んにゃ!
「おいで」
誰かに呼ばれた気がして、目を開けた。
洞窟の中は暗い。まだまだ夜だった。
入口の方から差し込む月明かりが、岩肌と寝床の端っこをぼんやり白くしている。私の鼻先にはきょうだいのお尻があり、背中側には別のきょうだいがくっついている。あったかい。少し離れたところにはお母さんが伏せていて、そのさらに向こうには大きな白い塊がふたつ。たぶんお父さんと叔父虎。いつもの夜。いつもの洞窟。危険なし。異常なし。おやすみなさい。
目を閉じかけて、また開いた。
……いま、人間の声がしなかった?
いやいやいや。
しないしない。するわけない。
こんな山奥の、最強つよつよの私たちが何匹も寝ている洞窟の近くまで、わざわざ夜中に単身でやってくる人間なんているわけがない。
この前会った人たちだって、私たちから住処の近くに行ったって形だったし、いろいろ道具を持っていた。人間は弱いけど頭がいいので、普通は群れる。少なくとも冷凍ビームを吐く巨大虎の縄張りへ、夜中に一人でふらっと遊びに来るほど頭の悪い生き物ではないはず。前世の同族、信じてるぞ……!
そもそも、聞こえたような気がする、という程度だった。
おいで。
たしかにそんな意味だった。
でも声というより、寝ぼけた頭の中へ言葉だけがぽこんと落ちてきた感じに近かった気もする。夢かな。夢だな。最近、人間のことを考えていたから夢に出てきたのかもしれない。
前世でもたまにあった。寝る前に仕事のことを考えていたら夢の中でも仕事して、朝起きた時には何ひとつ給料が発生していないのにめちゃくちゃ疲れているやつ。現代社会における最も最恐の悪夢。
私はもぞもぞ身体を丸め直した。鼻先を前足の間へ突っ込み、尻尾をお腹へ寄せる。きょうだいから漂ってくる、ちょっと獣臭いけど慣れると安心する匂いを吸い込んだ。
寝よ。
「おいで」
今度ははっきり聞こえた。
ぱち、と目を開いた。
…………。
起きました。
いまのは起きてた。聞こえた。絶対聞こえた。
しかもやっぱり、人間の言葉だった。
私は身体を起こさないまま、目だけを動かした。
お母さん、寝てる。
お父さん、たぶん寝てる。
叔父虎も寝てる。
きょうだいも寝てる。一匹だけ後ろ足がぴくぴくしているけど、これはたぶん夢の中で走っているだけ。がんばれ。何を追いかけているのか知らないけど捕まえろ。
誰も反応していない。
ということは、少なくとも普通の人間の声ではないのかもしれない。
この距離で私に聞こえるくらい大きな声で誰かが喋ったなら、お母さんが気づかないわけがない。
私は今世では前世よりも耳がいい。かなりいい。でも大人たちはもっといい。雪の上を遠くで歩いている動物の気配にも気づくし、私たちがこっそり洞窟の外へ出ようとすると、背中を向けて寝ていたはずなのに尻尾で道を塞いでくる。無人センサー尻尾。
なのに、誰も起きない。
だったら、これは私にしか聞こえていない?
…………。
怖。
いや、ちょっと違うかも。
声そのものはぜんぜん怖くなかった。
男の人の声だった。若くもなく、すごく歳を取っている感じでもない。落ち着いていて、静かで、こっちを急かすような感じもない。ただ、もう一度「おいで」と呼んだだけ。
むしろそこがおかしい。
こんな危険なところへ単身で突入する人間の声が、こんなに落ち着いているわけがない。
普通もっとこう、息を切らしているとか、震えているとか、「ひいい」とか「食べないでえ」とか、何かあると思う。
冷凍ビームを吹く虎が何匹も住んでいる山へ夜中に侵入し、その洞窟の前まで来て、赤ちゃんに向かって優しく「おいで」と呼びかけられる胆力があるなら、たぶん人間界でもかなり上の方の強者だ。
あと、仮にめちゃくちゃ肝の据わった人間だったとしても、こんなに近くで声がするのに大人が誰も反応していない。
だったら、なにか意味があるのかも。
異世界だし。
この言葉を使えばだいたいの不思議がいったん保留になる。便利。
私はしばらく寝たふりをしたまま考えた。
行く?
行かない?
