ただのアリア
今はもうこの世のどこにもいない、アリア・アルヴェーンについて。
アルヴェーンという姓は、かつて王都で知らぬ者の方が少なかった。王国の東部に広い領地を持ち、三百年以上にわたって王家へ仕え、大神殿とも深い繋がりを持つ古い公爵家である。
王の即位に際して読み上げられる宣誓文の保管、王統を記した系譜の照合、戴冠式に用いられる聖具の管理。そのほかにも、平時には誰がやっているのか気にも留められないような仕事を、代々ずっと続けていた。
アリアはその家の三番目の子供であり、二番目の娘だった。兄が一人、姉が一人いる。自分が家を継ぐ予定はなく、政略結婚に使うには大神殿へ入り浸りすぎ、本人も将来は神へ仕える仕事をしたいと言い始めていた。
父親はそれを止めなかった。
「神官になれば、公爵家の娘ではなくなるぞ」
「はい。女神様の娘になります」
「女神様はずいぶんたくさん子供をお持ちだな」
「お父様もですよ。女神様がお作りになった人間なので」
「では私までお前のきょうだいになるのか。それは困ったな」
父が笑うと、隣に座っていた母も笑った。アリアは何がそんなにおかしいのか分からず、自分の言ったことに間違いがあったのかと家庭教師へ目を向けたものの、彼女まで口元を押さえていたため、その日は少しだけ不満だった。
アルヴェーン家の子供は、身分に見合っただけの教育を受けた。歴史、神学、古代語、礼法、領地経営、王家の系譜。アリアは計算を嫌い、乗馬もあまり得意ではなかったが、古い文字を読むことと神学だけは好きだった。大神殿へ連れて行ってもらえる日は朝から機嫌がよく、帰る時には必ず何かしらの質問を抱えていたという。
神官はどうして白い服を着るのか。女神様は本当にみんなの祈りを聞いてくださるのか。亡くなった人はどこへ行くのか。祈る人がたくさんいたら女神様は忙しくないのか。自分が二回祈ったら、ほかの誰かの順番を取ってしまわないのか。
幼い子供の疑問へ、神官たちはそのたび真面目に答えた。
女神がどれほど忙しいのかは、人には分かりません。しかし誰かを思って祈ることに遠慮はいりませんよ。
そう教えてくれた老神官の名前を、アリアは今でも覚えている。その頃のアリアは『知りたがりのアリー』と恐れられており、次から次へと湧いてくる質問に最後まで付き合ってくれるのは、老神官イルマだけだった。
アルヴェーン公爵家がなくなったのは、その三年後。
後世の歴史書には、いくつかの名前で記されている。王都騒乱。灰冠の夜。十二日政変。どれが正式なのかについては、書いた人間の立場によって違った。
当時十一歳だったアリアにとっては、夜中に起こされて、廊下へ出てはいけないと言われた夜でしかない。
最初に聞こえたのは、何か大きなものが倒れる音だった。
次に人の声がした。怒鳴り声ではない。短い命令と、何人もの足音。窓の外が妙に明るく、離れた場所で火が上がっていた。アリアの部屋へ駆け込んできた侍女のケイティは、寝間着の上から外套を着せ、靴を履かせる時間も惜しんで腕を引いた。
「お嬢様、こちらへ」
「何があったの?」
「大丈夫でございます。声を出さず、私から離れないでくださいませ」
大丈夫ではないのだろうな、とアリアにも分かった。
ケイティの手が震えていたからである。
それに気づいたアリアが彼女の顔を見上げると、ケイティは一度だけ唇をきゅっと結んだ。それから、いつもと同じように笑った。
「ご心配には及びません。こう見えて私、強いのですよ」
「そうなの?」
「ええ、とても。一度も負けたことがありません」
そんなことはないだろう、とアリアは思った。
彼女は男爵家の娘で、行儀見習いとしてアルヴェーン家へ奉公に来ている。剣を習っているという話も、魔法が得意だという話も聞いたことがない。代わりに、実家にはアリアと同じ年頃の妹がいるのだと、以前嬉しそうに話してくれたことがあった。
