わうわうわう!
人間って、怖い生き物だったなあ……。
叔父虎の背中に腹這いになり、首の後ろからお尻の方へずるずる滑り落ちながら、私はしみじみ思った。
叔父虎は大きいので、背中のいちばん高いところまで登るだけでもけっこう大変。後ろ足で立ち上がって毛へ前足を引っかけ、よじよじ、もぞもぞと身体を持ち上げ、途中でずり落ちそうになったら牙で毛を甘くくわえる。そうしてようやく肩のあたりまで登ったところで、身体を横にして手足を投げ出すと、ふかふかの白い毛の上をゆっくり滑っていく。
叔父虎は私たちが遊び始めると伏せてくれるので、安全安心の天然すべり台だった。最後はお尻の丸みに沿ってころんと雪の上へ落ちる。楽しい。もう一回。肩のあたりでバランスを取り、素敵なマフラーのように首元へ巻きついた。叔父虎は「ぐお」と短く鳴くけど、怒ってはいない。これは『落ちるなよ』って意味な気がする。
この前、人間に会った。というか、正確には今世で人間を見るのは初めてではなかったけれど、あんなに近くまで来た人間は初めてだった。
前世では私も人間だったのだから、本来なら懐かしいとか、同族に会えて安心するとか、そういう感情が出てくるものだと思った。
でも実際に目の前へ現れた人間は、二本足で立って、毛がほとんどなくて貧相で、口を大きく開けながらこっちへ近づいてきて、いきなり私の頭へ手を伸ばしてきた。
怖かった。めちゃくちゃ怖かった。いま思い返しても耳がちょっと後ろへ倒れる。
前世の私だって、道端で知らない人が満面の笑顔を浮かべながら無言で頭を触ろうとしてきたら普通に逃げる。
人間だった頃なら逃げられたし、警察も呼べたし、嫌ですと言うこともできた。
それが今の私は、歩く時にたまに自分の足へ自分の足を引っかけて転ぶくらいの力無き、可愛いだけのちっちゃな赤ちゃん……。
そんな状態で、今世では見慣れていない、なんか変なヒョロヒョロの生き物に真正面から迫られた。人間と言うより、お化けとかそういう類の生き物だと思っちゃった。すんごい怖い。おじちゃん助けてと叫んだのは、正しい反応。
それに、そういえば前世でも、私たちみたいな綺麗で素敵な毛皮を持つケモノは人間によく狙われていた。
虎とか豹とか狐とか。毛皮を剥がされて、お金持ちの着るコートになっていたような記憶がある。虎は敷物の方がイメージ強いかも。パカーンと開かれて、暖炉の前の絨毯みたいに使われちゃうんだ……。私なら、サイズ的にドアマットかもしれない……。物理的ドアマットヒロイン……。
もちろん、私へ近づいてきたあの人間が私をコートにしようとしていたとは思わない。人間だった時の記憶を引っ張り出して思い直すと、顔がすごく嬉しそうだったし、怖くて聞き取れなかったけど、何かずっと喋っていたし、手を伸ばしてきただけだったので、もしかしたら単純に触りたかっただけなのかもしれない。
でも、触ったあとで毛皮を剥ぐ可能性が絶対にないとは言い切れないくらい人間は怖い。
前世で同じ人間だった私には分かる。人間はものすごくいろんなことをする。頭がいいし、道具も使うし、一匹では弱くても何匹も……何人も集まる。
そうだった。人間は匹じゃない。最近ちょっと虎が染み込みすぎている。気をつけよう。私は元人間。知性ある者としての自覚を胸に。
転生したと分かった頃には、異世界なんだし、そのうち人間と出会って、なんかこう……大冒険! みたいな感じになるのかな、と少し期待していた。
人間の町へ行ったり、美味しいものを食べたり、知らない場所を旅したり、何か困っている人を助けたり、もしかすると私の背中へ誰かを乗せて走ったり。
異世界なのだから、そういうイベントが発生してもいい。せっかく白くて大きくて魔法まで使えるらしい虎へ転生したのだから、いつまでも洞窟で乳を飲んで寝ているだけでは、異世界転生の意味がないのではないか。なんて以前は思っていた。
でもこれって現実なので、大冒険には危険が伴う。そして私はまだまだ赤ちゃん。身体はふわふわ。足は短い。走ればそこそこ速くなってきたけれど、調子に乗ると前足と後ろ足の順番がおかしくなって転がる。
大きな岩は登れないし、登れたとしても下りられない。木の根っこくらいなら飛び越えられるようになったけれど、たまにお腹をぶつけて泣く。
