推測
「随分、憔悴しているね」
夜になって昨日と同じ岩場まで出てきたところで、フィロンは私を見るなりそう言った。岩の上から垂れていた白い身体が、するすると滑るように地面へ降りてくる。
昨日と同じ白蛇。赤い目。細くて長くて、動くたびにちょっと追いかけたくなる───はずなのに、今日は何とも思わなかった。むしろ、人間だったころならこんな近くに蛇がいたら普通に怖かったよなあ、なんてことを考えてしまう。怖くはない。でも心も躍らない。喜びのない人生……。
「わかる?」
「分かるとも。昨日より毛が荒れているし、目にも力がない。身体の具合が悪いというより、ひどく疲れているように見えるね。一晩しか経っていないからこそ、違いが分かりやすい」
それはそうかもしれない。朝からほとんど何も食べていないし、遊んでもいない。お父さんには心配されて毛皮を念入りに舐め回されたから、たぶん見た目も相当ひどい。
フィロンは私の正面まで来ると、それ以上近寄らず、昨日と同じくらいの距離を取って身体を丸めた。私はその前へ座り、念のため後ろを振り返る。洞窟の入口は暗いままだった。追いかけてくる気配はない。
「今日は入口の近くで寝てたから、トイレに行くふりして出てきたよ。朝からずっと変だったから、お父さんもお母さんも私のこと気にしてたんだけど、夜になったら普通に寝たし。入口の方でもぞもぞして、そのまま外に出たら誰も気にしなかったの。たぶん、済ませたら戻ると思ってる」
「なるほど。それなら長居はしない方がいいだろうね。けれど、その顔を見るかぎり、昨日の続きを楽しく話すために来たわけでもなさそうだ。何があった?」
聞かれた途端、自分でも分かるくらい喉が固くなった。朝からずっと考えていたくせに、誰かへ説明しようとすると急に怖くなる。変なのは間違いない。でも一つずつ並べれば、どれも大したことではないようにも思える。それが余計に気持ち悪かった。
「朝から、なんかおかしいの。どこか痛いわけじゃないし、熱もたぶんない。お腹も空く。でも、ご飯を食べたら吐きそうになった。匂いはちゃんとおいしそうだったんだよ。いつもならすぐ食べるのに、肉を噛んだら血の味がして、急に、これ死んだ動物なんだって思って。
それから、きょうだいの牙と爪まで怖くなった。お母さんも、お父さんも、叔父虎も。みんな大きいし、簡単に私を咥えられるし……今までずっと一緒だったのに、今日になったら急に怖くて」
フィロンは口を挟まなかった。赤い目が私の顔から前足へ移り、そこから身体全体をゆっくり見る。何か悪いところを探されているようで、私は無意識に背筋を伸ばした。
「家族の誰かに、怖がるきっかけになるようなことをされた?」
「されてない!」
そこだけは考えるより先に声が出た。少し大きかったので、慌てて洞窟を振り返る。何も動かない。よかった。
「絶対されてない。きょうだいだって遊んでただけだし、お父さんもお母さんも優しいし、叔父虎なんて私が元気ないから素敵な石まで持ってきてくれた。でも、それも今日は何にも楽しくなくて。ただの石にしか見えなかった。みんな何も変わってないのに、私だけ急に変になったの。……私、どうなっちゃったの?」
全部言い終わるころには、朝から胸の中でもやもやしていたものが、ようやく一つの形になっていた。怖い。家族が怖いことも、自分が変わったことも、その理由が分からないことも怖かった。
フィロンはしばらく黙っていた。すぐに慰めるでも、大丈夫だと言うでもなく、私の話を頭の中で順番に並べ直しているようだった。ゆらゆらと揺れている。
「昨日、私と会う前までは、いつも通りだったんだね。肉を食べても気分は悪くならず、家族の牙も爪も気にならなかった。遊ぶことも楽しかった」
「うん。昨日までは普通だった。フィロンと話したあとも、帰って寝るまでは別に変じゃなかったと思う」
「では、身体そのものに急な変化が起きたと決める前に、昨日の夜に君が何をしたかを考えたい。私と話した。それ以外には?」
「……日本のことをいっぱい思い出した」
口にした途端、昨日の夜に浮かんだものがまた頭へ戻ってきた。桜。電車。コンビニ。スマホ。布団。服。毛まみれじゃない手。二本足で歩いていた身体。暑い夏。寒い冬。前世では当たり前すぎて、いちいち意識もしなかったものばかりだ。
フィロンは小さく頷いた。
「それなら、少なくとも私には、まったく理由の分からない異常が突然起きたようには見えないよ」
「でも、家族が怖いんだよ? 昨日までお父さんの口の中に頭を突っ込んでも平気だったのに、今日は牙を見ただけで怖かったんだけど」
「辛いことと、原因の見当がつかないことは同じではない。私はまだ君を二晩しか見ていないから断言はできないが、考えられることはいくつかある。
