ぴぃお
前世の私の名前は、菜花火花と書いて、なのはなひばなと読んだ。名字なのか名前なのか判然としない、というより、どう見ても平和な花畑に火を放った輩みたいな字面だと散々いじられたが、姓も名前も単体で見ると可愛い方だろ! と今でも釈然としない。可愛すぎて嫉妬かな?
両親が狙ってつけたのか、役所に提出してから組み合わせの問題に気づいたのかは最後まで聞けなかった。
聞こうと思えばいくらでも機会はあったのに、こういうものは一度聞きそびれると妙に照れくさくなり、いつでも聞けるからと後回しにしているうちに、いつでもが永遠になくなってしまう。人生とはそういうものだったらしい。
死因はたぶん、ヒートショックだった。風呂場から脱衣場に出たところまでの記憶がかろうじて残っている。風呂の中で……という訳ではなかったことは幸い。一人暮らしだったし。まだ湯船の中よりは、全裸脱衣場大の字の方がマシ。
そして、その人生を一度終えた私が今世でなんと呼ばれているのかというと、たぶん“がうーわ”だ。
たぶん、というのは、母が私を呼ぶ時、喉の奥を震わせながら「がぅるるぅ、わぅ」と鳴くため、その前半と後半をつなぎ合わせて勝手にそう判断したから。もしかすると、あれは名前ではなく「こっちへおいで」とか「お腹が空いたのね」とか「さっさと寝なさい」という意味なのかもしれない。
親きょうだいは問題なく会話しているらしく、母が低く唸れば三匹がいっせいに伏せ、父が短く鼻を鳴らせば母が洞窟の外へ顔を向ける。私だけが何も分かっていない。分からないので、呼ばれた気がしたらひとまず返事をするようにしている。
「ぴぃお」
これでだいたい許される。赤ちゃんなので意思疎通が成立していなくても、口を開いて高い声を出せば、相手の方が上手く意味を汲み取ってくれる。ちなみに“ぴぃお”とは“ぴぃお”という意味しかない。なんか可愛い音というだけの、謎の単語で意思疎通を頑張っている。
前世でも乳児は泣くだけで空腹、眠気、不快、抱っこ希望を周囲に読み取らせていたのだから、種族が変わっても赤子の強さは変わらないらしい。
ただし今の私は人間の赤子ではなく、四本足で歩き、全身に白い毛が生え、額から背中、尻尾にかけて黒い縞模様を持つ、もふもふの虎の赤ちゃんである。
白虎と呼んでいいのだと思う。前世の動物番組や写真集で見たホワイトタイガーと比べると、母も父も二回りほど大きいうえ、洞窟の奥で寝ていても輪郭がうっすら青白く光っているため、ただの色素の薄い虎ではない気がするが、見た目だけなら間違いなく白虎だ。
きょうだいは私以外に三匹いる。性別は分からない。ついでに私自身の性別も分からない。魂の自己認識としては前世から引き続き女のつもりでいるけれど、現世の身体が雄なのか雌なのかは不明である。
見ようとしたことはある。仰向けになって後ろ足を広げ、腹の下を覗き込もうとしたところ、頭が重くてそのまま横へ転がり、隣で寝ていたきょうだいに顔から突っ込んで、きょうだいは寝ぼけたまま私の耳を吸い始めた。なんにも分からなかった。
猫とかのオスはプリプリのふぐりをお持ちだが、父の腹の下に潜入して見上げても、もふもふの体毛が邪魔をして全てを隠してしまっていた。
私の真似をしたきょうだい達により、狩りで疲れて帰ってきた父はそのまま股くぐり遊びの道具にされて座ることも許されず、たまに「がお」と鳴きながらもされるがままに耐えてくれた。今世の父もとても優しい。
よちよちのバブにゃん虎の個体の違いはよく分からないので、今は全員まとめてきょうだいとして扱っている。
向こうも私のことを何かしら呼び分けているようだが、私に聞こえるのは「ぐぅ」「わぅ」「ぴるる」「がぅるる」の変奏だけ。音の高さや長さに規則がある気はする。
それを理解しようと毎日耳を澄ませているのに、母の「危ないから戻りなさい」と「ご飯だから戻りなさい」と「父を踏んで起こしなさい」の違いすらまだ判別できない。最後のものだけは母が父の方を見ながら私の尻を鼻で押すため、状況から推測できるようになった。
暮らしているのは岩山の裂け目にできた広い洞窟で、奥には青い結晶がいくつも突き出し、夜でも完全な暗闇にはならない。
