恐怖
目を覚ましたときから、何かが変だった。具合が悪いわけではない。身体は重くないし、頭も痛くない。お腹だってちゃんと空いている。それなのに、いつもの朝なのに、どうにも落ち着かない。
夜、白蛇のフィロンと話したことも、最初から最後まで覚えている。人間だったころはルキ……なんか長い名前で、今はフィロンという白蛇になっていること。
私と同じように、もとは人間だったこと。この世界にはほかにも似たようなものがいて、人間からは神獣と呼ばれていること。フィロンは昔、人里へ近づいて捕まり、もう少しで食べられるところだったこと。それから最後に、お母さんの唸り声を聞いて、「もう寝なさいと言っている」と教えてくれたこと。
夢にしてはずいぶん話が具体的だったし、そもそも私の夢なら、もう少し楽しい内容になっていると思う。家族みんなとお喋りが出来るようになってた! とか、私もお母さんたちと同じように冷凍ビームが吹けるようになってた! ~最強つよつよ白虎伝説・開幕~とか。
でも現実は、元イタリア人の白蛇との密会なので、昨夜のことは本当で、ぐっすり眠って目を覚ませば、あとはいつも通りの今日が始まるはずだった。
鼻先には、いつの間にかきょうだいの後ろ足がくっついている。背中には別のきょうだい。少し離れたところには、とっくに起きているお母さんがいた。
見慣れた朝だ。私がもぞもぞ身体を起こすと、隣で寝ていた一匹も目を覚まし、しばらく眠そうな顔でこちらを眺めてから、大きな欠伸をした。赤い口がぱかっと開いて、その中に白い牙が並ぶ。その瞬間、身体が勝手に後ろへ下がった。
自分でも、何をしているのか分からなかった。牙なんて昨日まで毎日見ていた。遊んでいれば首だって耳だって噛まれるし、私も同じように噛み返す。
もちろん本気じゃない。痛くしないように加減しているし、そんなことはいちいち考えるまでもなく分かっていた。それなのに今朝は、きょうだいが口を開いただけで、そこに並んでいるものがやけにはっきり「牙」に見えた。
きょうだいは私の反応が分からないらしく、首を傾げてからいつものように前足を伸ばしてきた。毛の間から爪の先がほんの少し覗いている。それを見た途端また身体がびくっとして、触れられる前に立ち上がった。
遊びたいだけだ。分かっている。分かっているのに嫌で、逃げるようにお母さんの向こう側へ回る。するとお母さんはすぐ私へ顔を向け、その鼻先が近づいてきたところで、今度は足そのものが止まった。
……大きい。
そんなことを、今さら思った。お母さんの顔は私よりずっと大きい。口元からは牙の先が覗いているし、床についた前足なんて私の胴より太い。
生まれたときからずっと一緒だった。寒ければくっついて寝たし、何度も舐めてもらった。産まれたばかりの頃から首根っこを咥えて運ばれている。お母さんが私を傷つけるはずなんてないのに、鼻先が近づいてくるだけで、背中の毛の下がぞわぞわした。
お母さんもすぐにおかしいと思ったらしい。頭から背中へ匂いを嗅ぎ、前足で私の身体を転がそうとする。どこか怪我をしていないか確かめているのだろう。でもその大きな前足が触れそうになっただけで、私はするりと身体を引いてしまった。
なんで。お母さんなのに。
朝ごはんになれば元に戻るかもしれないと思った。お父さんと叔父虎が持ってきた獲物へきょうだいたちが集まり、私も空腹につられて近づく。匂いはいつも通りおいしそうだった。鼻もお腹も、これは食べ物だと分かっている。肉へ牙を立て、一口噛んだところで、舌に生温かい血の味が広がった。
「うっ」
慌てて肉を落とし、舌を出して何度も口元を舐める。鉄っぽい味が口の奥に残っている。昨日までなら何ともなかった。むしろ新しい肉はおいしかったし、骨の近くが好きだとか、こっちの部位の方が柔らかいだとか、そんなことまで考えて食べていた。それなのに今日は、口へ入れた途端、目の前にあるものがただの「ご飯」ではなくなってしまった。
少し前まで山を走っていた生き物。お父さん達が捕まえて、殺して、ここへ運んできたもの。そんなことは最初から知っていたはずなのに、今まで奥へ沈んでいたものだけが、急に目の前へ出てきた。
胃の奥が持ち上がってくる。私は獲物から離れ、口元を雪へ擦りつけた。食べるのをやめたきょうだいたちがこっちを見ている。お父さんも、お母さんも、その向こうにいた叔父虎まで見ていた。視線が集まっただけで、なんだか逃げたくなる。大きな肉食獣が三匹。小さいのが四匹。私もそのうちの一匹なのに。
お父さんが近づいてきて、頬をざり、と舐めた。肩が跳ねる。お父さんの動きが止まった。たぶん具合が悪いと思っている。
