけに、これまで村人が溜めていた祈りの大半が消費されていた。
「ブラムウェルさんを呼んでください」
封書の表へ刻まれた印を見たアリアが、すぐに言った。普段より声が低かった。
「今すぐです。これは通常の連絡ではありません」
十分後、ブラムウェルは教会へ呼び出された。食べていた朝食を流し込み、駆け込んだ教会で、女神像の前にアリアと村長のエダンが立っており、石床へ置かれた小さな封書を囲んでいた。アリアから事情を聞いたブラムウェルは、眉間を押さえた。
「人一人送るために溜めていたものを、手紙一通でほとんど使ったのか」
「はい。普通なら使いません。転移は大神殿側にも相応の負担がありますし、地方の女神像へ蓄えられた祈りを消費すれば、その後しばらく大きな奇跡が使えなくなります」
「つまり、それをやってでも先に知らせる必要があった」
「そういうことになります」
嫌な予感しかしない。アリアが封を切り、中の文書を読む。最初の一枚を読み終えるより先に、顔から笑みが消えた。
「ルーヴェル王国から使節団が来ます」
「いつだ」
「……国境を越えたという報告が三日前です」
「先に言え」
「私に言わないでください! 私も今知りました!」
いま! この瞬間! と、封筒をつつき回すアリアを一旦無視しておく。アルディナ王国の王宮には正式な外交連絡が届いていたらしい。神獣の確認を受け、氷嶺白虎を古くから聖獣として信仰するルーヴェル王国が、現地への使節派遣を申し入れた。王宮側は拒絶する理由がないとして受け入れ、国境から西方守護府を経由してセデ村へ向かうことを許可した。
問題は、王都からセデ村までの情報伝達速度である。
王宮では話が通っている。西方守護府にも話が通っている。大神殿にも数日前には共有されていた。
問題は、そこから先だった。現地への通達は通常の早馬へ回されていたらしいが、雪のため途中で足止めを食った。その事実が大神殿へ戻った時には、使節団はすでに西方守護府を出ている。そこでようやく、補佐要員を送るために蓄えていた祈りを使い潰してまで、封書だけを先に飛ばしたらしい。
「最初からそれをやれ」と言いたいところだが、手紙一通にこの量の祈りを使う馬鹿はいない。今回は、その馬鹿をやるしかなくなったということだ。
「何をしに来るんだ」
「文面では、神獣様への礼拝および現地状況の確認とあります。ただ……」
アリアが二枚目へ視線を移した。
「大神殿から、神獣の扱いについて独自の要求が行われる可能性が高いので、現地判断で安易な約束をしないように、と」
「それを三日前に寄越せ」
「私に言わないでくださいってば!」
その日の昼過ぎ、使節団は本当に来た。
早い。早すぎる。雪道を進んできた馬車が三台。護衛の騎兵が六名。荷を運ぶ橇が二台。それに神官らしい白と青の法衣を着た者が三人、文官らしい者が二人、その他の従者を合わせれば十五名ほどになる。西方守護府からも案内役の兵が二名ついていたが、彼らに与えられているのは使節団の道中警護と行動確認までで、神獣に関する交渉権限はないらしい。
人口の少ないセデ村からすれば、これだけでそこそこの集団だった。
村の入口まで出迎えたエダンの隣で、ブラムウェルは腕を組んだ。その横にはアリアがいる。いつもの厚手の外套ではあるが、今日は胸元の聖印を外へ出していた。髪も普段よりきっちりまとめている。朝から村の女たちに捕まり、もう少しまともな格好をしろと整えられたらしい。
使節団の先頭から、五十前後の男が下りた。痩せた長身で、灰色の髪を後ろへ撫でつけている。質のいい毛皮の外套に、ルーヴェル王国の紋章が留め具として使われていた。男はエダンへ形式通りの挨拶をしたあと、ブラムウェルを見て、最後にアリアへ視線を止めた。