だからきっと、怖いのだ。
それでもアリアを怖がらせまいとして、自分は強いのだと嘘をついてくれている。ならば、その嘘は信じた方がいい。
「うん。じゃあ、だいじょうぶね」
「はい。大丈夫でございます」
ケイティはまた笑った。
今度は少しだけ上手に笑えていたので、アリアも何も気づかなかったふりをして、その震える手をぎゅっと握った。
家族がどうしていたのか、アリアはほとんど知らない。あとになって人から聞いた話はいくつもあるが、それが本当に起きたことなのか、幼い生き残りへ聞かせるために恐ろしい部分を隠して整えた話なのか、今でも判別できないものがあった。
事件の始まりは、王の急死に乗じた王弟派のクーデターだった。彼らは王太子を廃して王弟を即位させようとしたが、王位継承には王家の系譜と古い誓約書の照合、それを管理するアルヴェーン公爵家当主の証明が必要だった。偽の継承文書を用意しても、アルヴェーン家が否定すれば正統な即位として認められない。
もっとも、王弟派が欲しかったのは父の協力そのものではなかった。すでに公爵家の印章を模した偽印も、父が王弟の継承権を認めたとする文書も用意されていた。あとは、それを偽物だと証言できる人間さえいなくなればよかった。
父親は協力を拒んだらしい。最後まで王家の系譜も公爵家の印章も渡さず、用意された文書への署名もしなかった。
それでも父が生きている限り、偽造された文書を正式なものとして押し通すことはできない。そのため王弟派は、アルヴェーン家そのものを、証拠と証人ごと消すことにした。
屋敷にいた一族と使用人は口封じの対象となり、離れた場所にいた血縁者のもとへも同じ夜に兵が向かったという。母親と兄は使用人を逃がそうとしていたという話もあれば、一家全員が最初から一室へ集められていたという記録も残っている。
アリアが覚えている父親の最後の姿は、なぜか朧気だ。
廊下の向こうに立っていて、こちらを見た。
ただそれだけだった。
何か言ったような気もする。逃げろだったかもしれないし、行きなさいだったかもしれない。もしかすると何も言っていなかったのかもしれない。
ケイティに手を引かれ、アリアは礼拝堂へ逃げ込んだ。
屋敷の礼拝堂は小さい。公爵家のものとしては、という意味である。セデ村の教会がいくつか入るくらいの広さはあったが、王都の大神殿を見慣れていたアリアには小さく感じられた。
そこには家族で祈るための女神像があり、幼い頃から何度も見上げた穏やかな顔が、いつもと同じようにこちらを見ていた。
ケイティが長椅子を動かし、壁際にある小さな扉を開いた。祭具を運び入れるための通路へ続いている。
「この先をまっすぐ進んでください。外へ出たら、庭を抜けて────」
「一緒に行って、私ひとりじゃ走れないわ」
「すぐ後ろから参ります」
「嘘よ!」
ケイティは、困った顔をした。
いつもアリアが勉強をさぼった時にする顔だった。どうしてこういう時まで同じ顔をするのだろう。アリアは今、本当に困っている。一緒にいて欲しい。だって、夜の道は怖い。
お父様もお母様も、お兄様もお姉様も、どうしてここに居ないのかわからない。ひとりでなんていや。突然、怖くなった。ひとりは怖い。
扉の外で音がして、ケイティが振り返った。
そのあとの記憶は、ところどころ抜けている。
白い祭壇へ赤いものが飛んだこと。ひどく耳が痛くなる音がしたこと。誰かが自分を抱きかかえたこと。知らない男の顔。冷たい床。身体のどこかが熱くて、息を吸うたび胸なのか腹なのか分からない場所が痛かった。
女神像が倒れていた。
アリアはその横で、自分の身体から流れた血が石の目地を伝っていくのを見た。
女神様。
父と母に会いたかった。兄にも姉にも、ケイティにも、朝になれば起こしに来るはずだった使用人にも会いたかった。誰かを呼ぼうとしても、声がほとんど出なかった。