床の一部には父と母が集めたらしい乾いた草や、誰のものか分からない長い毛が厚く敷かれていて、そこが寝床になっている。入口の向こうには針葉樹に似た背の高い木々が並び、遠くには白い峰が見える。
生まれたばかりの頃は外の空気を吸うだけで鼻の奥が痛くなったが、季節が進むにつれて冷たさがほどけ、洞窟の前に積もっていた雪も少しずつ薄くなっていった。
ここが日本の動物園のホワイトタイガー舎だったら、私は天下を取れた自信がある。
にんげんの事を襲わない噛まないのベタ慣れタイガーになるし、飼育員さんに背中を洗われてもおとなしくする。ガラスの前でお腹を見せてころころしてあげるし、客のカメラがこちらを向いたら絶妙な角度で前足を舐めてあげたっていい。
ホワイトタイガーの赤ちゃんとして生まれ、前世の人間並みのサービス精神を維持した個体など、動物園側からすれば金の卵どころか毛の生えた油田。
グッズ売り場には私の顔が並び、誕生日には特別メニューが用意され、成長記録の動画が毎週投稿される。
私は無理に芸を仕込まれなくても、自主的に肉球をガラスへ押しつけられる。絶対に人気者になれたが、残念ながらここが動物園でないことはすぐに分かってしまった。
柵もガラスも飼育員もおらず、父が角の生えた巨大な獣を丸ごと引きずって帰ってくるという点だけでも十分だったが、決定打は、父が母にバチバチに怒られて顔面に冷凍ビームを食らっていたことである。
その日、父は洞窟の入口近くで横向きになり、狩り疲れたのか大きないびきをかいて眠っていた。
父の腹は呼吸のたびにゆっくり膨らみ、私たちはその毛に埋まるようにして昼寝をしていた。父の身体は母より少し細い。なんとなく母の方が父より大きい気がするのだが、それは種族的な雌雄差ではなく、出産と子育ての最中である妻に父が甲斐甲斐しく食べ物を貢ぎ続けた結果、母にふくよかブーストがかかっているだけかもしれない。
父は獲物を運んでくると、最初に母を呼ぶ。母が食べ始めるまで自分は口をつけず、母が満足するとようやく残りを食べる。
毎日どデカいものを仕留めてくるので、母は順調に質量を増して大きくなり、毛並みもつやつやになっていた。
私は母のお腹に顔を埋めながら、これが幸せ太りというやつかと納得していた。母が幸福なのは家庭全体の幸福指数が上がるものだ。健やか赤ちゃんとして、平和に過ごしていた。だが、平和が崩れるのは突然。不幸な事故は急に訪れる。その時も父の腹と前足の隙間にきょうだいの一匹が入り込み、ぬくぬくと眠っていた。私は母の前足を枕にしてうっふりと惰眠を貪りながら、きょうだいの毛並みを眺めていた。
父は夢の中で何かを追いかけたのか、後ろ足を二度動かし、そのままごろんと寝返りを打つ。白い巨体が傾き、きょうだいの姿が毛の下へ消えた。
「ピキャーーッ!」
洞窟の空気を裂くような絶叫だった。
母は一瞬で飛び起きた。さっきまで私たちの背中を舐めていたのに、音が聞こえた時にはもう父の前にいた。父も目を開け、腹の下から這い出したきょうだいを見て、耳をぺたりと伏せた。
幸い、踏まれた本人はよろよろしながらも四本足で立っていた。
毛が乱れ、驚きで目を丸くしているだけで、骨が折れた様子はない。だが母には関係なかった。何が起きたのかを理解した瞬間、母の右前足が父の頬へ飛んだ。虎パンチ。返す左前足でもう一発。虎パンチ。
父が「ぐおぅ」と悲鳴を上げて顔を背けたところへ、母が口を大きく開き、喉の奥に白い光を集めた。
「あの! 死ぬタイプの攻撃を夫婦喧嘩でしないでください!!」
もちろん理解される言葉にはならなかった。制止通用せず、他のきょうだいは踏まれたきょうだいを舐めて宥めるのに夢中で、今そこで母にボコられている父には気づいていない。「ぴき……」「あぁう?」「あうるるがうー」と言い合っている。たぶん『いたいよ』『だいじょうぶ?』『ぱぱってさいてー』の意味かな……。
きょうだい達に気を取られていると、母の口から真っ白な光が放たれた。
冷気が洞窟を駆け抜け、父の顔面が霜と氷に覆われる。前世で見た消火器より勢いがあり、外の吹雪より冷たそうだった。人間なら顔の皮膚どころか脳まで凍る。