そりゃそうだ。朝ごはんを一口で吐き出して、さっきから触られるたびに逃げている。私だって家族の誰かが同じことをしたら心配する。ごめんね、と思って顔を上げようとしたのに、先に口元が見えた。牙。また身体が引いた。
嫌いじゃない。大好きだ。狩りから帰ってくれば嬉しかったし、大きなお腹の下へ潜って寝るのも好きだった。それなのに今は、お父さんの顔を見ようとすると、そこに牙があることばかり気になった。
そのあとの遊びも駄目だった。きょうだいの一匹が身体を低くして、尻を少し上げ、尻尾をふりふりする。いつもの「遊ぼう」だ。
昨日までなら私も同じ格好になって、そのままどちらかが先に飛びついていた。今日は、向こうが駆け出した瞬間に本気で避けた。勢い余って雪の上をごろんごろん転がったきょうだいは、それすら遊びの続きだと思ったらしい。すぐに立ち上がってまたこっちへ走ってくる。横から別の一匹まで参加して、私の尻尾を軽く噛んだ。
「やめて!!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。意味が通じたわけではない。ただ、突然叫んだ私に全員が止まった。尻尾を噛んでいたきょうだいもすぐ口を離して、きょとんと目を丸くしている。痛くなんかなかった。毛をちょっと咥えただけだ。それくらい分かっている。なのに、噛まれた、と思った瞬間、もう駄目だった。
逃げた。後ろから追いかけてくる気配なんてないのに洞窟まで戻り、入口から少し奥へ入ったところで岩壁に背中を押しつける。そこでようやく息を吐いて、なんでこんな場所を選んだんだろうと思った。後ろが壁なら、前だけ見ていればいい。そんなことを考えている自分が嫌だった。
いつもの私は、こんなところで一匹だけ丸まったりしない。眠るなら誰かのお腹にくっついていたいし、起きているなら遊んでいたい。きょうだいたちは入口まで追ってきて、どうして私が来ないのか分からない様子でうろうろしていたけれど、私が身体を縮めるたびに少しずつ距離を取った。そのうち諦めたらしく、三匹で外へ走っていった。洞窟の奥が急に静かになる。
なんでこんなことになってるんだろう。昨日、変なものを食べたわけじゃない。身体だって普通に動く。夜更かしはしたけれど、眠いだけで家族が怖くなるわけがない。変わったことといえば、フィロンと話したくらいだった。
日本のことをたくさん思い出した。桜とか、電車とか、コンビニとか。夏は暑くて、冬は布団から出たくなくて、スマホがあって、服を着て、前足じゃなくて手で。人間だったころにはどうでもいいくらい当たり前だったことを、久しぶりにずっと考えた。そのせいなのかな。分からない。昔の話をしただけで、どうして生肉が食べられなくなって、家族の牙が怖くなるのかも分からない。
ぼんやり考えながら、胸の前へ揃えた自分の前足を見た。白い毛に覆われていて、小さくて丸い。肉球もある。ここまではかわいい。なんとなく指へ力を入れてみると、毛の間から細い爪がぬっと出てきた。
尖っている。
これできょうだいの頭を叩いていた。雪を掘った。木へ登ろうとした。肉を押さえた。叔父虎の背中へよじ登るときにも、毛へ引っかけていた。何も考えずに。慌てて力を抜くと、爪はするっと毛の中へ消えた。
私にもあるんだ。
牙もある。舌で口の中を探ってみれば、当然みたいに尖った歯へ触れた。家族の牙を怖がっていたくせに、私だって同じものを生やしている。
そのことに気づいたら、今度は自分の身体まで知らないものみたいに思えてきた。どうしろっていうの。前足を腹の下へ押し込み、尻尾まで身体へ巻きつけて、もっと小さくなる。
しばらくすると、お母さんが入ってきた。朝から何も食べず、遊びにも行かず、触ろうとすれば逃げる子どもが洞窟の隅で丸まっているのだから、放っておけるはずがない。
お母さんはまっすぐこちらへ来ず、いつもよりゆっくり近づいてきた。少し離れたところで立ち止まり、ヴヴ……ガウ……と低い声で鳴く。たぶん、何か聞いている。でもやっぱり分からない。
「おかあさん……」
呼んでも、こっちの言葉だって通じない。お母さんがもう一歩だけ近づいて、鼻先を私の額へ触れさせた。身体がびくっと跳ね、お母さんはそのまま止まった。何もされていない。鼻がちょっと当たっただけ。それなのに避けた私を、お母さんはじっと見ている。
ほんとは近づきたい。いつもなら自分から顔へ頭を擦りつける。でも今日は無理だった。