それでも祈りの言葉だけは覚えていた。
何百回も唱えた、ごく初歩的な治癒の祈祷。祝詞を唱えればそれだけで子供でも使える。転んで膝を擦りむいた時や、小さな火傷をした時に使う程度の聖魔法である。十一歳のアリアが使えるものなど、そのくらいしかなかった。
痛いです。
助けてください。
まだ死にたくありません。
女神様。
途中から声にもならなかった。
祈り終える頃には、身体の中にあった熱が少しずつ引いていく。
息を吸っても痛くない。
手を動かせた。
腹部を押さえると、寝間着は赤く濡れていたが、その下にあったはずの傷へ指が触れなかった。
アリアはしばらくその意味が分からず、自分の腹を何度も撫でた。
それから立ち上がろうとして、すぐ床へ座り込んだ。
傷は消えていたが、流れた血までは戻ってこなかったらしい。
夜が明けて、王都側の兵が礼拝堂へ入った時、アリアは倒れた女神像のそばに座っていた。赤はいつのまにか黒に変わり、女神様だけを見上げていた。
周りには誰も生きていなかった。
アルヴェーンの血を引く者で、その夜を越えたのは彼女一人だった。
使用人の中にも、屋敷に残っていた者で生き延びた人間はほとんどいない。離れた領地へ出ていた者や、休暇で家族のもとへ帰っていた者が何人かいたという。それ以外の名前は、翌月になって作られた死者名簿へ並んだ。
ずいぶん長い名簿だった。
アリアは最初から最後まで読んだ。
読めない名前はなかった。
その後のことは、多くの大人がアリアの代わりに決めた。
王宮で保護するべきだという者がいた。アルヴェーン家を再興させるべきだという者もいた。年齢を考え、成人するまでは後見人を置き、領地だけでも残しておくべきだという意見もあった。アリア自身が望んだのは、大神殿へ行くことだった。
あの夜、自分の祈りを女神が聞いてくれたのかどうか、アリアには分からない。
神官たちは、女神の奇跡ですと言った。医術師は、聖魔法に対する身体の抵抗が極端に弱いのだと説明した。
聖魔法は、生き物の身体そのものへ働きかける魔法である。そのため人の身体には誰しも多少の抵抗があり、強すぎる魔力をそのまま受け入れて負担にならないよう、無意識のうちに流れを抑えているのだという。
アリアには、その抑える力がほとんどなかった。
だからといって、特別に聖魔法が得意なわけではない。他人へ使えば、せいぜい人並みの効果しか出なかった。ほんの少しだけ現実味のある、おまじない程度の祝福である。
けれど、自分へ使う時だけは違った。
小さな祈りでも、傷が塞がる。痛みが引く。普通ならもっと強い魔力を必要とするはずの怪我まで、おかしなほどあっさり治ってしまう。
アリアの聖魔法が特別なのではない。アリアの身体だけが、聖魔法を拒まなかったのである。
腕を切ればすぐ塞がった。転んで膝を腫らしても、祈れば元へ戻る。十五歳の時、大神殿の資料庫で上の棚にある本を取ろうとして脚立ごと落ち、足首をひどく捻ったことがある。床へ座ったまま治癒を施すと、腫れ始めていた足首はすぐに動くようになった。駆けつけた神官にはたいそう怒られた。
「治せるからといって、怪我をしてよいわけではありませんよ」
「はい。気をつけます」
「去年も同じことを言いましたね」
「去年は木から落ちただけです」
「毎年なにかしら事件を起こすのはやめなさい。それと、言葉の隙をついて言い逃れようとしない」
去年は、大神殿の庭にいた猫を木から下ろそうとして落ちた。
猫は自力で下りた。
アリアだけが落ちた。
その一件以来、大神殿の猫は人間よりよほど自分の身を守るのが上手なのだから、余計な手助けはせず放っておくよう教えられた。
アリアがそれに納得するまでには、少しかかった。
成人を迎える頃には、自分の身体が他人とは少し違うことにも慣れていた。