疲れたら母か父か叔父虎に運んでもらう。私もきょうだいも、ごはんは自分で狩れない。鹿にだって鼻で笑われる。まだまだ全然、庇護対象。親離れしたら死ぬお年頃。
大冒険は大きくなってからでもできるし、まずは無事に育つところから始めよう。
せっかく転生したのに、幼獣のうちに人間へ近づいて毛皮のコートにされました、完。ではあまりにも悲しい。
私は長生きする。いっぱい遊ぶ。いっぱい食べる。いっぱい寝る。そのうえでいつか最強つよつよ白虎になる。
それに、叔父虎にも教えてあげなければならない。叔父虎は人間のいるところへ行っちゃうから。この前だって、どうして人間の近くまで連れていってくれたのかは分からないけれど、結果としてたいへんなことになった。
人間は水切りの石みたいな勢いで吹っ飛んだし。叔父虎も木を薙ぎ倒しながら飛んだ。人間は叔父虎に飛ばされ、叔父虎はお母さんに飛ばされた。
最終的にいちばん強かったのはお母さんだった。だから次に叔父虎が人間のいるところへ近づこうとしたら、私が止めてあげよう。いっちゃだめだよ、って。
叔父虎は私の言葉が分からないけれど、進行方向へ回り込んで前足へしがみつけば、たぶん伝わる。駄目なら鼻を噛もう。もっと駄目なら大声でお母さんを呼ぼう。それなら絶対に止まる。この前のお母さんの怒り方を見る限り、叔父虎も二回目は嫌なはず。叔父虎にはいつもお世話になっていますからね、これくらいさせていただきます。礼はいらんよ。当然のことよ。
そう考えている間にも、身体は叔父虎からするすると滑っていき、お尻のところで勢いがついて、ころん、とひっくり返った。
雪へ背中から落ちる。ふかふか。冷たい。楽しい。私はすぐ身体を起こし、ぶるぶると雪を払ってもう一度叔父虎へ飛びついた。先に登っていたきょうだいが一匹、叔父虎の肩から私の上へ滑り落ちてくる。ぶつかった。二匹まとめて雪の上を転がる。すると、それを見た残りの二匹も当然のように駆けてきた。
「わうわうわう!」
わうわうわうとは、わうわうわうという意味しかない。私自身、何を伝えようとして吠えたのかよく分からない。でもきょうだいたちもなんか盛り上がったので、これでいい。それぞれ別の声を上げながら私へ飛びかかってくる。
一匹を前足で押さえ込もうとすると横から別の一匹に体当たりされ、そちらへ顔を向けたら最初の一匹が私の耳へ甘噛みしてきた。卑怯者! 一対一で勝負しろ! うおおお!
四匹でしばらく雪の上を転げ回っていると、一匹が急に私から離れた。少し先へ走り、こちらを振り返って口を開く。
ふわっ、と白い息が広がった。ただの吐息ではない。冷たい空気が細かな粒になって、陽の光を受けてきらきら輝きながら地面へ落ちていく。雪より細かく、粉みたいな氷だった。
おお。
別のきょうだいも真似をする。ぷはあ、と吐き出された白い息が途中からぱりぱり固まり、今度は小さな氷の粒になった。最初の子より少し大きい。落ちた粒へ前足を伸ばすと、ころころ転がった。
三匹目も負けじと口を開き、ふーっと息を吐く。そっちは細長い氷になりかけたところで途中から崩れ、きらきらした粉になった。すごい。みんな、どんどん上手になっている。
私もできるかな。前足を踏ん張った。お腹へ力を入れる。大きく息を吸う。
「ぷーーーーー」
何も出ない。もう一回。
「ぷっ。ぷっ。ぷーーーーー」
何も出ない。口の前へ前足を持っていってみた。冷たい。いや、これは外の空気が冷たいだけかも。
きょうだいが横から顔を覗き込んでくるので、もう一度思い切り息を吹いたけれど、やっぱり何も出なかった。
ふん。まあいいよ。別に悔しくない。私はほら、ノミとかダニとか疥癬とか……寄生虫とか落とせるし……。みんなが口から氷を出せるからって、何だというのだ。役割分担というものがある。
きょうだいたちは敵を凍らせる係。私は衛生管理係。冷凍ビームとノミダニ対策、どちらが大切かと聞かれれば、それは状況による。少なくとも寝床へノミが大量発生した時、冷凍ビームで洞窟ごと吹き飛ばすわけにはいかない。そう考えれば私の力も大変重要なので、悔しくない。ほんと。ぜんぜん。少ししか悔しくないし。