父は氷を振り落とす暇もなく母に首元を噛まれ、前足で押し倒され、腹を蹴られた。
虎かみつき。虎キック。もう一度、冷凍ビーム。
母は途中で踏まれたきょうだいの無事を確かめるように振り返り、我が子が泣きながら「ぴき!」と訴えるのを見ると、さらに怒りを増した。今のは「いたかったよ!」かな……。
父は始終無抵抗だった。反撃しないどころか、逃げようともしない。
前足で顔をかばうことさえせず、低い悲鳴を上げながら攻撃を受け止め、耳を伏せ、目尻を下げ、全身で「ゆるしておくれ……」と訴えていた。
見ているこちらが心配になるほどやられているのに、母が息を切らして攻撃をやめた時、父は一度ぶるりと身体を震わせただけだった。表情はずっとしょぼしょぼしてるけど、ダメージ自体は全く貫通している様子はない。
凍りついていた毛から氷の破片が落ちる。皮膚に傷はなく、出血もなく、足取りもいつも通り。
母が手加減している可能性も考えたけど、洞窟の壁は流れビームで厚く凍り、床の岩には爪痕が残っていた。
どう見ても殺傷力が高すぎる。これで無傷ということは、つまり父の防御力自体がとてつもなく高いらしい。
母は強いなと思っていたけれど、こうして見ると父も強い。うちでは母の尻に敷かれているので忘れがちだったけど、そういえばこの父は毎日、牙の長い猪や、背中に甲羅のある六本足の鹿や、前世のワゴン車ほどもある鳥を一匹で持ち帰ってくる。
獲物を見つけ、追い、仕留め、家族の待つ洞窟まで運べる程度には賢く、強く、しぶといのだろう。
私は母にボコボコにされている姿を見ながら、父の偉大さを初めて理解した。本人にとっては不本意な評価のされ方かもしれない。
母の怒りが収まったあと、踏まれたきょうだいは母に全身を舐め回され、私たちはまとめて寝床の奥へ移された。
父は少し離れた場所で伏せ、こちらを見ながら鼻を鳴らしていた。近づきたいが許可を待っているらしい。
母は父を無視していた。完全に無視しているのに、父が洞窟の外へ出ようとすると低く唸り、出るなと命じる。おそらく謹慎処分なんだろう。父は素直に伏せ直した。
しばらくすると、踏まれた本人が母の前足の間から抜け出し、よちよち歩いて父の方へ向かった。
母は止めず、父は地面へ顎をつけ、身体を可能なかぎり低くして待っていた。
きょうだいが鼻先へ辿り着くと、父は慎重に匂いを嗅ぎ、ベロンと頭を舐めた。きょうだいは一声鳴き、父の鼻に前足を載せて、お返しにベロンと額を舐めた。それで仲直りが成立したらしい。
父の尻尾が床を一度叩いた。母はそれを見ていたが、まだ許してはいないという顔でそっぽを向く。それから少し経ち、父が申し訳なさそうに母の隣へ腹ばいで近づくと、母は牙を見せた。父は止まった。母はさらに低く唸った。父は身体を伏せたまま、おしりを上げて後ろ足だけでじりじりと下がった。私は、夫婦生活とは難しいものだな、と前世で独身のまま死んだ人間らしい薄い感想を抱いた。
ところが、その日の夕方には、母の方から父へ近づいていった。父が持ち帰っていた獲物を食べ、子どもたちに乳を飲ませ、洞窟の入口で前足を舐めていた母は、急に立ち上がると、少し離れて寝ている父の前へ行った。父は顔を上げ、母は昼間の怒声とは別人のような高い声で鳴いた。
「るぅん」
そして、父の首元へごろにゃんと頬を擦りつけた。ごろにゃんというのは比喩ではない。巨大で威厳のある白虎が、喉を鳴らしながら頭を傾け、夫の顎の下へ額を差し込んだのである。
父の顔がぱっと明るくなった。
虎の表情をどこまで人間の基準で読んでいいのか分からないが、今の私は立派な白虎なのでニュアンスを読み取れる。
耳が立ち、目が細まり、尻尾の先が落ち着きなく揺れている。
父はすぐに母の頭を舐め始めた。大きな舌で額から耳の間をべろり、べろりと撫で、そのまま首の毛を整えようとする。
しかし、父は毛繕いが下手だった。舌を当てる向きが悪いのか、力加減が雑なのか、センスが無いのか。
舐めた場所の毛が一方向へ寝るのではなく、あちこちへ跳ねる。母の額には妙な分け目ができ、耳の後ろの毛は濡れて尖り、首周りは途中から逆立った。
