5
夕食時ともなれば作業場の灯りも落ちている。時期によっては忙しく稼働していることもあるが、今は仕事も少なく、臨時で他の工房から来て貰っている職人もいない。しんと静まりかえった作業場の、まだ仕立てる前の反物の棚の前で、淳司は息を吐いた。
よく飲み込めたと思う。
後少しで叫ぶところだった。
兄がこの家からいなくなると聞いて心臓が止まりそうになった。泣きたかったのは隆俊よりも自分の方だっただろう。彼が先に泣き出さなければ自分が泣いていた。
(それに……)
淳司はぎゅっと胸を押さえる。
鼓動が早い。
嫌な音だと思う。
隆俊が兄に甘えるように抱きつき、兄もまたそれに応じるように彼を撫でた。その瞬間、頭の中が真っ白になった。
それはお前が甘えていい兄じゃない。
そう叫びそうになって淳司は自分の腿を激しくつねった。彼にあたるのは間違っている。兄がいて、兄の優しさを知っていれば誰だって甘えたくなる。それも分かるから、兄に対して行っちゃ嫌だと泣く隆俊を責められない。
ただ、自分はあの時猛烈に隆俊に嫉妬していた。
兄の手が彼を撫でた瞬間、隆俊を絞め殺したくなった。
「……絞め殺す……」
不意に嫌な記憶が蘇って、淳司は眼をきつく瞑った。
小さい頃、公園で遊んでいた。
母親の体調が思わしくなく、兄と一緒に外で遊んでこいと言われたのだ。修司が「遊び」を許されるのは滅多にないことだった。だから、目一杯兄に遊んで貰おうと淳司は張り切っていた。近所の友達を集めて、かくれんぼをしようとみんなが散った。
あの時、選んだのがかくれんぼじゃなく鬼ごっこだったら良かったのかもしれない。
一人になった兄は、淳司が少し離れた間に襲われたのだ。
かくれんぼなどろくにしたこと無い兄が隠れ場所に迷っているんじゃないかと心配になって戻った時だった。
小柄な大人が兄にのしかかっていたのだ。
兄さん、と叫んだ声に驚いたのか、大人はすぐに逃げていった。
兄さん大丈夫、と駆け寄れば兄は咳き込みながら掠れた声で、このことは誰にも言うな、と強い口調で言った。
ずっと、兄を襲ったのは鷹取に恨みのある人物で、兄が黙っているように言ったのは二度と外へ出してもらえなくなるのを怖がったからだと思っていた。だから母親の耳にだけいれないようにこっそりと父にだけ話をした。父親は難しそうな顔をしてから、もう襲われることはないよと兄が心配で泣きじゃくる淳司を撫でた。
淳司の思いこみが違うと分かったのはつい最近だった。
「淳司」
「……兄……さん」
作業台に寄りかかりながら淳司は笑う。
「どうしてここだって?」
「淳司は小さい頃、俺とケンカすると、よく田辺さんの足元に隠れていた」
「兄さんとケンカした訳じゃなくて、俺が一方的にわがまま言って、感情的になって切れただけだろ。今日は言葉すら交わしてない」
「でも、ここに来る時と同じ顔をしてた」
兄が近づいてくる。
暗がりの月明かりに照らされた兄の顔は綺麗だ。漆黒色という言葉がよく似合う綺麗な黒髪に、黒に見えるが微かに青い虹彩。両方とも実母から譲られた色だった。兄は兄弟の中で誰よりも母親に似ている。
性別と性格意外は良く似ている。
「話がなかなか出来なくて、すまなかった」
「……どうせ父さんが黙ってろって言ったんだろ。あのジジイ、いつも大事なことを話すの後回しにするから。再婚の時だってそうだ」
「母さんが死んでそれほど経っていないから迷っていたんだろう。世間でどんな噂を立てられるか分かったもんじゃない」
本妻が死んで、後妻が子連れで入ったとなれば悪い噂だって出てくる。口に出して言うも憚られるようなそんな憶測だってあるだろう。淳司も俊江と初めて会った時、苦労するだろうなと思った。
父親の浮気を責める気はない。あの母を妻にするしかなかったのだ。むしろ同情さえする。俊江もいい人だと思う。よく頑張っていると思う。だから、鷹取の内に近い人ほど俊江を悪く言わない。むしろ母がどれだけ周囲に疎まれていたのか分かった。
ただ、淳司は俊江が許せない。
兄がどんなに否定しても、淳司は俊江のことを許すことは出来なかった。
「いい迷惑だよ。心の準備なしで聞かされるこっちの身にもなれっての」
「……悪い」
「兄さんが謝ることじゃない。でも、どうして横浜の学校だったんだよ。兄さんの夢は知ってるけど、横浜じゃなくたってよかっただろ」
言うと兄は少しだけ言葉を詰まらせる。
「あの学校は多彩だ。俺の学びたいことを全部学べると思う。……あと、寮があった」
「……寮?」
「今は少し俊江さんと距離を置きたかった」
「……何だよそれ」
「今は少し、顔を合わせない期間を持ったほうがいいと思うんだ」
「なんだよ、それっ!」
淳司は拳を握りしめて作業台を叩く。
かたかたと壁が鳴った。
「だったら、あの女が出てけばいいじゃないか。兄さんは何にもしてないのに、勝手にびびって兄さんに‘だけ’近づかないのはあの女のほうだっ」
「条件が合う学校があった。俺も頭を冷やしたい。丁度いいと思う」
「ふざけんなっ!」
手近にあった出しっぱなしの針山を兄に向かって投げつける。針山は兄の肩にあたって落ちた。
「………俺を置いていくのか?」
「淳司……」
「俺をここに置いて、兄さんは逃げるのかよ!?」
「淳……」
「そんなの、俺は認めないっ!」
右手に裁ちバサミがあたる。
淳司はそれを握り込んだ。握り込んだまま兄を作業台の上におしたおした。
振動で横の棚から留紺色の反物が落ちてくる。
「俺は……兄さんが出て行くなんて、認めない」




