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最強つよつよ白虎になって異世界を無双しよう!  作者: もこもこハダカデバネズミ


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2/6

がうーわ

 暖かい日は、きょうだい同士で毛繕いをする時間が増えた。


 冬毛が浮いている場所を噛み、舌で梳き、取れた毛を吐き出す。

 最初は母がしていたが、四匹分を一日中舐めるのは大変らしく、私たちも互いにやるよう教えられた。私は魔法では役に立てないので、せめて毛繕いくらいは真面目にやろうと思った。

 父のように乱さないよう、母の舌の動きを観察し、毛の向きに沿って舐める。相手が嫌がる場所は無理に触らない。耳の後ろや首の付け根など、自分では届きにくいところを重点的にする。

 前世の記憶が役に立っているのか、単に舌の扱いが父より上手いのか、きょうだいはおとなしく身を任せてくれた。


 特に、額の黒い縞が少し丸く曲がっている子は毛繕いが好きで、私が寝ていても身体を押しつけて起こし、前へ座る。私が舐め始めると喉を鳴らし、途中でやめると振り返って催促する。


 その日も、洞窟の入口から差し込む日差しの中で、その子の背中を舐めていた。冬毛が抜け、下から短い夏毛が見えている。舌を動かすたびに白い毛がふわりと浮き、鼻へ入る。私は何度かくしゃみをしながら、腰の辺りへ顔を寄せた。


 その時、小さな黒いものが毛の間を走った。


 最初は草の種かと思った。

 だが、黒い点は私の舌を避けるように動き、白い毛の奥へ潜った。私は舐めるのをやめた。目を凝らす。もう一度、毛の隙間に黒いものが見えた。丸いような、細長いような形で、脚らしきものが動いている。ひとつではない。背中の毛を鼻先で分けると、別の黒い点が素早く逃げた。頭の中に前世の知識が一気に蘇った。


「ノミ! ダニ! 疥癬!!」


 私は反射的に叫んだ。きょうだいが驚いて跳ね、私の下から逃げようとした。私は前足で背中へしがみついた。待って。動かないで。今、君の毛の中に何かいる。

 ノミなのかダニなのか分からない。疥癬は目で走るものではない気もするが、そんな細かいことを検討している場合ではなかった。


 獣に付く寄生虫と聞いて思い出せるものを、恐怖の勢いで全部並べただけだ。もふもふ生物に縁がなかったので、実はそんなに知識はない。疥癬にかかったタヌキが怪物と間違えられる見た目になっていたのは、ニュースで見たことがある。あのタヌキは可哀想だった。


 そして前世の私は虫が得意ではなかった。室内に小さな蜘蛛が出れば、益虫だと自分に言い聞かせながら窓の外へ逃がせたが、身体に付着し、血を吸い、皮膚の下へ潜り、卵を産む類は無理だった。本当に、無理。今世の私も虫って無理。


 写真を見るだけで頭が痒くなるのに、今は全身が毛で覆われている。自分の背中も腹も、目で確認できない。私が見つけたのはきょうだいの一匹に付いた黒い点だが、同じ寝床で毎日重なって眠っている以上、私だけ無事であるはずがない。

 母にも父にもいるかもしれない。いや、いるだろう。たまに背中が痒くなっていた理由がいま判明した。点と点が勝手に繋がっていく。野生動物にダニもノミも居ないわけがなかった。


 洞窟の草にも潜んでいるかもしれない。考えた瞬間、全身の毛の根元がざわざわした。実際に何かが動いたのか、想像で痒くなったのか分からない。その分からなさがより最悪。



 冷やせば虫は動かなくなる。そんな考えが浮かんだ。きょうだいは氷を使える。母は冷凍ビームを撃てる。父も床一面を凍らせられる。

 白虎の氷魔法なら、毛の中の虫をどうにかできるかもしれない。しかし、きょうだいの身体ごと凍らせてはいけない。虫だけを凍らせる。皮膚は冷やさず、毛の中にいる小さな生き物だけを止める。

 見つけたものだけでは足りない。今見えないものもいる。卵があるかもしれない。母の腹、父の耳、きょうだいの指の間、私の尻尾の付け根。家族の身体に付いているものを全部。外から新しく入ってくるものも防ぐ。小さい生き物だけ。私たちよりずっと小さく、毛の中へ入り込めるもの。