『アルディナ大神殿より派遣されております、神獣典礼室のアリアと申します。遠路お越しいただき、お疲れでございましょう』
アリアがルーヴェル語で言った。ブラムウェルは少しだけ眉を上げた。喋れるのか。
西国と国境を接する地域に長く滞在してきたので、ブラムウェルもルーヴェル語は日常会話程度なら聞き取れる。市場で物を買う。宿を取る。飯を頼む。研究対象について簡単な質問をする。そのくらいなら困らない。しかしアリアの発音は、そういう実用のために覚えたものとは違った。音が綺麗だった。
使節団の男も一瞬だけ目を細めたあと、同じ言葉で返した。
『これはありがたい。辺境の地で我が国の言葉を聞けるとは思いませんでした。私はルーヴェル王国祭祀院より使節を預かりました、ゲルハルト・ヴァンデルと申します。本日は両国にとって喜ばしき神獣御出現の報を受け、我が国を代表して参りました』
そのまま二、三言を交わしたあと、アリアは村人にも分かる共通語へ戻した。ゲルハルトも異論なくそれに合わせる。
「ようこそお越しくださいました。まずは長旅のお疲れを癒していただきたいところですが、急ぎ確認すべき事項がおありでしたら、先に伺います」
「では、お言葉に甘えましょう」
そこまでは普通だった。少なくとも、表面上は。ゲルハルトは穏やかに微笑み、周囲の雪山へ一度視線を向けた。
「我が国では、氷嶺白虎は建国以前より女神の御使いとして崇められております。現在も王都大神殿には白虎を迎えるための聖域があり、歴代の王はその地を守り続けてまいりました。神獣ともなれば、なおさら粗末な環境へ置いておくわけにはまいりません」
粗末な環境。エダンには意味が分からなかったらしい。しかし口調で何かを感じ取ったのか、眉を寄せた。
「そこで我々は、貴国で確認された神獣をルーヴェル王国へお迎えしたいと考えております。移送に必要な人員、魔術師、保定具はこちらで用意いたします。もちろん、移送に伴う負担については相応の補償を」
「恐れながら、その件について確認させていただいてもよろしいでしょうか」
アリアが笑顔で言った。
「アルディナ王宮へ提出された使節派遣の申請目的は、『神獣様への礼拝および現地状況の確認』であったと伺っています。神獣様の国外移送について協議を行う旨は、申請書に含まれておりますでしょうか」
ゲルハルトが一瞬黙る。
「現地を確認した上で必要と判断した場合には、当然、提案を行うことも使節の役目です」
「提案であれば承ります。ただし、我が国は神獣様を所有しておりませんので、『引き渡し』という手続きそのものが成立いたしません。また、国外移送を正式な協議事項となさるのでしたら、まずアルディナ王宮を通してご提案くださいませ。現地担当者である私が、ここで許諾できる性質のものではございません」
「まだ最後まで申し上げておりませんが」
「失礼いたしました。ですが、神獣様を人間の管理下に置いた上で国外へ移送する、というお話でしたら、現地の安全管理を担当する者としてお答えは変わりません」
アリアが笑顔で答えた。早かった。ゲルハルトが一度瞬きをする。
「まだ最後まで申し上げておりませんが」
「失礼いたしました。ですが、神獣様の引き渡しについてでしたら、最後まで伺ってもお答えは変わりませんので」
柔らかい。声も穏やかである。ただしブラムウェルには分かった。あ、こいつ怒ってるな。
二十日も「また何かやらかさねえだろうな」と顔を見続けた成果が、こんなところで発揮された。
ゲルハルトの後ろにいた男が二歩ほど退き、アリアまで届かないと思ったのか、隣の者へ声を潜めた。言葉を知らないと思ったわけではないだろう。単純に、聞こえないと思ったらしい。