そこで、ふと思い出した。叔父虎にはまだやっていない。お父さん、お母さん、きょうだいたち、自分。みんなにはあの時やった。でも叔父虎が来たのはそのあとだ。いままで何度も身体をくっつけて遊んでいるのに、一度もちゃんと調べていなかった。
たいへんだ。叔父虎も野生の虎である。絶対いる。あんなにあちこち歩き回っているのだ。草むらへ入る。藪も通る。地面へ寝転がる。私たちが知らないところまで毎日歩いている。
ノミダニ側から見れば優良物件そのものではないか。でかい。あたたかい。毛皮が厚い。移動までしてくれる。
私は叔父虎へ駆け寄った。背中で遊ばれていた叔父虎は、突然真顔になって近づいてきた私を見て鼻先をこちらへ向ける。何か遊びを思いついたと思ったのかもしれない。
叔父虎の前足へ自分の前足をぺたりと置く。小さい悪いやつ。血を吸うやつ。痒くするやつ。皮膚へ潜るやつ。毛の中に勝手に住むやつ。出ていけ。私の大事な叔父虎から出ていけ。
「うーーーーん」
そう念じると、身体の奥がすうっと冷たくなった。お。来た来た。胸の中から冷たいものが足へ流れ、前足の肉球から叔父虎へ移っていく。白い光が叔父虎の足首を薄く包み、そのまま毛の表面を伝って身体中へ広がった。
叔父虎がびくっとした。大丈夫大丈夫。たぶん痛くないから。前もみんな平気だったし。光が首、背中、腹、尻尾まで届くと、叔父虎は自分の身体へ何が起こったのか分からないらしく横腹を振り返った。
白い毛の奥で何か小さなものがきらりと光る。次の瞬間、叔父虎が身体を大きく震わせた。ぶるるるるるるっ、と頭から尻尾まで波打ち、白い毛の中から小さな氷の粒がぱらぱら落ちた。
あ。やっぱいた。雪の上なので少し分かりにくい。それでも叔父虎の足元へ落ちた氷の中には、ごく小さな黒っぽい点が見えるものもあった。小さすぎて何なのかまでは分からない。
ノミかもしれない。ダニかもしれない。ほかの寄生虫かもしれない。疥癬かもしれない。……疥癬って、こういうふうに目へ見えるものだったっけ。病気そのものの名前だった気もする。忘れた。まあいい。とにかく悪いやつが凍って落ちたのなら成功である。
叔父虎はしばらく自分の身体を嗅いだり、後ろ足で首を掻こうとしたりしていたけれど、途中で足を止め、そのまま首を伸ばして今度は私の身体を嗅いだ。
そして舐められた。べろん。頭から首まで一発で毛が正しい方向へ倒れる。ありがとうございます。どうやら嫌ではなかったらしい。それならもっとやっておこう。
私は叔父虎から離れ、近くの地面へ前足を置いた。ノミダニ疥癬! 何も起こらない。ダンゴムシみたいなのが歩いているからとりあえず食べた。ダンゴムシは悪い虫じゃないから効かないらしいという学びは得られたので、ヨシ!
次は草。ノミダニ疥癬! 小さな氷の粒がぱらぱら落ちた。
おおっ! いる! 知らないけど何かいる! 次は藪。私は葉っぱへ身体を突っ込んだ。ノミダニ疥癬! ぱら、ぱら、と小さな氷が次々落ちた。
うおおおお! レベル上げ! レベル上げ! 使えば使うほど上手くなるかもしれない。
きょうだいだって、最初よりもスムーズに綺麗な氷を作れる。水に息を吹きかけてカチカチにして、お水が飲めなくなったよお! と泣きじゃくる愚かな赤ちゃんをしているけど、力はホンモノだ。
お母さんなんて冷凍ビームである。なら私だって、何度も使って鍛えれば、そのうち範囲も広くなり、効く相手も増え、もっとすごいことができるようになるはずだ。
今はノミ。次はダニ。その次は疥癬。さらに寄生虫。最終的には……病気全部! いける気がする。根拠はない。でも異世界だから。魔法がある世界では、だいたい気合いとレベル上げが大事なのである。たぶん。
私はあちこちへ意味もなく“なんかすごい技”をかけて回った。木の根元。寝床へ持ち帰ろうとしていた枯れ草。叔父虎がさっき座っていた場所。自分の尻尾。通りすがりのきょうだい。もう一匹のきょうだい。さらにもう一匹。清潔な住処が手に入り、レベリングも可能! 素晴らしい。
しかも最近は叔父虎がいろんなところへ連れていってくれるようになった。つまり活動範囲が広がった分、ノミダニ疥癬リスクもうなぎ登りである。危険! そしてチャンス!