 私たちの身体を食べようとするもの。血を吸い、皮膚を傷つけ、弱らせるもの。悪いもの。凍らせて、触れさせず、近づけない。


 これまで何度真似しても何も出なかった喉の奥が、急に冷たくなった。


 母が魔法を使う時の白い光ではない。薄い氷を飲み込んだような冷たさが胸から腹へ落ち、そのまま四本の足先へ広がった。

 私はきょうだいの背中へ前足を置いたまま、息を止めた。毛の下を白い光が走る。光は皮膚に触れず、毛の表面だけを薄く撫で、身体の輪郭に沿って広がっていく。


 空気がきんと鳴った。白い毛の間から、小さな氷の粒がいくつも浮き上がった。さっき見た黒いものが、透明な氷の中に閉じ込められている。粒は毛から離れると床へ落ち、かすかな音を立てて転がった。

 ひとつ、ふたつではなかった。肩、背中、腹、後ろ足の付け根から、砂をこぼすように氷の粒が落ちてくる。きょうだいは驚いて身体を震わせたが、寒がってはいない。皮膚も凍っていない。むしろ、ずっと気になっていた痒みが急になくなったように、後ろ足で首を掻こうとして途中で止まった。


 光はその子だけで終わらなかった。

 私の前足から寝床へ広がり、隣にいた二匹へ触れた。二匹の毛の中でも白い光が走り、凍った黒い粒がぱらぱら落ちた。私の身体も同じ光に包まれた。腹の下、耳の裏、尻尾の根元から、見たくない数の氷粒が出た。私は悲鳴を上げた。


「いたの!? 私にもいたの!? いつから!?」


 私の声を聞きつけ、母が洞窟の奥から駆けてくる。父も入口で顔を上げた。母は床に散らばる氷の粒と、光っている私たちを見て足を止めた。

 私は母へ走った。説明はできない。説明できないので、母の前足へ身体を擦りつけ、さっきと同じことを強く思った。


 母にも。小さい悪いやつを凍らせる。毛の中へ入れない。血を吸わせない。痒くさせない。光が私から母へ移った。

 母の大きな身体を薄い膜が包み、白い毛がふわりと逆立つ。次の瞬間、母の首元と腹の毛から、大量の氷粒が落ちた。床へ当たる音が続いた。母は目を見開き、自分の身体を振り返ろうとした。届かない。代わりに後ろ足で脇腹を掻き、その足を途中で止めた。何度か皮膚を動かすように身体を震わせ、ゆっくり座った。


 私は父にも駆け寄った。父は何が起きているか分からないまま、私が近づくと鼻先を下げた。私はその鼻へ額を押しつけた。父の身体にも光が広がった。母やきょうだいより毛が厚いせいか、氷粒はしばらく内部へ留まり、父がぶるりと震えた瞬間、白い毛の中から一斉に飛び散った。床が細かな氷で埋まった。


 しばらく、誰も動かなかった。私は息を切らしながら父の前足にもたれた。


 魔法を使った実感はある。身体の中にあった何かが減り、足に力が入らない。それでも意識ははっきりしていた。


 父が私の匂いを嗅いだ。母が近づき、私の全身を確かめるように舐めた。

 舌が触れても光は消えなかった。薄い膜のようなものが私たちの身体を覆い、外から入り込もうとする小さな生き物を見張っている感覚がある。


 毛の上を蟻より小さなものが横切ろうとすると、その場所だけが一瞬冷え、侵入者を氷の粒にして落とす。家族の皮膚や毛には影響しない。寝床の草も凍らない。獲物の肉にも反応しない。


 私が恐れたもの、私たちへ取りついて害を与えるものだけを区別しているらしい。

 どうやって見分けているのかは私にも分からなかった。

 頭で細かく条件を決めたわけではない。嫌だ、入ってくるな、家族に触るな、という気持ちが、氷魔法の形を変えたのだと思う。

 きょうだいが冷気を吐き、母がビームにし、父が広く床を凍らせるように、同じ氷でも使い方が違う。私の氷は大きなものを凍らせる代わりに、目に見えにくい小さな敵だけを探し出し、身体へ届く前に遮断する。