『……若い女一人を寄越して、神獣を任せたつもりか』
ブラムウェルでもそこまでは聞き取れた。続く言葉は少し早く、知らない単語が交じった。アリアの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「ご心配には及びません。若い女一人であっても、耳は正常に機能しておりますので」
後ろの男が固まった。
「先ほど『雪山では頭の中まで凍るらしい』とも仰いましたね。こちらの冬は厳しいですが、幸い私はまだそこまで冷えておりません。どうぞ今後も、ご意見がおありでしたら私へ直接お申し付けくださいませ」
村人には何を言っているのか分からない。しかし相手の男の顔色だけは分かったらしい。少し離れたところで見ていたバルトが口元を押さえた。笑っている。ゲルハルトが一度だけ後ろを振り返った。目が怖かった。
「部下が失礼を」
「いいえ。長旅のあとですもの。思ったことが口から零れることもございます」
零れたものを拾って相手の顔へ真っ直ぐ叩き返した女が言った。
「ですが、神獣様について一点だけ訂正させてくださいませ。現在確認されている神獣様は、この地で生まれ、この地でご家族と暮らしておられます。我々が保護しているのではありません。人間の管理下にもありません」
「だからこそです。このような辺境で、十分な警備もなく放置されている」
「放置、とは具体的にどのような状態を指しておられますか」
「……人間による保護がない状態です」
「神獣様は保護を必要としているのでしょうか」
「幼体だと聞いております」
「親個体を含む複数の成獣と行動していることも報告済みのはずですが、お読みになっておられませんか」
ゲルハルトの口が止まった。ブラムウェルの右手が、無意識に握られた。いけ。
「もちろん承知しております。ですが、野生の魔獣に育てられるより、人の手によって適切な教育を施した方が────」
「失礼ですが、いま『魔獣』と仰いましたか?」
アリアは笑みを崩さないまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「氷嶺白虎を建国以前より女神の御使いとして崇め、その信仰を根拠に神獣様をルーヴェルへ迎えるべきだと主張なさっている方が、その神獣様を育てておられる同族を『野生の魔獣』とお呼びになるのですね。
でしたら確認させていただきたいのですが、貴国において氷嶺白虎が聖なる存在であるのは神獣と認定された個体だけで、それ以外は人間が飼育すべき魔獣という理解でよろしいのでしょうか?」
「そういう意味ではありません。神獣は人と心を通わせる存在です。我が国では古くから氷嶺白虎を敬い、その扱いについても長い知見が────」
「心を通わせることと、人間が上位に立って飼育することは同義でしょうか。
それに、先ほどまで貴国の長い白虎信仰を神獣様のお迎えを求める根拠となさっていましたのに、そのご家族については『野生の魔獣』として切り離されるのですね。どこからが聖獣で、どこからが魔獣となるのか、まずその基準を伺っても?」
「我が国には長い信仰の歴史があります」
「アルディナにもございます。信仰の歴史が長いことと、その信仰対象を他国から移す権利が生じることは別のお話です。
もし歴史の長さによって神獣様の帰属国を決定できる規定、あるいは神獣様のご家族を『魔獣』として扱い、人間が幼獣を引き離して教育してよいとする典拠がございましたら、ご提示いただけますか?」
いっけええ! はしゃぎボケ女!!! お前の戦うべき戦場は雪原じゃない! ここだ!!