痛みは嫌いだ。血を見るのも好きではない。怪我などしないに越したことはないと思っている。
けれど怪我をしたら治せばいい。
アリアにとって、それは雨に濡れたら服を乾かすのと同じくらい当たり前のことになっていた。
子供の頃に負った、自分が覚えている中では最もひどい傷ですら治ったのだから、大抵の怪我は治るものだと思っている。
その考えがおかしいと何度言われても、理屈では理解できた。身体の方は、なかなか理解してくれなかった。
保護された娘ではなく、正式に神官となり教会に所属した際、アリアはアルヴェーンの姓を国へ返した。アリア・アルヴェーンはこうして、この世から消え、ただのアリアになった。
もちろん、止める者はいた。
もう一度家を興すこともできる。領地も財産も一部は残っている。いつか結婚して、子供へ名を継がせる道もある。アルヴェーンという家を完全に終わらせる必要はないのではないかと、何人もの人から言われた。
それでもアリアは返した。
家が嫌いだったわけではない。父も母も、兄も姉も、大好きだった。自分の部屋も、庭も、毎朝髪を結ってくれた侍女も、菓子をひとつ余計にくれた料理人も、礼拝堂の女神像も好きだった。
だから毎日祈ることにした。
女神に仕える者になれば、家族のためだけではなく、もっとたくさんの人のために祈ることができる。大神殿なら朝も昼も夜も女神像のそばにいられる。亡くなった家族や使用人たちのことを思い出した時、いつでも一番近いところで祈れる。
それはアリアにとって、とても嬉しいことだった。
神官としての暮らしも楽しかった。
朝は早いし、祭礼の前は寝る暇もない。古い典礼書は一冊読むだけで一日が終わるほど分厚く、偉い神官へ提出した書類は訂正の赤いインクだらけになって返ってくる。怪我人が運ばれてくれば食事の途中でも呼ばれ、迷子の子供を預かれば泣き止むまで抱いていなければならない。
それでも、自分にできることが増えていくのが嬉しかった。
祈り方を教わった。人を看取る時の言葉を覚えた。文字の読めない人へ手紙を読んで聞かせ、書けない人の代わりに返事を書いた。冬になれば貧しい地区へ薪を配り、夏には井戸へ浄化の聖魔法をかけた。
誰かにありがとうと言われれば、自分もありがとうございますと返した。
生きているからできることだった。
神獣典礼室への配属が決まった時も、嬉しかった。
最後に神獣が確認されたのは二百五十年前であり、仕事の大半は古文書の整理、各地に残る神獣信仰の調査、祭礼で使われる祝詞の確認だったが、アリアには充分面白かった。
神獣は女神が特別に愛し、人と同じように心を持つ獣だと伝えられている。
大神殿に残された古い記録には、王と対話したもの、人の子を守ったもの、長い旅の果てに一人の神官を故郷まで送り届けたものまで記されていた。どこまでが史実で、どこからが長い年月の間に付け加えられた物語なのかは分からない。
それでもアリアは、幼い頃から神獣について書かれた記録を読むのが好きだった。いつか本物へ会えたらいい。叶うとしても、ずっと先のことだと思っていた。
西部山岳帯の小さな村から、氷嶺白虎の幼獣が人の言葉を話したという知らせが届くまでは。
報告を読んだ瞬間、アリアは椅子から立ち上がった。勢いよく押し退けられた椅子が後ろへ倒れ、気の弱い同僚が音に驚いて悲鳴をあげる。
慌てて椅子を拾って謝り、それからもう一度報告を読んだところで、今度は気の強い同僚から「座りなさいよ、慌てバカ女!」と罵倒された。返す言葉もなかったので大人しく椅子へ座り直し、紙を机へ置いて、最初の一行から読み返す。
何度読んでも内容は変わらなかった。人間の言葉を話す、氷嶺白虎の幼体。
もちろん、報告だけで神獣と断定することはできない。珍しい魔獣である可能性も、人の言葉に似た音を発しただけという可能性もある。それでも胸の奥が落ち着かなかった。神獣かもしれない。しかも氷嶺白虎である。大きな猫である。その三つを順番に考えるたび、どうしても顔が緩んだ。