しばらくすると、お母さんはそれ以上触るのをやめ、少し離れた場所へ伏せた。きょうだいが様子を見に戻ってくるたび、低く鳴いて追い返してくれる。どうやら私は、具合が悪いから休ませておくことになったらしい。ありがたいのに、寂しい。でもそばへ行くのも怖い。
そのままどれくらい経ったのか分からないころ、今度は叔父虎が洞窟へ入ってきた。口に何かを咥えている。こっちまで来るのかと思って反射的に身体が縮んだけれど、叔父虎は近づかなかった。少し離れたところで止まり、口に咥えていたものを床へ落とす。
ころん、と転がったのは、つやつやした丸い石だった。白と灰色がまだらになった、表面のすべすべした石。私のお気に入りだ。
前に叔父虎がどこかから拾ってきてくれて、それからずっと遊んでいる。噛んでも壊れないし、前足で叩けばころころ転がる。後ろ足で蹴飛ばして追いかけるのも楽しくて、一度洞窟の外まで転がしてしまい、きょうだいみんなで追いかけたこともあった。
いつもなら、見ただけで飛びつく。今日は何も思わなかった。丸くて、つるつるした、ただの石だった。
叔父虎は石を見て、私を見た。それでも動かないので、どうしたものかというように少し首を傾げ、その場へ伏せる。大きな身体をなるべくこちらへ近づけないようにしているらしい。ヴゥ、と小さく鳴いた。言葉は分からない。でもたぶん、大丈夫か、とか、元気を出せ、とか、そういうのだと思う。
叔父虎はずっと私たちの子守りをしてくれている。背中へ登っても怒らないし、滑り台にしても怒らない。今だって、朝からおかしい私のために、わざわざ外からお気に入りの石を持ってきてくれた。それくらい分かっているのに、目が合った途端、反射的に目を閉じてしまった。伏せていても叔父虎は大きい。少し開いた口の向こうには牙がある。怖い。
叔父虎はそれ以上近づかなかった。丸い石だけが、私たちの間にぽつんと残った。
早く夜になってほしかった。夜になったからって、これが治るわけじゃない。フィロンが来れば何とかしてくれる、なんて考えたわけでもない。
ただ、朝からずっと続いている今日が、もう終わってほしかった。寝て、起きたら、昨日までの私に戻っているかもしれない。そう思うくらいしかできなかった。
なのに太陽はまだ高い。虎になってから、何時だとかあと何時間だとか、そんなことを気にしたことはほとんどない。明るければ起きて、眠ければ寝て、お腹が空けば食べる。それで困らなかったのに、こういう日に限って一日がものすごく長い。
前ならスマホを見れば何時か分かったのになあ、なんて、今さらどうしようもないことまで思い出した。虎にスマホなんかあるわけない。知ってる。でも今日は欲しい。
寝てしまえば夜まで早いかもしれないと思って目を閉じたけれど、外できょうだいが走るたびに耳が勝手にそちらを向いた。
雪を蹴る音がする。低い唸り声がする。誰かが誰かへ飛びついて、転がっている気配がする。全部、知っている音だ。昨日までなら自分も交ざりたくて仕方なかった。今日は聞くたび、身体へ力が入った。
そのうち、もっと大きな足音が洞窟へ入ってきた。お父さんだ。まず鼻先を寄せて私の匂いを嗅ぎ、それから、ざりっと頭を舐める。
「ひっ」
小さな悲鳴が漏れた。けれどお父さんは、私が自分を怖がっているとは思わなかったらしい。
具合の悪い子どもを落ち着かせようとしたのか、そのままもう一度舐めた。ざり。さらにもう一度。ざり、ざり。頭、耳の後ろ、首、背中。お父さんの舌は大きくて、一度通ったところの毛が全部変な方向を向く。普段なら、また毛皮がしっちゃかめっちゃかになってる、と思うところだった。
お父さんに舐めてもらうのは好き。見た目はひどくなるけれど、大きな身体がそばにあるのは安心したし、大事にされているのが分かって嬉しかった。今だって、嬉しくないわけじゃない。
ただ、顔が近い。口も近い。牙がある。床には私の頭より大きな前足が置かれていて、その中には爪が隠れている。私なんて、お父さんがその気になれば簡単に咥えられる。実際、何度も咥えて運ばれてきた。一度だって痛くされたことはない。
分かっている。お父さんは怖くない。怖いはずがない。それなのに身体が震えた。
震えたせいで、お父さんはますます具合が悪いと思ったらしい。今度はさっきより丁寧に舐め始めた。
違う。お父さん、それ今いちばん怖いやつ~~!!
朝からずっと、昨日まで何とも思わなかったものばかりが怖い。何が起きているのか、ぜんぜん分からない。
私は壁とお父さんの間でできるだけ小さく丸まり、毛皮をしっちゃかめっちゃかにされながら、早く夜になってくれと祈った。お父さんも、お母さんも、きょうだいも、叔父虎も大好きなのに。
怖いよ~~~!