ブラムウェルは無言のまま拳を握った。その横ではエダンも何を話しているのか分かっていないくせに、いつの間にか腕を組んで大きく頷いている。分かっているのか。絶対分かっていない。
「我が国の『白冠聖典』には、女神が氷嶺白虎を西へ遣わされたとの記述があります」
「第六章ですね。存じております。ただし、現在ルーヴェル祭祀院で正典本文として採用されている第三校訂版では、該当箇所は『白き獣は日没の山を越え、人の王に道を示した』となっております。西へ遣わされたのではなく、神獣自身が西へ移動したと解釈するのが現在の主流ではございませんか」
ゲルハルトの眉がわずかに動いた。
「しかし旧写本の一部には」
「その写本系統を国家間の権利主張の典拠となさるのでしたら、同じ系統にございます『神の獣に縄をかける者、その縄に自らの首を繋ぐ』という一節も同時に採用なさいますか」
ブラムウェルには細かな宗教用語までは分からなかった。分からなかったが、相手の顔は分かる。刺さっている。すごく刺さっている。グッサグサに刺しまくってる。
「それは比喩表現です」
「では、先ほどの一節だけを領有権の根拠として文字通り解釈する理由を伺っても?」
ブラムウェルの心臓が、キュッとなった。今の聞き方には覚えがある。
『この件について質問が』
学生時代、論文発表の最中に教授が手を挙げた時の声が蘇った。
『資料とされた文献の作者ですが、この引用からどのようにしてこの結果に?』
やめろ。
『つまり君は何が言いたい』
やめてくれ。
あの頃は教授という生き物は学生を追い詰めることを生き甲斐にしているのではないかと思っていた。自分が研究者になり、教える側になってから分かった。
別に責めるつもりではなかったのだ。本当に分からないから聞いていただけ。なぜその文献からその結論になったのか。そこにどういう論理があるのか。君が言おうとしていることを正確に理解したい。ただそれだけだった。
理解できるようになった。今なら分かる。それでも心臓はキュッとなる。怖い。
「我々は神獣を所有しようとしているのではありません」
ゲルハルトの声から、最初にあった余裕が少しずつ消えていた。
「より信仰の厚い土地へお迎えし、尊崇にふさわしい生活を送っていただこうと」
「現在の生活が尊崇にふさわしくないと判断された根拠は?」
「人里から離れた洞窟で暮らしていると」
「氷嶺白虎として正常な生息環境です」
「食事も野生の獣を」
「氷嶺白虎として正常な食性です」
「しかし神獣です」
「神獣であることによって、氷嶺白虎ではなくなったという記録はございません」
拳に力が入る。やれ。もっとやれ。
「何より、移送そのものに危険があります。幼獣を現在の家族群から引き離した場合、成獣がどのような行動を取るか予測できません。現状で神獣様ご自身がルーヴェルへ移る意思を示した事実もございません」
「人の言葉を理解するのでしょう。ならば話せば」
「お話しになるのは自由です。ただし、こちらから接近することは認められません。神獣様の生活圏へ人間が入り、移動を求める行為そのものが刺激となります。それによって村人へ危険が及ぶ可能性がありますので」
「では、いつまで待てと?」
「何をでしょう」
「神獣が自ら我々の前へ現れるまでです」
「はい」
「それでは何年かかるか分からない」
「神獣様があなた方へ会う義務はございませんもの」
エダンの後ろで、誰かが小さく「おお」と言った。意味は分かっていない。しかし勝っていることだけは分かるらしい。いつの間にか村人が増えていた。魚を干していた女もいる。薪を抱えた男もいる。子供まで二人いる。
アリア達の会話には所々ルーヴェル語が交じる。ブラムウェル自身にも聞き取れるが理解出来ない単語が多い。しかし、アリアが口を開くたびに相手の顔が険しくなるので、完全に競技観戦の様相を呈していた。
「アリアーがんばれー」
子供が小声で言った。だから何を話しているか分かっていないだろ。アリアにも聞こえたらしい。一瞬だけ口元が緩んだ。
ゲルハルトはそれを見て、今度こそ露骨に不快そうな顔をした。
その横にいた若い神官が、苛立ちを抑えきれなかったのだろう。顔を背け、息に紛れるほどの小さな声で吐き捨てる。
『東の女は口ばかり達者だ。神殿は娼婦にまで弁論を教えるのか』
ゲルハルトの顔色が変わった。
言った本人も、直後にしまったという顔をした。
アリアの笑顔は崩れなかった。
今度はブラムウェルにもほぼ全部聞き取れた。あ、まずい。
「ルーヴェルでは、議論において返答に窮した際、女性の職業を勝手に変更することで優位を取り戻す作法があるのでしょうか? 勉強不足で申し訳ございません。私が拝読した外交礼法書には記載がございませんでした」
ゲルハルトの顔が引きつった。
「聞こえていたのか」
「先ほどから申し上げております。耳は正常です」
バルトが完全に下を向いた。肩が動いている。笑っている。ブラムウェルも少し危なかった。何を言っているかはよくわからないながらも、何かしらとんでもない失言をしたことは見ただけでも分かったらしい。
「それと、娼婦という言葉を侮辱としてお使いになるのもお控えくださいませ。
聖典には、娼婦もまた女神の写し身のひとつとなり得るとの記述がございます。少なくとも神官が彼女たちを卑しむことは許されません。使節団に選ばれるほどの神官様が、その教えをご存じないとは……少し悲しいことですわね」
いけいけ! やれやれ!