まず、君の心そのものが幼い獣へ変わってしまったとは思わない。昨日、私が話したことを君は理解していた。今も、自分に何が起きたかを昨日と比べて説明している。それは虎の子供が自然にできることではないだろう」
そこまでは分かる。日々ちょっとずつ獣っぽくなっている自覚はあったけど、考える力まで赤ちゃんになった感じはしていない。
どこまで人間で、どこから虎なのかと聞かれたら困るけれど、生まれたときから生粋の白虎です、と胸を張って吠える気にはならない。前世は人間の女性でした、尚且つ現在は白虎です、くらいの気持ちだ。
「だから、君の中から人だったころのものが消えているとは考えにくい。ただし───身体が心へ何の影響も与えない、と考える理由もないんだ」
「身体が?」
「私も昔は人間だった。人間だったころの私は、陽に温められた石を見ても、そこへ腹をつけて半日過ごしたいとは思わなかった。狭い岩の隙間を見つけても、落ち着く場所だとは感じなかったよ。今はどちらも好きだ。空腹の感じ方も、寒さへの弱さも、人だったころとは違う。頭では昔の自分を覚えていても、この身体が快いと感じるものまで昔と同じではないらしい」
フィロンはそう言って、ちょうど近くにあった平たい岩へ顎を乗せた。ものすごく説得力のある格好だった。言われてみれば、蛇という生き物は石の上や隙間の近くにいることが多い。
「蛇だから?」
「おそらくね。そして、それ自体は私にとってそれほど奇妙な考えでもない。
私が生きていたころの医術でも、身体と心を完全に別のものとして扱ってはいなかった。高い熱を出した者が、そこにいない人間を見たり、意味の通らないことを喋ったりすることはある。
頭をひどく打ったあと、それまでとは違う振る舞いをする者もいる。眠れなければ気が荒くなるし、食べられなければ考えも鈍る。季節や暑さ寒さ、口にする水や食べ物によって身体が変わり、その身体の状態に心まで引かれると考えた医者もいた。
ならば、人間だった者がまるごと虎の身体へ移っておいて、心だけは一切何も受けないという方が、私にはかえって不思議に思える」
ちょっと難しい。でも、まだついていける。
風邪をひいたときに気持ちまで弱るとか、寝不足だとイライラするとか、そういうことなら前世の私にも覚えがある。身体が違えば感じ方まで違う、というのも分からなくはない。
フィロンは私が話についてきているのを確かめるように少し待ってから、今度は夜空へ一度目を向けた。
「それに、人が獣の姿になる話そのものなら、私の故郷にも昔からいくつもあった。
神に牛の姿へ変えられた女もいれば、熊にされた女もいる。人の残酷さをそのまま狼の姿へ持ち込んだ男の話もあった。もちろん昔話を医術の証拠にするつもりはないよ。ただ、人はずっと昔から、『身体が獣へ変わったとき、人の心はどうなるのか』ということを考えてきたらしい」
「熊にされた人って、熊になったあとは普通に熊として暮らしたの?」
「そう簡単でもない。その女は姿が熊になったあとも、人だったころの心を残していた。だから森で熊を見れば、自分も同じ姿なのに恐れたと伝えられている。今日の君には少し似ているね。虎の身体にいながら、虎の牙を人間の目で見て怖がっている」
「それ、ほんとに今日の私だ」
「似ている。ただし、一つ大きく違うところがある。君は昨日まで、虎を怖がっていなかった」
「あ」
そこは考えていなかった。
フィロンは少し身体をほどき、尻尾の先だけをゆっくり動かした。すぐに結論へ飛びつかず、考えを一つずつ確かめているらしい。
「君はむしろ、これまで今の身体によく馴染んでいたんじゃないかな。
生肉を食べる。牙と爪を使ってきょうだいと遊ぶ。自分より遥かに大きな虎に囲まれて眠る。親に口で咥えられて運ばれる。それを危険だとは思わない。細長いものが素早く動けば追いかけたくなる」
「最後いらない」
「昨日、私が岩を登り始めた途端、随分と姿勢が低くなっていたよ」
「見ないでよ!」
「私は命がかかっていたのでね。見ないわけにはいかなかった」
ひどい。でも朝からずっと張りつめていた胸の中が、そのやり取りで少しだけ緩んだ。追いかけなくて本当によかった。昨日の私、偉い。
フィロンはまた身体を丸め直す。今度はさっきより少し真面目な声になった。
「そして、ここからが私の考えなんだが、君には今、『虎であること』と『幼いこと』の二つが同時に働いているのではないかと思う」
「虎なのは分かるけど、幼いのも関係ある?」
「あるだろうね。君は人だったころ、大人だったのだろう。