 攻撃としては地味だ。母の冷凍ビームのように敵を吹き飛ばせず、父のように地面を氷原へ変えることもできない。だが、ノミとダニに怯えて生きる必要がなくなる。前世の知識を持つ私にとっては、下手な攻撃魔法よりありがたい。あのタヌキみたいになった家族は見たくないし、私だってなりたくない。



 魔法をかけてから少し経つと、家族の様子が変わった。


 最初に走り出したのは、きょうだいだった。いつもなら腹を満たして、そのまま折り重なるように昼寝を始める時間なのに、一匹が突然、寝床の端まで駆けていった。壁へ前脚をつき、身体をひねって方向を変えると、伏せていた別の一匹の背へ飛びかかる。


 飛びかかられた方も怒らなかった。転がりながら前脚を振り、相手の顔を軽く押し返す。その隙に三匹目が腹の下へ潜り込み、後ろ脚へ噛みついた。噛まれた一匹が大げさに跳ね上がり、三匹は一斉に洞窟の中を走り出した。


 岩陰へ隠れ、尾の先だけを揺らして待ち伏せる。相手が近づくと飛び出して肩へ組みつき、追われる側に回れば、わざと速度を落として鼻先まで近づかせてから横へ跳ぶ。

 氷の玉を前脚で弾き、転がる先へ回り込み、奪い合うように何度も叩いた。やがて獲物を見失った三匹は、近くに垂れていた父の尾を新しい遊び道具と決めたらしい。揺れる先端へ順番に飛びかかり、最後には三匹まとまって噛みついた。


 父が尾を持ち上げると、三匹もそれに釣られて前脚を浮かせる。下ろせば覆いかぶさり、また上げれば追いすがる。完全に遊ばれているのに、誰も気づいていなかった。


 動きが明らかに軽い。


 これまでも十分に元気だと思っていた。けれど今のきょうだいを見ていると、あれでもずいぶん控えめに遊んでいたのだと分かる。足取りは弾み、息は乱れず、何度転がってもすぐに起き上がった。


 母も、しばらくその様子を眺めていた。


 やがて大きく身体を伸ばし、前脚の爪を岩肌へ立てて背筋を反らす。それを何度か繰り返したあと、母は伏せていた父のもとへ歩み寄った。


 鼻先を、父の頬へ押しつける。


 父が顔を上げると、母は喉の奥で、ぶふ、と短く息を鳴らした。頬を一度だけ擦り合わせ、そのまま通り過ぎるように見せかけて、父の肩へ自分の肩をぶつける。


 巨体同士が触れ、鈍い音がした。


 父は目を丸くした。


 母は知らん顔で二、三歩進み、振り返りもせず、後ろ脚だけで父の前脚を軽く蹴った。それからようやく顔だけを向ける。尾の先が、ゆっくり左右へ揺れていた。


 遊びの誘いだ。父が立ち上がるより先に、母は洞窟の外へ駆け出した。


 父もすぐに追う。


 母は全力では走らなかった。父の鼻先が脇腹へ届きそうになるたびに速度を上げ、距離が開けばわずかに緩める。雪解け水の残る地面を回り込み、岩の陰へ身を伏せる。父が追いついて鼻を覗かせた瞬間、母は横から飛び出し、その肩へ前脚をかけた。


 父はよろめきながらも踏みとどまり、母の首へ顎を載せる。母は身を沈めてそれを外し、今度は父の頬を前脚で押した。


 叩くというより、巨大な肉球で顔ごと向こうへ押しやった。


 父が母の前脚へ甘く噛みつく。母はその鼻面をもう片方の前脚で押さえ、そのまま体重をかけた。父が地面へ倒れると、母も一緒になって転がった。


 喧嘩ではない。耳は伏せ切らず、毛も逆立っていない。爪を深く立てることも、牙を食い込ませることもなく、互いの首筋や頬の毛を浅くくわえては離す。父が下から母の肩を押し返せば、母は身体をひねって逃れ、すぐまた父の背へ前脚を回す。攻める側と倒される側が、何度も入れ替わった。


 母が父の上へ乗り、首筋を甘く噛む。父は後ろ脚で母の腹を押し上げた。


 母は身体を浮かされ、短く高い声を漏らした。怒ったのかと思ったが、着地するなり父の周囲を半周し、今度は背後から飛びかかった。


 きょうだいたちも洞窟から飛び出してきた。転がり合う二頭の周囲を走り、揺れる尾へ飛びつき、隙を見つけては父や母の背へ登ろうとする。母が一匹を鼻先で押し転がし、父が別の一匹を前脚で抱え込む。その横を残った一匹が駆け抜けると、今度は大人二頭まで釣られるように後を追った。