ブラムウェルの拳は、もう胸の前まで上がっていた。ここまで来ると、誰を応援しているのか隠す意味もない。アリアの返しから向こうが何を言ったのか察したのだろう。周囲の村人たちからも、遠慮のない文句がぽつぽつ飛び始める。
「いやぁねえ」「失礼なやつだな」「神官さまなのに悪口いったの? なんで? にせもの?」
最後の一言がいちばん効いた気がする。使節団の後方にいた護衛の一人がこちらを見た。知らん。見るな。あっちいけ。
「……現地担当の一神官に、国家間の協議を拒む権限があるとお考えか」
ゲルハルトが言った。さすがに苛立ちを隠さなくなってきた。
「拒んでいるのではございません。引き渡しを前提とした協議には応じられないと申し上げています。神獣様について情報交換を行いたい、信仰上の見解を共有したい、今後の両国間での扱いを協議したいということであれば、喜んで」
「結局、あなた個人の判断でしょう」
「現在この地へ大神殿から派遣されている神獣典礼室の担当者は私ですので、現地での安全管理については私からも意見を申し上げます」
「だから、それが一神官にすぎないと言っているのです」
「一神官であることに間違いはございません」
アリアは素直に頷いた。その時だった。使節団の中ほどにいた年嵩の男が、アリアをじっと見た。先ほどまでほとんど喋っていなかった男である。文官らしい。濃紺の外套の襟元に小さな銀章をつけていた。
『……アルヴェーン?』
ルーヴェル語で呟かれた名に、アリアの表情が一瞬だけ止まった。ブラムウェルも聞き覚えがあった。アルヴェーン。アルヴェーン。どこだ。何だった。政治関係で、昔、王都がかなり揉めていた頃に、何か……そういう名前の貴族が……。いかん。忘れた。
専門外のことは驚くほど頭に残っていない。そもそもブラムウェルは王都から遠く離れた土地の生まれで、王家だのなんだのという天上人の事情に興味を持たずに生きてきた。
研究費を出す貴族の名前なら覚える。博物院へ寄付した家も覚える。論文へ関係するなら三代前まで調べる。それ以外は知らん。それがこんなところで問題になるとは思わなかった。
アリアは年嵩の男へ向き直った。
「その名は国へお返ししました。現在、私はただのアリアです」
男の顔色が変わった。ゲルハルトが怪訝そうに彼を見る。
「知っているのか」
「閣下」
年嵩の男が、今度はかなり声を落とした。ブラムウェルには一部しか聞き取れない。アルヴェーン公爵家。王都。政変。最後の一人。大神殿。そして、国王。そこまで拾ったところで、ゲルハルトの顔から苛立ちが消えた。代わりに別の警戒が浮かぶ。
『……姓を返したのではないのか』
『返しております。ただ、私は前任地でアルディナ王都に駐在しておりましたので、その後の事情も多少は。あの一件のあと、アルディナ現王は彼女を……正式な書面こそありませんが、事実上ご自身の庇護下へ置いておられると考えた方がよろしいでしょう。彼女個人へ外交上の圧力をかけたと受け取られれば、大神殿ではなく王宮から直接照会が来ます』
『王が?』
『本人が出てきます』
ブラムウェルは、ゆっくりアリアを見た。アリアは困ったように笑っている。
え。この女。そんな立場なのか。
いや、それ以前に、ブラムウェルはここまでの会話を頭の中でもう一度なぞった。
流暢なルーヴェル語。単に会話ができるという水準ではない。古い宗教文書の版による差異を知っていることは神官なら分かる。神獣典礼室なら外国の神獣信仰を学ぶこともあるだろう。
しかし、言葉の使い方が違う。相手を直接怒らせない表現を選びながら刺しつつ逃げ道を塞ぎ、相手の立場を立てる形式を取りながら主張だけは一歩も譲らない。
敬称の使い分けも、身分に応じた呼びかけも、相手がどこまで無礼を働けば正式な抗議に切り替えられるのかという境界の踏み方まで知っている。学者が外国語を学んだ時の喋り方ではない。神官が典礼のために覚えた言葉でもない。
この女……教養がある……!! しかも、この言葉の使い方。貴族の中でも高位だ! 高位貴族の高等教育を受けている!!