安全第一を掲げたばかりで、夜中に知らない声へ呼ばれてホイホイ外へ出ていくのは、ホラー映画なら開始十分くらいで死ぬ人間の行動だと思う。やだな……海外のホラー映画ってアジア人死にがちなんだよな……。魂がアジア人女性だから、もしかしてって可能性は捨てきれないな……。
でも、お母さんたちがまったく反応していないのは気になる。
人間の声なのに、人間の気配がない。
しかも呼ばれている。
……ちょっとだけ。
ちょっとだけ見よう。
洞窟の外へ出るとは言っていない。入口から覗くだけ。何かいたらすぐ戻る。逃げる。泣く。お母さんを呼ぶ。必要なら全力でひっくり返って赤ちゃんアピールをする。
私はそっと身体を起こした。
きょうだいを起こさないように、前足をひとつずつ寝床から抜く。背中へ乗っていたきょうだいの顎がずるりと落ちた。止まる。起きない。よし。
そのまま忍び足で洞窟の端まで移動した。
途中で、きょうだいの宝物置き場が目に入った。
石。枝。なんか丸いやつ。半分食べて砕いた骨。綺麗な色の石。曲がった枝。太い枝。細い枝。私が以前どこかから拾ってきたけど何がよかったのか今となっては分からない木の皮。
その中に、先っぽの鋭い枝が一本ある。
私は立ち止まった。
護身用……。
いや、こんな細い枝で何と戦うのだという気持ちはある。でも丸腰よりはいい。今の私は牙も爪もあるので厳密には丸腰ではないけれど、精神が元人間なので武器を持つと安心する。
鋭い枝を咥えた。
よし。
つよいぞ。
枝の真ん中を噛んだせいで左右へ長く飛び出し、洞窟の壁へ引っかかった。
カツン。
やば。
その場で固まる。
お母さんの耳が動いた。
私は枝を咥えたまま、ものすごく自然な顔をした。
トイレですよ~~。
怪しい声に呼ばれて護身用の武器を持って単独偵察へ向かう幼獣ではありませんよ~~。
ちょっと夜中におしっこしたくなっただけの、何の変哲もない健康な赤ちゃんですよ~~。
こちらを向いたお母さんと目が合った。
「がう」
「んにゃ!」
元気よく答えた。
この「んにゃ!」には、「んにゃ!」という意味しかない。
少なくとも私にはそれ以外の意味を込めた覚えはない。でもお母さんはしばらく私を見たあと、ゆっくり頭を下ろした。許可されたのか、ただ見送られただけなのかは分からない。
よし。
私は枝を咥え直し、洞窟の出口へ向かった。
ただし、すぐ逃げられるように腰は全力で引いている。
前足だけ前!
後ろ足はできるだけ洞窟!
気持ちとしては尻尾だけ三メートルくらい伸ばして、お母さんの足に触っていたい。
そろり。
そろり。
入口から鼻先だけ出す。
冷たい空気が鼻に触れた。
少し前までなら、もっと痛いくらい冷えていた。今はそこまでではない。空気はまだひんやりしているけれど、吸い込んでも鼻の奥がつんとするほどではなくなった。鼻息も白くない。両鼻から白い煙がぶわーーと出るのは楽しかったけど、今はもうその遊びは出来なくなった。
雪もあちこちに残っているものの、岩肌や土が見える場所が増えている。昼間は雪解けの水が細い筋になって流れているところもあった。
春が来ている。
たぶん。
この世界にも四季があるなら。
私は枝を咥えたまま、左右を確認した。
人間、なし。
前。
なし。
近くの岩陰。
なし。
木の後ろ。
たぶんなし。
熊とかもなし。
静かだった。
夜の山は真っ暗なのだと思っていたけれど、今の目だと意外とよく見える。むしろ昼間より遠くまで見えているような気さえした。
雪が月の光を反射しているせいかもしれないし、単純に虎の夜目がすごいのかもしれない。遠くの木々の一本一本まではっきり見える。枝の先に積もった雪も、岩の影も、その向こうにある少し色の濃い藪も。
すご。
夜行性ってこんな感じなのかな。
前世では夜に電気を消したら普通に何も見えなかった。スマホを探すためのスマホが欲しい、と何度思ったことか。
それにしても、人間はいない。
やっぱり夢だった?
二回とも?
夢の中で一度目を覚まして、それを現実だと思ったままもう一度寝ようとして、そこでまた声を聞いて、今度こそ本当に起きた……とか?