 雪の消えかけた地面を、五頭の白い虎が入り乱れて走る。


 追い、追われ、隠れ、飛びかかり、転がってはまた起き上がる。


 静かだった谷に、足音と息遣いと、喉の奥で弾むような短い鳴き声が、いつまでも響いていた。私は入口まで追いかけ、家族を見ながらぞっとした。


 やっぱりノミダニ疥癬のデバフが、いつのまにか全員へかかっていたのだ。


 魔法をかけた途端にこれほど元気が大爆発するなら、今までずっと何かに体力を削られていたに違いない。

 私たちはまだ幼く、母は出産と授乳で身体に負担がかかり、父は毎日狩りへ出ている。その全員へ寄生するなど許しがたい。

 しかも、冷凍ビームを吐く白虎が存在する世界だ。こちらの寄生生物が、前世で知っている普通のノミやダニと同じとは限らない。むしろ同じであるはずがない。


 気温が低い土地で、氷魔法を使う生物の毛に住みつき、家族全員から血か魔力か何かを吸っていたのだ。

 寒さに強く、毛の奥へ潜り、魔法で身体を守る凶悪な何かだった可能性が高い。


 私が見つけた黒い点は、成体になる前の幼生だったのかもしれない。放っておけば大きくなり、背中から脚を生やし、夜中に白虎を操って巣へ連れ去るような魔物になったかもしれない。異世界の寄生虫ならそれくらいやる。

 冷凍ビームを顔面で受けても平気な白虎がいる世界。ノミだって火を吐くくらいはするだろう。


 母と父は遊び終わると、私のところへ戻ってきた。母は私の匂いを嗅ぎ、胸元を舐めた。

 父は私の身体を前足の間へ入れ、頭から背中まで何度も舐めた。毛繕いというより、何かを確かめているようだった。

 きょうだいも集まり、私へ身体を押しつけた。魔法の意味が伝わったのかは分からない。家族が急に楽になった原因が私だと理解しているのかもしれないし、私の周りに集まれば気持ちがいいと感じているだけかもしれない。どちらでもよかった。


 私は今まで、言葉が分からず、氷も出せず、可愛いだけの存在だった。そんな私が初めて家族に返せるものができた。


 攻撃には使えなくても、父が狩りへ出る時に小さな毒虫を防げる。母が子どもを抱いて眠る時、毛の中の痒みに邪魔されない。きょうだいが草むらへ入っても、何かを連れ帰らずに済む。私自身も安心して全身をもふもふへ埋められる。十分だった。



 その夜、父はいつもより大きな獲物を持ち帰った。魔法で身体が軽くなったから張り切ったのか、背中に岩のような殻を持つ獣を引きずっていた。

 獲物の身体は父より重そうだったのに、足取りは軽い。母は獲物を見るより先に父へ近づき、鼻先を触れ合わせた。

 父が何か低く鳴き、母が高い声で返す。分からない。やはり言葉は分からない。それでも、二頭が嬉しそうなのは分かった。


 母は父の首元へ頬を擦りつけた。父はすぐ毛繕いを始めた。母の頭の毛が逆立ち、片方の耳だけ濡れて折れる。母は怒らず、なすがままになっている。父が満足すると、今度は母が父の頬と首を丁寧に舐めた。


 食事が始まり、母は肉を食べながら、父が好きな腹側の柔らかい部分だけを残した。私たちはもう近づかない。学べる賢い虎なので。きょうだいの一匹が匂いにつられて前へ出かけたが、母の顔を見て戻った。


 父は最後にその肉を食べ、少しだけ母へ返した。母はそれを食べ、私たちにも小さな欠片が回ってきた。


 家族全員が腹を満たしたあと、父は洞窟の入口近くへ横になる。暖かい季節になっても夜は冷える。ドアのかわりに冷気を巨体で防いでいるのだろう。父の腹は毛が厚く、呼吸のたびにゆっくり上下する。

 きょうだいが一匹ずつそこへ集まり、身体を丸めた。私は最後に空いている隙間へ潜り込んだ。父の腹ときょうだいの背中に挟まれ、前足を畳み、尻尾を腹へ巻きつけると、ちょうど身体が収まった。