思い返せば、初日に姓は国へ返したと言っていた。ブラムウェルは「そういう制度もあるのか」で流した。流すべきではなかった。国へ返す必要のある姓というのは、そこらへんに転がっている平民の姓とは格が違うと考えるべきだった。
─────────────────────
その横で、アリアは少しだけ目を伏せた。アルヴェーンの名は返した。自分でそう決めた。もうその家の娘として何かを受け取るつもりも、昔の身分を使って人を従わせるつもりもない。
だから、本当なら姓を返しておきながら、王の威光だけを借りるような真似はしたくなかった。
少しだけ申し訳ない。うそ、ものすごく申し訳ない。
でも、アリアは村の方を見た。まだ少ししか暮らしていない小さな村。壁を直した教会。薪割りを教えてくれた老人。魚をさばくのが下手だと笑った女。説法の途中で寝る子供。
神獣が現れるよりずっと前から、この山と折り合いをつけて暮らしてきた人たち。ここへ他国の人間が来て、村のすぐそばで暮らしている神獣を連れていくと言っている。
それなら。
お父様。お母様。姓を返したのに王家との繋がりだけ使うのは、少しずるい気がします。陛下にも、あとで心の中で謝ります。でも今だけ。
村のために使わせていただきましょう!
アリアが顔を上げた。笑顔だった。
「ヴァンデル様」
ゲルハルトの背筋が、わずかに伸びた。
「先ほど申し上げました通り、私は現在ただの神官です。昔の家名を理由に、私個人の意見を重く扱っていただく必要はございません」
相手が少しだけ安心した。
「ですが、神獣様を本人の意思に反して移送するお話につきましては、アルディナ大神殿、西方守護府、必要であれば王宮にも確認を取っていただいた上で、正式な外交協議としてご提案くださいませ。私からも、今日こちらで伺った内容を一言一句違えず報告いたします」
安心した顔が消えた。
「特に、現地住民を『粗末な環境』と評価なさったこと、担当神官に対して娼婦という表現を卑しむ意図をもって用いられたことにつきましても、誤解が生じないよう正確に」
「待ちなさい」
「はい?」
「その部分は外交上の発言ではない」
「承知しております。ですので『非公式な発言として』と付記いたします」
ブラムウェルは顔を背けた。危ない。笑う。
村人の中から、今度ははっきり拍手が起きた。一人。二人。何を言ったか一切分かっていないのに、子供までぱちぱち手を叩いている。ゲルハルトはしばらく黙っていた。
「……本日は長旅の直後です。正式な協議は、明日改めて行いたい」
「もちろんです。皆様のお部屋をご用意いたします。小さな村ですので十分なおもてなしは難しいかもしれませんが、どうぞごゆっくりお休みください」
追い返さなかった。正確には追い返せなかった。ここから国境まで徒歩で帰れと言うわけにもいかないし、馬車を停める場所も食事も必要だ。
アリアに対して自分が同じ理由で残留を許したことを思い出し、ブラムウェルは世の中というものは案外同じところをぐるぐる回るようにできているのかもしれないと思った。
エダンが宿泊場所の割り振りを始め、村人たちも散り始めた。使節団の者たちがそれぞれ荷物へ戻っていき、アリアもようやく肩の力を抜いた。その時、何気なく使節団を見渡した彼女の目が、一点で止まった。
子供がいる。
十歳前後だろうか。使節団の後方、濃い色の外套を着た男の少し後ろに立っている。服装だけを見れば侍従だった。腰には小さな荷袋を下げ、主と思われる男が動けば半歩遅れてついていく。最初は、それだけに見えた。