そういう夢、ありそう。夢の中で「これは夢だ」と気づいたところまで含めて夢だった、みたいなやつ。
考え始めると今ここで起きていることまで怪しくなってくるので、いったんやめた。私はもう少しだけ洞窟の外へ首を伸ばし、念のため周囲を見回してから、なんとなく頭上を見上げた。
洞窟の上には、月がふたつ浮かんでいる。最初に気づいた時は、それだけで「異世界だあ」とずいぶん感動したものだけれど、毎晩のように見ているとさすがに慣れた。
大きさも少し違えば色も違っていて、片方は白っぽく、もう片方は薄く青みがかっている。月がふたつあること自体については、もういい。ここは地球じゃない。そういう星なんでしょう、と納得することにしている。
前世の常識を全部持ち込んでいたら、そのうち空を飛ぶ鳥にまで「翼の面積に対して体重が」とか言い始める羽目になる。知らん知らん。飛んでるんだから飛べるんです。
ただ、何度見てもひとつだけ引っかかることがある。
今夜も片方はきれいな満月なのに、もう片方はすぱっと半分だけ明るい。満月と半月が同時に浮かんでいる。月の満ち欠けというものは、たしか太陽と月と自分の位置関係がどうとか、光が当たっている面がどう見えるとか、そういう話だったはず。
同じ空に浮かんでいる月が二つあって、片方だけ満月、もう片方だけ半月、なんてことが普通に起こるんだろうか。……いや、別々の場所にあるんだから起こるのか?
そもそも二つの月が地球の月みたいに同じところを回っているとも限らないし、片方がものすごく遠いとか、軌道が違うとか、そういう可能性もある。あるんだろう。たぶん。
考えてみれば、私は前世でも天文学なんてまともに勉強していなかった。月を見て「綺麗だなあ」と思い、たまに満月ならちょっと得した気分になり、写真を撮ろうとしてスマホの画面では白い小さい丸にしかならなくて諦める。私が月について担当していたのは、そのくらいの範囲。異世界へ転生したからといって、死んだ瞬間に天体力学までインストールされるわけではなかった。
満月と半月を交互に見比べながらしばらく考えてみたものの、結局わかったのは「やっぱり変な空だなあ」という、最初から知っていたことだけだった。
「やあ、毛むくじゃらの子」
「ぶっ」
不意に真上から声が降ってきて、咥えていた枝がぽろりと落ちた。反射的にその場へぺたんと腹をつけ、四本の足をできる限り洞窟側へ引き寄せる。前半分だけ外、後ろ半分はいつでも逃げ込める位置。完璧。逃走準備はできています。なんなら大声でお母さんを呼べます。呼ぼうかな。もう呼んでいいんじゃないかな。
さっきまで人間がいないことを確認していたのに、よりによって頭の真上から人間の言葉が聞こえてくるなんて聞いてない。怖い話じゃん! ホラーじゃん!
とはいえ、声の主が何者なのかも見ずに騒ぐのはちょっと格好悪い気がして、私は腹を地面につけたまま恐る恐る顔だけを上げた。
洞窟の入口、その上へ張り出した岩の縁に、月明かりを受けて白いものがいる。細長い身体を岩へゆるく巻きつけ、頭だけをこちらへ向けていた。
蛇だった。
白い蛇。
この辺りではあまり見かけない色だ。雪みたいに真っ白というより、ほんの少しくすんだ白い鱗が月明かりを拾って、一枚一枚ぼんやりと光っている。
頭はそれほど大きくないし、身体も、お父さんやお母さんや叔父虎の巨大さを見慣れてしまった私からすると拍子抜けするほど細い。するすると丸呑みにできそうな、たいへん手頃な太さである。そして、こちらを見下ろしている目だけが鮮やかな赤だった。
蛇。白蛇。赤い目。細い。ちょうどいい大きさ。
「……あ、おやつ!」
口から出てから、しまった、と思った。
最近ちょっと虎が染み込みすぎている。
さっきまで私は、人間の言葉が聞こえた、誰かいる、危険かもしれない、とちゃんと警戒していたはずなのに、視界へ蛇が入った瞬間、脳みそのかなり獣寄りのところから「食べられるもの!」という判断がものすごい勢いで飛び出してきた。
前世の私なら蛇を見て最初に考えることは、毒あるかな、怖いな、離れよう、だったはずなのに、今はまず味と大きさを考えている。よろしくない。人間性が毛皮の下へ埋まりつつある。
……いや。
ちょっと待って。
今、喋ったの、これ?