前世でも、草むらを歩いたあとには服へよく植物の種がくっついていた。いわゆる引っ付き虫である。あれだけ植物が遠慮なく服へ乗り移ってくるのだから、本物の虫だってこっそり毛へ潜り込んでくるに違いない。しかも今の私には服がない。全身毛皮。どこからでも入り放題。許さん。絶対に許さん。
私はきょうだいたちを見た。さっきまで氷の粒を作って遊んでいた三匹が、こちらを見ている。白い。ふわふわ。毛が多い。改めて見ると、ものすごく寄生しやすそう。
「うおおおお! きょうだい!! 毛皮の中を検めさせてもらおう!!」
駆け出した。もちろん言葉の意味は伝わらない。でも全速力でこちらへ向かってくる私を見れば、遊びが始まったことくらいは分かる。一匹が身体を低くし、もう一匹が横へ回り、三匹目は逃げた。
「わうわうわう!」
私が飛びかかる。狙った一匹には避けられ、その向こうにいた別のきょうだいへ正面からぶつかった。二匹まとめて転がる。転がったところへ三匹目が突撃してくる。起き上がろうとした私の背中へ前足が乗り、そのまま雪へべしゃりと潰された。
負けない! 私は身体をひねって抜け出し、今度は相手の腹へ頭から突っ込んだ。相撲である。前世の国技がいま冴え渡る。
何のルールもない。噛みつきあり。体当たりあり。背後からの奇襲あり。四匹のうち最後まで立っていたものが勝者。なお、最後まで立っていたところで叔父虎に前足でまとめて転がされるので、実質的な勝者はいない。
その隙にも私は隙あらば“なんかすごい技”を発動した。
身体を押しつける。冷たい光が広がる。毛の奥から小さな氷の粒が落ちていく。いた! ほらいた! 遊びに行ったから! やっぱり藪とか通ったから!
私は使命感に燃えて、さらにきょうだいへ飛びついた。向こうも完全に遊びだと思っているので全力で応戦する。
頭を押される。耳を噛まれる。尻尾を踏まれる。私は相手の肩へしがみつき、二匹まとめて雪へ転がった。そのまま何回転かしたところで、視界の端に父と母が見える。二匹とも少し離れた場所へ伏せ、こちらを眺めている。叔父虎も座っていた。
三匹の大人が、雪の上を転げ回る私たちを見ている。止める気配はない。母は尻尾を身体の横へ置き、ゆっくり瞬きをした。父は前足を重ね、その上へ顎を乗せている。叔父虎はさっき私の魔法で毛の中を綺麗にされたばかりだからか、何度か身体を伸ばしていた。みんな、なんだか満足そうだった。
私たちが元気に遊んでいるのを見るのが好きなのかもしれない。分かる。私もきょうだいが元気だと嬉しい。父と母と叔父虎が元気なのも嬉しい。
前世で知っていた虎は、そんなに長生きする生き物ではなかった。動物園で暮らしている虎でも十五年くらいだった気がする。野生なら、もっと短かったはずだ。十歳くらいで死んでしまう虎だっていたような気がする。
だったら、お父さんもお母さんも叔父虎も、たぶん私より先に死んじゃうんだろうな。前世では親より早く死ぬという親不孝をしてしまった。だから今世では、できれば私が最後までみんなを見送りたい。
……いや、待って。
私たち、冷凍ビーム吐く虎だった。
普通の虎と同じ寿命なのか、ぜんぜん分からない。
人間だった頃の感覚で考えれば、一生は本当に短い。十年。十五年。でも、それが私たちにも当てはまるのかは分からない。異世界の、冷凍ビームを吐く巨大な白虎だから、私が思っているよりも長く生きるタイプの虎かもしれない。私の知らないいろんな理屈がありそうではある。
私は私たちのことを何も分からない。だからこそ、精一杯楽しく生きなければもったいない。
たくさんできることを探そう。いろんなところへ行こう。いっぱい遊ぼう。美味しいものも食べよう。きょうだいと喧嘩して、父の尻尾を追いかけて、母の冷凍ビームをいつか真似して、叔父虎の背中をすべり台にして、毛皮の中のノミダニ疥癬を根絶する。
それから、大きくなったらちょっぴり冒険もしてみたい。危なそうだったら帰ってくればいい。私は一度死んでいる。せっかくもう一回生きられるのだから、今度は最後に、いっぱい遊んだなあ、楽しかったなあ、と満足しながら終わりたい。
そのためにはまず、長生き。安全第一。健康第一。そして遊ぶ。完璧な虎生計画。
もし何にもできなかったとしても、その時はまあ……。
私はちらりと父を見た。大きい。強い。ごはんを持ってきてくれる。
母を見る。もっと強い。
叔父虎を見る。めちゃくちゃ遊んでくれる。
いける。最悪、ニートの虎、ニートラでも養ってもらえそうだし!
「わうわうわう!」
再び飛びかかってきたきょうだいを真正面から受け止め、私はもう一度雪の上を盛大に転がった。虎生、サイコ~~~~~!
───────
登場人物紹介が最新話だとなんか嫌なので、予定より前倒しでアップしたものとなります。