前世で寝癖のひどい猫を見たことがあるが、それよりひどい。
しかし父は真剣だった。母を美しくしようと、丁寧に舐めているつもりらしい。その結果として、母は狩りから帰った直後より乱れていく。
子どもたちに同じことをすると、母は必ず怒る。父が私たちを舐め、頭頂部の毛を逆立て、背中の縞を見えなくするほど毛並みを乱した時など、母は何事かぶつぶつ吠えながら父を押しのけ、最初から全部やり直す。
耳の中まで舐められたきょうだいが湿った顔で転がっている横で、母は「どうしてこうなるの」とでも言いたげに何度もため息をつく。
それなのに、自分が父に毛繕いされる時だけは怒らない。眉間に舌を押しつけられて目をつぶり、首の毛を逆向きに撫でられても、されるがまま受け入れている。
父が満足して舐めるのをやめると、母はひどい有様のまま父の頬へ顔を寄せ、お返しに毛繕いを始める。
こちらは上手だった。父の頬に付いた血を舐め取り、耳の縁を整え、顎の下から首へ舌を滑らせる。父はうっとりと目を閉じる。昼間、顔面へ冷凍ビームを撃ち込んだ相手と同一個体とは思えない。
たぶん母はツンデレで、父は母のそういうところも可愛いと思っているのだろう。夫婦喧嘩に殺傷魔法を持ち込む妻と、それを甘んじて受けたあと毛繕い一回で機嫌を直す夫である。お似合いなのかもしれない。
こういう、他種族転生とかいうものは、世界が変わってもなぜか現地語が理解できるのが定番だと思っていた。
神様から説明を受ける場面はなくても、生まれた瞬間から耳に入る言葉が日本語として聞こえたり、成長に合わせて自然に意味が染み込んだりするものではないのかとなんとなく考えていたが、別にそういうわけではなかった。
親きょうだいは明らかに会話しているのに、私はニュアンスとパッションでしか意思疎通ができない。
母が鳴けば声の強さから機嫌は分かる。父が鼻を鳴らせば、こちらを気にしていることは分かる。きょうだいが尻尾を立てて「ぶふ、ぶふっ」と言いながら走ってくれば遊びたいのだろうと推測できる。しかし、それ以上は無理だった。
音を覚えようとしても、同じ鳴き方が毎回少しずつ違う。低い唸りに息の量、舌の位置、喉の震え、耳の向きまで含めて意味を作っているようで、前世で日本語しかまともに使えなかった私には難易度が高すぎる。
こちらから伝えられることも少ない。お腹が空けば母の腹へ潜る。眠ければ誰かの毛に顔を埋める。寒ければきょうだいの上へ乗る。遊びたければ尻尾に噛みつく。嫌なら「ぴゃー」と鳴く。今のところ、それで問題なく生活できている。
だが、家族は私が会話を理解していないことに気づいていた。
きょうだいが母の一声で洞窟の奥へ走る時、私だけがその場に残って首を傾げている。父が遊びの合図を出すと三匹は前足を伏せて尻を上げるのに、私は父の顔を見上げたまま動かない。
何度か同じことが続くと、母は私にだけ鼻を触れ、身体を押して行き先を教えるようになった。
きょうだいも、私を置いて走り出したあと、途中で振り返って戻ってくる。
最も身体の大きな子は、私の首の後ろを噛んで運ぼうとする。まだ顎の力も弱く、私の皮膚を引っ張るだけで持ち上げられないので、結局は二匹そろって転ぶ。それでも毎回やる。たぶん私は、ちょっとハンデがある子と思われているらしかった。魔法らしいものをなかなか使えなかったことも、その認識を強めていたのだろう。
きょうだいは、歩き始めて間もない頃から氷を出した。最初はくしゃみで、一匹が寝床の草を鼻に入れ、「ぴしゅっ」と小さなくしゃみをした瞬間、鼻先から白い粉が飛び、床に薄い霜が広がった。本人は驚いて後ろへ跳び、別のきょうだいにぶつかった。ぶつかられた方が怒って前足を振ると、爪の先から氷の粒が飛び、最初の子の髭にくっついた。母は慌てなかった。二匹を舐めて落ち着かせ、口を開けてごく細い冷気を吐いて見せた。
きょうだいはそれを真似した。口を開き、喉を鳴らし、何度か涎を垂らしたあと、白い息を出した。私は隣で同じように口を開けた。出たのは涎だけだった。
母は私の口元を舐めた。父も教えようとした。父は母より冷気を細く出すのが下手で、見本を見せるつもりが洞窟の床を広く凍らせ、自分で滑って壁へぶつかった。