けれどアリアは首を傾げた。靴がいい。雪山用の革靴としても、明らかに上等なものだった。縫製が細かく、靴底には滑り止めの魔術加工まで施されている。手袋も同じだ。外套の留め金は飾りを抑えているが、使われている金属が周囲の従者とは違う。腰にある短剣もおかしい。侍従へ持たせる実用品にしては柄の作りが良すぎる。よく見ると、代表者であるゲルハルトより身につけているものの質が高い。
裕福な家の子供を、経験のため侍従として同行させているのだろうか。そういうことなら、あり得なくはない。
アリアはその子供の顔を見た。整った顔立ちをした、可愛らしい少年だった。年は十歳前後。肌も髪もきちんと手入れされていて、身なりの良さを差し引いても、裕福な家で大切に育てられている子供に見える。
目が合った。少年は逸らさなかった。その瞬間、アリアは小さく違和感を覚えた。
神官になってから、子供の相手は嫌というほどしてきた。孤児院へ手伝いもしているし、教会へ預けられた子供を何日も世話したこともある。赤ん坊から十代半ばまで、年齢も性格も育った環境もばらばらな子供たちと接してきた。だから、子供が大人を見る時の目は、それなりに知っている。
知らない人への警戒。綺麗な服や珍しいものへの好奇心。怖そうな大人を窺う目。優しくしてくれそうな相手への期待。何かをねだる前の妙に愛想のいい顔。少し年上の相手に憧れて、じっと見上げてくる子だっている。けれど、少年のそれはどれとも違った。
少年は、アリアが誰なのかを見ている。さっき何を言ったのか。ゲルハルトがどこで言葉に詰まったのか。使節団の中で誰がアリアを警戒し始めたのか。
そういうものをひとつずつ拾いながら、値踏みするようにこちらを見ている。それだけなら、妙に聡い子供で済んだかもしれない。
けれど、その視線にはもうひとつ、説明しづらいものが混じっていた。粘つくようなもの。悪意ではない。敵意でもない。むしろその逆に近い。
興味を持たれている。それも、子供の無邪気な興味ではなく、欲しいものを見つけた人間が、それをどう手に入れるか考え始めた時の目だった。
アリアは、これまでにも似た種類の視線を向けられたことがある。王都にいた頃も、神官になってからも。相手はたいてい成人した男で、こちらの顔や身体を眺めながら、自分の欲を隠す気があるのかないのか分からない目をしていた。
露骨なものもあれば、礼儀正しい微笑みの奥に押し込められているものもあった。種類は違っても、向けられている側にはなんとなく分かる。
目の前にいるのは、十歳ほどの少年である。それなのに、同じものがあった。もちろん子供の身体に似つかわしくないほど露骨なものではない。ただ、視線の奥にある欲の質が、子供のそれではなかった。可愛らしく整った少年の顔をしているのに、その内側から中年の男がこちらを眺めているような、ひどくちぐはぐな気配がある。
気のせいだろうか、と一瞬だけ考えた。けれど、子供と接してきた時間ならそれなりに長い。少なくとも、こんな目で自分を見る十歳児をアリアは知らなかった。
少年が、ほんの少し笑った。口元だけを見れば、人好きのする可愛らしい笑顔でしかない。それなのにアリアは、なぜか背筋へ薄く寒気が走るのを感じた。
アリアも、にっこり笑い返した。
彼は警戒が必要! 報連相! あとでブラムウェルさんに言わなくちゃ!
神官には神官をぶつけるんだよ!!