 母は私たちが全員いることを確認してから、父と向かい合うように伏せた。父の尻尾が母の後ろ足へ触れ、母はそれを抱えるように足を重ねた。


 いつごろ親離れや子離れが発生するのかは分からない。

 虎なら、いつかは自分の縄張りを持ち、家族と別れるのだろう。魔法生物の白虎が普通の虎と同じ成長をするとも限らない。

 何年も一緒に暮らすのか、次の冬には追い出されるのか、そもそも群れのまま生きる種族なのか、私は何も知らない。

 言葉が理解できないので、聞くこともできない。


 先のことを考えると不安はある。だが、今はまだ、母の乳の匂いが残るよちよちのバブにゃんである。

 父が食べ物を運び、母が毛を整え、きょうだいが遊びへ誘ってくれる。

 ノミダニらしきものは私の魔法が凍らせる。外敵が来れば、母が冷凍ビームを撃ち、父がそのビームに耐え切れるほどの防御力で立ちはだかる。


 これほど安全なニート生活が、前世にあっただろうか。親離れの日が来るまでは、ぬくぬくもふもふニートラ生活を全力でエンジョイしたい。


 自立はその時になってから考える。今から心配しても毛が抜けるだけだ。せっかく寄生虫を排除したのに、ストレスで禿げては意味がない。


 父が身体を少し動かし、腹の毛が私の鼻先をくすぐった。私は顔を押しつけ、目を閉じる。きょうだいの一匹が寝返りを打ち、私の背中へ後ろ足を載せる。別の一匹は私の尻尾を枕にしている。三匹目は父の前足へ顎を乗せ、すでに小さないびきをかいていた。

 母と父が何やら話している鳴き声が微かに聞こえる。洞窟の外では雪解け水が流れ、遠くで何かの獣が鳴いた。私たちの周りだけは静かで、温かかった。


 頭の上に、ふっと影が落ちた。目を開けると、父がこちらを覗き込んでいる。青白い目が細まり、大きな鼻面がゆっくり近づいてくる。

 何だろうと顔を上げた次の瞬間、ぶ厚い舌が額から首筋まで、べろりと一息に撫でていく。視界が一瞬、舌だけになった。毛は逆立ち、耳はべしょりと濡れ、顔まで横へ押し流された。相変わらず、びっくりするほど下手くそ。


「ぴゃう……」


 情けない声を漏らす私の頭上で、父はやり遂げた顔をして満足そうに鼻を鳴らした。それから喉の奥を震わせ、低く、けれどどこか優しい声で鳴く。


「ガウーワ」


 顔を上げると、父はもう一度、今度は少し短く「ガウーワ」と鳴いた。母もうっすら目を開け、父の舐め跡でぐしゃぐしゃになった私の頭を見る。

 いつもならすぐに舐め直しに来るところなのに、母は父の嬉しそうな顔を一度だけ見て、何もせずにまた目を閉じた。けれど眠りへ戻る直前、母も小さく呼びかけのように吠えた。


「ガウーワ」


 父とは少し違う声だった。低くて、柔らかくて、いつも私を腹の方へ呼び寄せる時の響きに似ていた。

 最初は名前と認識できていなかったけど、今となってはもう完全に“私の名前”だ。なんとなく嬉しくて、鼻をふんふん鳴らしてからもう一度父の腹へ顔を埋めた。毛の奥に、あの黒いものはいない。あるのは父の体温と、左右から押しつけられるきょうだいの重みと、ほんの少し獲物の血の匂いを残した、大きな身体だけだった。


 前世の名前も、前世の人生も、忘れるつもりはない。菜花火花だった私は、確かに一度生きて、一度死んだ。けれど今は、父と母が呼ぶたびに耳を動かし、きょうだいに踏まれ、氷の玉を追いかけ、肉を食べて眠る白い虎だ。

 明日のことは、明日になってから考えればいい。せっかくもう一度生まれたのだから、今度はがうーわとして、この白虎生をできるだけ楽しく生きていこう。


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― 新着の感想 ―
ここまで読んでの感想。 なんだか心がポカポカと温まりました。最近心がずっとイライラ?ギスギスとして寒々しかったので、とても温まり助かりました。良い感じにリセット出来そうです。ありがとうございます。
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