母が低い声で何か言った。父は耳を伏せた。きょうだいは父の真似をして、前足を滑らせながら楽しそうに遊び始めた。私はまた口を開けた。涎が出た。もしかすると私には魔法がないのかもしれない。
そう考えても、前世の大人の思考があるので泣くほど悲しくはならなかった。魔法が使えなくても、父と母が餌を取ってきてくれる間は生きていける。身体が大きくなれば、牙や爪だけでも何かしら食べられるものを探せるだろう。最悪、家族の獲物の残りをもらい続ける穀潰しになる。白虎としてそれがどれほど恥ずかしいことなのかは分からないが、生存は体面より重い。
私は使えないものを無理に求めず、きょうだいが作った氷の玉を前足で転がして遊ぶことにした。
家族は私を追い出さなかった。魔法を使えないらしい私に、きょうだいは氷の玉を譲ってくれたし、自分で作ったものを鼻先で押し、私の前へ転がしてくる。
私が前足で触ると、嬉しそうに尻尾を振る。氷の板ができた日には、三匹が板の端を噛み、私を上に乗せて引っ張ろうとした。一匹は前へ進み、一匹は横へ進み、一匹は氷を噛み砕いたので、私は数歩も行かず床へ落ちた。それでも、仲間に入れようとしていることは分かった。
母は私が眠るまで腹の近くへ置いてくれた。父は獲物を食べたあと、骨にわずかに残った柔らかい肉を削いで私たちへ運び、私の分だけ少し小さく噛み切った。
余裕がない生き物なら、私のような存在は出来損ないとして捨てるだろう。
鈍臭い、意思疎通ができない、同族の魔法も使えない。将来、家族に何も返せない可能性が高い。それでも両親ときょうだいは、私を同じ寝床に入れ、身体を舐め、遅れれば待ってくれた。
白虎というものは、自然界でも強く、余裕のある生き物なのだと思う。
自分たちが明日食べられる確信があり、外敵を退けられる力があるからこそ、役に立つか分からない子どもにも時間をかけられる。少なくとも我が家はそうだった。
転生としてはだいぶ大当たりかもしれない。言葉は通じず、電気も水道もインターネットもないが、寝床は温かく、腹は満たされ、家族は優しい。
前世で働いていた時、朝起きた瞬間から帰りたいと思う日があったことを考えれば、ここでは起きても寝床の中にいられる。
仕事は乳を飲み、眠り、時々きょうだいと取っ組み合いの喧嘩をするだけだ。ちなみに喧嘩はいつも私が勝利している。舐めるなよ、元人間を。「ぴきゃー!」と鳴くきょうだい三匹を踏んで、勝利の「がおっ」を決めては、母に首根っこ持たれて住処の端っこまで連れてこられる。父が迎えに来るまで待機なので、たぶんこれは謹慎部屋なのだろう。そんな……私は不良小虎じゃないのに……。
乳だけを飲んでいた時期が終わり、父の狩ってきた獲物を少しずつ食べるようになると、家族の食事の決まりも見えてきた。
最初に母が食べる。これは母が一番強いから奪っているのではなく、父が望んでそうしている。種族としてのルールなのか、父がベタ惚れしてるから優先しているのかはわからない。
父は獲物を置くと、母の鼻先へ肉の厚い部分を押しやり、母が食べる間は子どもたちを舐めたり、洞窟の入口を見張ったりしている。
次に食べることを許されるのが私たちで、母が腹を満たして身体をずらすと、四匹で肉へ群がる。牙はまだ小さいので、母が裂いた柔らかい部分を引っ張り合う。
最後が父である。父はいつも残った骨ごと噛み砕き、硬い皮も食べる。
私は父が気の毒になり、いつか自分で獲物を取れるようになったら肉を譲ろうと思っていた。魔法なしのよちよち白虎が何を取れるのかは保留とする。
ある日、母がいつものように獲物を食べ、私たちへ場所を譲った。
獲物は首の長い鳥に似ていて、胸の辺りに柔らかそうな肉が大きく残っていた。なるほど、大きすぎて母も食べきれなかったのだろう。きょうだいも同じ判断をしたらしい。四匹そろってその部分へ近づき、最も手前にいた子が牙を立てようとした瞬間、背後から母の声が飛んだ。
「がお!」
短い一声だったが、空気が震えた。私たちは全員、その場でひっくり返った。驚いて足がもつれたのではない。反射で腹を見せたのである。降伏! 降伏! 可愛いお腹を見てもいいよ!