私が口を半開きにしたまま固まっていると、白蛇は「おやつ」呼ばわりされたことに怒るでもなく、慌てて逃げるでもなく、岩の上でほんの少し頭を傾けた。
人間なら眉を上げたのかもしれないけれど、蛇なので顔はほとんど変わらない。それなのに、不思議と呆れられている気がする。
「君は知性も肉体に寄せてしまったみたいだな。それとも、元から子供だったのか?」
「…………」
喋った。
蛇が喋った。
しかも、さっきの声だ。落ち着いた男の人の声。どこから聞こえているのか分からなかったあの「おいで」とまったく同じ声が、今度は目の前の白蛇から聞こえている。
「私を食べる前に、話をしよう。同胞よ」
そう言うと、白蛇は岩へ絡めていた身体をゆっくりほどいた。細長い胴がするりと動き、白い身体が岩肌を滑っていく。落ちるように頭から下りてきているのに、途中で身体の一部をわずかな凹凸へ引っかけ、またほどき、音らしい音も立てずにするすると地面へ近づいてくる。
蛇ってこんなふうに壁を下りるんだ、と場違いな感心が先に来て、私は逃げなかった。というより、逃げるという発想が一度きれいに頭から消えた。
同胞。
いま、同胞って言った?
私に?
白蛇が?
虎と蛇なのに?
いや、それより喋ってる。人間の言葉で。人間みたいな唇なんて当然ないし、喋るたびに口をぱくぱく動かしているわけでもない。白蛇の口元をじっと見ていると、先の割れた舌がちろりと一度だけ出て、また引っ込んだ。それだけなのに、こちらにはちゃんと男の人の声として言葉が聞こえて、意味まで何の引っかかりもなく分かる。
それなら、洞窟の中のお母さんたちが反応しなかったのはどうしてだろう。
こんな近くで人間の声がしていたなら、私より先に気づくはずなのに、誰も耳ひとつ動かさなかった。つまり、この声は普通の声じゃない? 私にだけ聞こえていた? 魔法? 人間の言葉を喋る蛇だから、私と同じ?
疑問がひとつ浮かぶたびに、その尻から次の疑問がぞろぞろ出てくる。考えることが多すぎて、どこから考えればいいのか分からない。とりあえず確かなのは、目の前にいる白蛇がおやつではなさそうだ、ということくらいだった。
白蛇は地面まで下りると、そのままこちらへ近づいてはこなかった。洞窟の入口から少し離れたところで身体をゆるく丸め、頭だけを持ち上げて私を見る。たぶん、襲うつもりはないと示しているのだと思う。少なくとも、今すぐ飛びかかってくる姿勢には見えない。
赤い目が私を見ている。私も白蛇を見る。
洞窟の奥にはお母さんたちがいて、少なくとも今のところ飛び出してくる気配はない。夜の冷たい空気が鼻先とひげの間を抜けていき、さっき落とした護身用の枝が前足のすぐ横に転がっている。拾った方がいいだろうか。でも今さら枝一本でこの喋る蛇と戦うのも妙な話だし、そもそも私はさっきこいつを食べようとした側である。
食べられる側にも、食べられたくないという意思がある。
当たり前なんだけど、喋られると急に人格を見ちゃう。
それ以前に、喋っている蛇を食べるのはさすがにちょっと嫌だ。前世の感覚がまだそのくらいは残っていてくれたらしい。
私が黙って見つめていると、白蛇は急かすこともなく待っていた。やがて、これ以上驚かせないようにするみたいにほんの少しだけ頭を上げ、さっきと同じ落ち着いた声で言った。
「やあ、ディオニュソスの白き仔。初めまして」
「こんばんは、ツルツルの蛇。はじめまして」
白蛇は少しだけ頭を傾けた。
蛇の表情なんて分からない。眉毛もないし、口元だって人間みたいには動かない。それでも赤い目を細めるようにこちらを見たその顔が、やさしく笑っているような気がした。
……ディオニュソスさんって、だれ? もしかしてお父さんかお母さん、そんな立派な名前だった……!?
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/62029/blogkey/3686918/
活動報告に軽い解説(意味がわからない方が主人公と同じ気持ちになれて良いかもしれない)