ならば昔の君は、長い時間をかけて大人の身体と暮らしてきた。少しくらい空腹でも我慢する。怖くても必要なら近づく。今したいことを我慢して明日のために何かをする。そういうことを何年もかけて覚えたはずだ。
だが、今の身体は違う。まだ生まれてから長くない。君の記憶が何歳であろうと、この身体にとっては初めて見るもの、初めて感じるものばかりなんだ」
私は自分の前足を見る。白くて、丸くて、まだ小さい。指を開くようなつもりで力を入れると、毛の中から爪が伸びた。朝から何度見ても怖い。すぐに引っ込めた。
「腹が減れば食べたい。眠ければ眠りたい。母親がいればそのそばへ行きたい。きょうだいが走れば追いかけたい。危険を感じれば逃げたい。そういう反応を、君は人だったころの記憶から一つずつ教わったわけではないだろう?」
「……うん。お母さんのお腹の下が安心する理由なんて、考えたことない」
「それでいいんだと思う。私の知る哲学者には、生き物はまず自分の身体を自分のものとして受け入れ、それに適したものを求める、と考える者もいた。
幼い者ならなおさらだ。難しい理屈を知らなくても、子は乳を求めるし、鳥は飛べるようになれば翼を使う。君も同じように、今の身体が必要とすることを覚えるより先にしていたのだろうね」
そう言われると、思い当たることばかりだった。お母さんのお腹へ潜る。眠ければその場で寝る。きょうだいが走れば意味もなくついていく。叔父虎が伏せれば登る。雪があれば転がる。理由なんて、ひとつも考えたことがない。楽しいからやっていた。それだけで毎日がだいたい足りていた。
「私は一人で目を覚ましたから、人間を探した。人として三十年以上、人に囲まれて暮らしていたのに、目を覚ませば誰とも言葉を交わせなかった。
蛇はいても、私の話すことは伝わらない。だから人の声を聞いたとき、そこへ行かずにはいられなかった」
昨日も聞いた話だった。でも今度は、少し違う意味に聞こえた。フィロンは寂しかったから人間を探した。ただ、それだけではなかったのかもしれない。人間だったころの自分が、人間を必要としていたから。
「本来なら君にも、私と似たことが起きてもおかしくなかったと思う。人だった記憶がある。今の同族とは人のようには話せない。それなら、人間を探して人里へ向かう方が自然だったかもしれない。ところが君はそうしなかった」
「うん。人間いるかな、とは思ったけど、探しに行こうとはあんまり思わなかった」
「それにも理由があるのだろうね」
フィロンは洞窟の方を見る。そこには私の家族がいる。暗い洞窟の中で、お父さん、お母さん、叔父虎、きょうだいたちが寝ている。
「君は、少なくとも家族については、とても恵まれた獣として生まれたらしい。
親は幼い子をよく守る。親だけではなく、とうに独り立ちしていてもおかしくない親族まで残って世話をしている。きょうだいもいつもそばにいる。言葉がなくても、鳴けば誰かが見る。
寒ければ身体を寄せられる。腹が減れば食べ物が来る。眠れば誰かの体温がある。人の言葉を話せないことと、一人であることが、君の場合は結びつかなかったんだ」
言われて初めて、それが当たり前ではないことに気づいた。目を覚ませば、だいたい誰かいる。鼻先、背中、お尻、どこかにきょうだいがくっついている。お父さんとお母さんが二匹で出かければ叔父虎がいる。叔父虎までいなくても、きょうだいが三匹いる。
「それに、君自身がずいぶん素直だったんだろうね」
「なにそれ」
「褒めているんだよ。君は言葉が通じないというだけで、彼らから向けられるものまで拒まなかった。母君を母君として、父君を父君として受け入れた。きょうだいとは遊び、叔父君には甘えた。人だった記憶の方を理由にして、『これは獣だから自分の家族ではない』とは考えなかったんだろう?」
「そりゃ、お母さんだし」
「それだよ」
「どれ?」
「そう思えるところだ」
ますます意味が分からなくて首を傾げると、フィロンは少しだけ頭を持ち上げた。
「同じように人から獣へ生まれ直した者でも、皆が君と同じだったとは限らない。
目の前の獣をいつまでも『自分とは違うもの』としか思えず、触れられることを嫌がる者もいたかもしれない。肉を食べることに耐えられず、人間だったころの生活を求め続けた者もいるだろう。私が人を探したのも、その延長だったのかもしれない。
だが君は、最初は戸惑っても、愛されていると分かればそのまま受け取った。言葉が通じなくても、母親は母親だった。だから人間の側へ戻ろうとするより先に、今いる家族の中へ入っていったんだろう」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸がざわついた。目が覚めたら虎だった! という驚きは確かにあったけど、目の前の虎はなんだ! となった時に、当たり前のように今世の母! と受け入れていた。言われてみればそうだ。今日の私みたいに、なにこれ怖い! って怯えて、ずっと泣いてるのが普通の思考だったのかもしれない。