きょうだいがやったから私も真似したのか、身体に刻まれた服従行動なのかは分からない。気づいた時には四匹並んで仰向けになり、前足を胸の前で縮めていた。
「ぴきゃー!」
「ぴゃあ!」
「きゅうう!」
「食べちゃダメなら避けといてよ~~!」
母は私たちを叱りつけたあと、胸肉へ鼻を寄せ、少し離れた場所にいる父を見た。
父は食事の順番を待ちながら、こちらへ背を向けている。母はもう一度、肉を鼻先で指した。それで分かった。あれは父の分なのだろう。母は自分が食べている間、父の一番好きな部位をわざと残していたらしい。それを知らない私たちが食べようとしたので、止めたのだ。だったら最初から父の前へ避けておいてって~~! 大きく残っていれば、食べていいと思うじゃん。こちとらこの世に生まれてまだ半年程度よ? そういうツンデレ仕草を察することは出来ないんです!
だが母にその理屈は通じない。母は私たちが胸肉から離れたことを確認すると、父を呼んだ。父は振り返り、残された肉を見て、嬉しそうに母へ近づく。
すぐに食べるのかと思ったら、最初に母の頬を舐めた。母は目を細めた。
父は胸肉を半分ほど食べ、残りを母の前へ押し戻した。母は一度断るように顔を背けたが、父がもう一度鼻で押すと、仕方がないという顔で食べた。
私たちは少し離れた場所で身を寄せ、夫婦の食事を見ていた。さっきまで泣いていたきょうだいの一匹が、父の口元から落ちた欠片へ近づこうとしたので、私は尻尾を噛んで止めた。今度やったら母の声だけでは済まない気がした。しっぽでバシンとやられて「ピキー!」となる未来しか見えない。
季節が進むと、洞窟の外を吹く風が柔らかくなった。
雪解けの水が岩の間を流れ、木々の根元から紫色の花が出た。
父が獲物を持ち帰る時間も少し早くなり、代わりに身体へ草の種や泥を付けて汚れてくるようになった。獲物の種類も変わったので、冬眠から目覚めたばかりの命が狩られているんだと思う。主にクマっぽいものが多い。
私たちの毛も変わり始めた。
寒い時期は前足を差し込めないほど密だった毛が抜け、寝床のあちこちに白い塊が転がった。母が舐めるたびに舌へ毛が絡み、口を開けてんべんべしながら妙な顔をする。
父が毛繕いをすると抜けかけた毛を一度に引っ張るらしく、舐められたきょうだいが「ぴぎっ」と鳴いて逃げた。
私はここでようやく、自分が本当にもふもふ生物になったのだという実感を持った。まだ心のどこかで自分は人間という意識があったけど、さすがに衣替えのかわりに換毛期を迎えたら納得せざるを得ない。
鏡はなく、雪解け水で出来た水面を覗いても、まだ顔が丸く、耳が小さく、白い毛の中に目と鼻が埋もれていることしか分からない。
それでも、きょうだいの身体へ顔を押しつけると、毛が鼻先を包み、前足で抱えると柔らかな腹が潰れる。自分も同じ感触をしているはずだ。
前世では動画を見ながら、もふもふの動物へ顔を埋めたいと思っていた。犬と猫とフェレットとウサギとハリネズミとモモンガにアレルギーがあるから無理だった。あと桃とたまごにもアレルギーがあった。今思うと可哀想すぎる、前世の私……。
でも今は毎日もふもふに顔を埋められる。埋めるどころか、自分自身が埋められる側にもなれる。桃は食べたことがないが、たまごは食べられるようになった。いつか桃も食べてみたい。虎生は順風満帆で、夢と希望に満ちている。