神獣典礼室の上司から現地派遣を命じられた時には、両手を握り締めて、絶対にお役目を果たしますと答えた。
女神が自分へ与えてくださった仕事なのだと思った。今までたくさんの人に助けてもらい、教えてもらい、生きている自分にできることを少しずつ増やしてきた。
祈ることも、古い記録を読むことも、怪我人を手当てすることも、誰かへ正しい言葉を伝えることも、最初からできたわけではない。そうして覚えてきたものが、今度はずっと憧れていた神獣のために使えるかもしれない。それが嬉しかった。
だから今回も頑張りたかった。
神獣だと確認できれば、きちんと記録する。人との間に問題が起きないよう必要なことを調べ、昔の典礼と照らし合わせ、大神殿へ持ち帰って、これから先も長く残る記録を作る。
もし人を怖がっているのなら、どうすれば安心してもらえるのかを考えたい。人の暮らしへ近づく理由があるなら、それも知りたかった。
できれば仲良くなりたい。そこだけはお役目とはあまり関係がなく、神獣様と仲良くなれたらきっと素敵だろうな、というだけの素朴な願いだった。
セデ村へ来てから、ブラムウェルには何度も注意された。近づくな、触るな、呼びかけるな。見つけても自分から距離を詰めず、相手がこちらへ興味を示しても不用意に手を出すな。
バルトにも、山では勝手な行動をするなと言われている。どちらの話も真面目に聞いたし、アリアは全部覚えていた。危ないことも分かっていた。少なくとも、自分ではそう思っていた。
雪山で転べば怪我をする。足を滑らせれば斜面を落ちることもある。大型魔獣に攻撃されれば、人間など簡単に死ぬ。
氷嶺白虎がどれほど強いのかも、資料で何度も読んできた。成獣なら人間一人など問題にならず、幼獣であっても不用意に刺激してよい相手ではない。知識としてなら、アリアは誰かへ説明できるくらい理解していた。
それでも、実際に目の前へ現れた幼獣は、資料に書いてあった「大型魔獣の幼体」とはずいぶん違って見えた。
白かった。
丸い耳があった。
ふわふわしていた。
思っていたよりずっと可愛かった。
こちらを見ていた。
怖がらせるつもりなど、もちろんない。
少しだけ近づいて、害意がないと分かってもらえたら。
神獣なら人の心を理解すると伝えられているのだから、自分があなたを傷つけませんよと示せば、きっと分かってくださるのではないか。
そんなことを考えた。
後ろから止まれと言われた時、聞こえていた。
一瞬だけ足を止めようともした。
それでも、目の前にいる白い幼獣があまりに可愛らしくて、この子なら大丈夫なのではないかと思ってしまった。
いつもの悪い癖だった。
大丈夫。
転んでも治った。
骨を痛めても治った。
刃物で手を切った時も、火傷をした時も、すぐに治せた。
もっとずっとひどい怪我だって、昔、一度だけ治った。
だから何かあっても、きっと大丈夫。
自分だけなら。
その最後のところまで考えたのか、アリア自身にも分からない。
ただ、幼獣の額へ伸ばした手は、祝福を与える時と同じようにゆっくりしていた。
驚かせないように。
怖がらせないように。
仲良くなれたらいいなと思いながら。
「おじちゃんたすけて!! 人間がわたしのこといじめるよお!!!!」
高い声が聞こえた。
あ。
やっぱり神獣様だった。
そう思ったところまでは覚えている。
次に白いものが見えた。
幼獣とは比べものにならないほど大きな白だった。
地面が消えたような感覚があり、身体が宙へ浮いた。
痛いと思う暇はなかった。
何かにぶつかる音だけが、自分の身体からずいぶん遠いところで聞こえた。
暗くなる直前、アリアはひとつだけ思った。
怒らせてしまった。
それは、とても申し訳ない。