「君は家族と同じものを食べ、同じところで眠り、同じように遊んだ。その生活を毎日繰り返しているうちに、身体だけではなく、物を見るときの基準まで今の暮らしへ馴染んでいった。私はそう考えている」
獣の方へ寄った。
頭の中でそう言い換えた途端、急に怖くなった。何度も自分でもそう思っていたけど、他人に言われると怖い言葉に思える。
「じゃあ、私、人間じゃなくなってるの?」
「それは違う」
今度だけは、フィロンがほとんど間を置かなかった。
「少なくとも、私にはそうは見えない。君は人だったころの名を覚えている。故郷を覚えている。昨日と今日の自分を比較できる。私の考えを聞いて、分からないところには疑問を持てる。人だった君が消えているなら、今ここで私とこういう話をしている君は何者なんだ?」
「……ガウーワ?」
「そうだろうね。そして、ナノハナヒバナでもある。少なくとも今のところは、そのどちらかを消して片方だけにする必要はないように思う」
その言い方は、少しだけ安心できた。
「では今日の変化は何なのか。これは昨夜、君が人だったころの自分を久しぶりに強く思い出したためではないかと考えている。
昨日までのお父上の牙は、君にとって『父親の口に生えているもの』だった。危険性をいちいち考える必要がないほど見慣れていた。ところがニホンのこと、人間の身体、人間として暮らしていたころの感覚を一度にたくさん思い出した。それで今朝は、同じ牙を見ても先に『人間なら噛まれれば死ぬほど大きな牙だ』と感じたのではないかな」
「ああ……」
それは、ものすごくしっくりきた。
「肉も同じだ。昨日まではまず食べ物だった。それを獲物の死体だと知らなかったわけではない。ただ、そのことを考える必要がなかった。今日は人だったころの感覚が前へ出たせいで、食事を見るより先に『死んだ動物の肉だ』と見た。
きょうだいの爪も、叔父君の身体の大きさも同じだろう。もの自体が変わったのではなく、君が最初に何を見るかが変わった」
昨日まで、お父さんの牙なんて牙だと思っていなかった。
お父さんの口だった。
叔父虎の爪も、きょうだいの牙も、そこにあるのが普通すぎた。危険かどうかなんて考えなかった。私はそれにじゃれついていたし、向こうも私にじゃれついていた。それで一度も困らなかった。
「だから、君が急に人間へ戻ったとも、逆に虎の身体が人だった君を侵食しているとも、私はまだ思わない。どちらか一方になる途中というより、二つのものが同じところで暮らす方法を覚えている途中、と考えた方が近いのかもしれない」
「二つのもの?」
「人だったころに得たものと、今の身体で得ているものだよ。
昔、魂は身体を替えて巡るのだと考えた人々がいた。人から獣へ、獣から人へ移っても、魂そのものは残るのだとね。
私は人だったころ、その話を本当に起こることだとは思っていなかった。今では、少なくとも完全な作り話だと言い切るのは難しい立場になったが」
フィロンは自分の白い身体をちらりと見た。たしかに、元人間が蛇になって目の前にいる以上、そのへんを強く否定するのは難しそうだ。
「ただ、昔の話では魂が身体を着替えるように語られることが多かった。けれど実際にこうなってみると、それでは足りない気がしている。
私は蛇の身体から影響を受けた。君も虎の身体から影響を受けている。それなら魂がただ同じまま器を移るのではなく、新しい身体と結びつくことで───いや、待て。ここはもう少し分けて考えた方がいいな。人だったころの経験によって作られた判断と、今の身体に備わった欲求があって、それが同じ───」
「う~~~~」
思わず声が漏れた。
フィロンが止まる。
「……ガウーワ?」
もう無理だった。
私は朝からほとんど何も食べていない。一日中びくびくして疲れている。眠い。ここまででもかなり頑張って聞いた。魂が身体を着替えるあたりから少し怪しかったのに、ここへ来て何とかと何とかが結びついて、判断と欲求が同じ何とかになった。頭の中の文字が全部ほどけて飛んでいく。
両方の前足を持ち上げ、人間だったころなら両手で顔を覆っていたときと同じつもりで目元へ押しつける。そのまま地面へぺたんと伏せた。
「難しすぎて何言ってるかわからない~~!」
情けない声が夜の山へ響いた。
牛に変えられた女=イーオー(『変身物語』第一巻)
熊に変えられた女=カリストー(『変身物語』第二巻)
狼に変えられた男=リュカオン(『変身物語』第一巻)