目が覚めたら、まず謝ろう。
できることなら神獣様にも。
それからブラムウェルさんとバルトさんにも。
きっとものすごく怒られる。
ちゃんと謝って、次からはもっと頑張ろう。
今回のお役目だって、まだ終わっていないのだから。
そう思ったあと、アリアの意識は途切れた。
──────────────
最初に見えたのは、火だった。
暗い部屋の中で、暖炉の炎だけがゆらゆら揺れている。薪の爆ぜる小さな音がして、橙色の光が壁を撫でていた。ずいぶん静かだった。身体は重く、指先ひとつ動かすのにも時間がかかる。ぼんやり瞬きをしているうちに視界が少しずつ明瞭になり、炎の向こうに飾られた一枚の絵が目へ入った。
女神様だった。
アリアはしばらく、声も出さずにそれを眺めた。
大神殿で日々見上げていた女神像とは少し違う。こちらの女神はずいぶん力強く描かれているらしい。
長い髪を風になびかせ、片腕を高く掲げ、人々を導いている。絵を構成する主線は太く、細かな装飾を描き込むというより、遠くから見ても姿が分かるよう大胆に形を取っていた。ところどころ線が歪み、削れたようになっているのも不思議だったが、見ているうちにアリアなりに意味が分かってきた。
これはきっと、導きの女神の神話を描いたものなのだ。
かつて大いなる災厄が起きた時、女神は自ら傷を負いながら人々の前を歩き、安全な地まで導いたとされている。
大神殿に残る最古の写本では、その途中で三度負傷したとも七度負傷したとも書かれていた。絵の一部を横切る白い筋や、線が途切れているところは、その傷を表現したのだろう。ずいぶん大胆な技法だ。王都で見かける宗教画では、女神のお身体へ傷を描き込むことを避ける画家も多い。けれど地方には地方の信仰表現がある。西部にはこういう女神画が伝わっているのかもしれない。
なるほど。
死んだのかもしれない。
アリアは素直に納得した。
最後に覚えているのは、巨大な白い何かが目の前に現れたところまでである。その後、身体が浮いた。何かにぶつかった。そこで記憶が終わっている。目を覚ましたら暗い場所にいて、女神様がいらっしゃる。
死後の世界としては、思っていたより暖かかった。
もっと白い場所を想像していた。雲の上のようなところで、先に亡くなった人たちが迎えに来てくれるものだと、子供の頃は勝手に思っていたのである。
父も母も兄も姉もいないのが少し気になったが、こちらにも順番というものがあるのかもしれない。女神様へご挨拶するのが先なのだろうか。
そう考えながら、アリアはもう一度絵へ目を凝らした。
女神様が動いた。
正確には、絵の描かれた面そのものが、ゆっくりと傾いた。
アリアは瞬きをした。
絵がまた動いた。
その下の方に、見慣れない布がある。腰へ巻かれているようだった。
そこでようやく、アリアの頭の中でいくつかのものが繋がった。
これは絵画ではない。
皮膚に彫られている。
女神様が描かれていたのは、ブラムウェルの背中だった。
彼は上半身に何も着ておらず、暖炉のそばで濡らした布を使い、首筋から肩を拭いているところらしい。アリアが神話上の負傷表現だと思っていた白い筋は、刺青の下を走る古い傷跡だった。何本もある。肩から背中へ斜めに走ったもの、脇腹へ消えていくもの、女神の衣の線を途中で歪ませているものまであった。
そうと分かってから見ると、どう考えても背中だった。
なぜ自分はこれを絵画だと思ったのだろう。
いや、女神様が彫ってあるので。
しかもかなり立派なので。
仕方がないところも多少はあるのではないだろうか。
などと考えている間に、ブラムウェルの手が止まった。
彼は振り返った。
目が合った。
普段からそれほど愛想のいい人ではないが、今はいつにも増して表情がなかった。静かだった。とっても静かだった。人が本気で怒っている時ほど声を荒げないことがあると、アリアは神官として以前に、幼少期のあらゆるやらかしから何度も学んでいる。
「おはよう、はしゃぎボケ女」
聞いたことがないくらい低い声だった。
密室で上半身裸の男性と二人きりになっていて、ここまで色気より叱られる予感しかしない状況というものが世の中にはあるのだな、と心のどこか、客観的な……現実を逃避する部分で思った。
身体を起こそうとして、やめた。頭がぐらりとしたためである。どうもかなり血を失ったらしい。傷そのものはまだ確認できない。自分で治癒をかければどうにかなるだろうが、その前に済ませておかなければならないことがあった。
アリアは布団の上できちんと両手を揃えた。身体をピンと真っ直ぐにして、誠実性を表現する。伝わるかどうかはわからない。
「この度は本当に申し訳ございませんでした。ブラムウェルさんからは近づかない、触らない、呼びかけないと何度も言われていましたし、バルトさんからも勝手なことをするなと言われていたので、私はちゃんと分かっていたんです。分かっていたのに、実際に神獣様を目の前にしたら、思っていたよりずっと可愛らしくて……いえ、可愛らしかったことは関係ありませんね。そこは反省しています。とにかく、私なら怖がらせないかもしれないとか、少しくらいなら大丈夫かもしれないとか、そういう都合のいいことを勝手に考えて、止められているのも聞こえていたのに手を伸ばしました。結果として神獣様を怖がらせて、迎えに来られた大きな成獣まで怒らせて、ブラムウェルさんやバルトさんや、もしかしたら村の皆さんまで危険な目に遭わせていたかもしれません。私は昔から怪我をしても治癒をかければ大抵なんとかなっていたので、たぶん、自分が怪我をすることを普通の人より軽く考えていました。でも私の怪我が治ることと、周りの方まで大丈夫なことは全然別でしたし、私が勝手に危ないことをして、その後始末をほかの方にしていただくのも違います。そこまで考えられていませんでした。あと、今回のことで神獣様が危険だったとか、人を襲ったとか、そういうふうに報告するつもりはありません。先に約束を破ったのも、近づいたのも、怖がらせたのも私ですので、そこはきちんとそのまま書きます。それから今後は、近づくなと言われたら近づきませんし、触るなと言われたら触りませんし、呼びかけるなと言われたら呼びかけません。自分で『これはたぶん大丈夫なのでは』と思っても、それは大丈夫ではない方として扱います。神獣様と仲良くなりたい気持ちは、その、まだありますけれど……仲良くなりたい相手を怖がらせていてはどうしようもありませんので、まずは怖がらせないところからやり直します。本当に申し訳ありませんでした」
ブラムウェルは濡れた布を持ったまま、黙ってアリアを見ていた。絞り切れなかった水滴が、ぽた、ぽた、と床へ落ちる。その音だけが妙に大きく響いて、アリアはますます居心地が悪くなった。
「チッ」
「ごめんなさい」
上裸で、背中いっぱいに刺青が入っていて、しかも明らかに激怒しているお兄さんから舌打ちされるの、本当に怖い。
なにより、自分が完全に悪いので逃げ道がひとつもなかった。
ひとくちブラムウェル氏情報
漁村の船元の家出身のブラムウェル氏には大きめの刺青が背中に入っているよ。これは海難事故で死んで大変なことになっても、刺青をみたらどこの家の誰かを判別するのに便利だから。
海から離れた今も、フィールドワーク中に死んで獣にバラッバラにされても、どこかが残ってたら個人の判別チャンスがあるのでオススメと仲間に言っているよ。
柄が女神様なのは本人が敬虔な信徒という訳ではなく、国内ならどこでも「あら素敵、熱心なんですね」と怖がられない確率が高いから。刺青文化はそんなにないので、それでも引かれることが多いから基本は隠してる。人を怖がらせない、それはマナー。




