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ハサミを持つ手が冷たい。
ハサミを開いて刃の部分を兄の首元に近づけると、兄は無表情で淳司を見上げてくる。抵抗はしなかった。
淳司はその顔を愛おしい気持ちで見つめながら笑う。
「………ハサミでも人は殺せるんだ、兄さん」
「………」
「大丈夫、後から俺も行くから。兄さん一人にはしないよ。そうだよ、最初からこうすれば良かったんだ。こうすれば誰にも兄さんを取られない」
殺して、食べて自分も死のう。
そうすればもう、にいさんをだれにもうばわれない。
「淳司……」
怯える訳ではない。
それなのに兄の声は僅かに震えていた。
「淳司、やめるんだ。刃物は冗談にならない」
「……冗談で兄さんに刃物向けたりしないよ」
「なら、なおのこと駄目だ。俺の為に、お前の人生を無駄に使う必要なんてない」
「無駄?」
笑いがこみ上げる。
彼は何も分かっていない。
自分にどれだけ価値があるのか。
自分がどれだけ淳司に愛されているのか。
「無駄なんかじゃないよ。兄さんは何も分かってないよ。自分のこと、何も分かってない」
「……俺を殺した所で、俺はお前のものにはならない」
「……っ!」
「俺は俺で、お前はお前だ。人である以上、殺して所有しても誰かが誰かのものになるわけじゃない。せいぜいその骨が所有物になるだけだ」
手元が震える。
「……死ぬの嫌なの、兄さん。苦しいことばっかりだったのに、まだ生きていたいんだ?」
死んだ方が幸せじゃないんだろうか。
厳しい躾をされて、殺されかけて、新しい母親からも疎まれて、最近では殆ど笑わなくなった。時々思い出したように笑みを作る事はあるが、殆ど笑わない。
そのくせ人にだけは馬鹿みたいに優しい。
「淳司、俺は……」
がたん、と音を聞いて淳司は視線を向ける。
向けた先に、驚いた表情の俊江の姿。
全身が一気に粟立った。
「………っ!」
「淳司っ!」
動いた淳司を兄は止めるために動いた。ハサミを持った腕を捕まれ、くるりと返された。気が付けば二人の位置は入れ替わっていた。作業台に縫い止められ身動き出来なくなっているのは淳司の方だった。
抵抗しようよもがくが、兄は人がどうやったら身動きを取れなくなるのかを知っている。無理に動かそうとすれば淳司の身体に激痛が走る。
「離せっ、殺してやるっ、あの女だけは、俺がっ……」
女と目線が交わる。
父の後妻となり、自分たちの母親になった女は青い顔で口元を押さえている。怯えきった顔。
自分だって同じような事をしたのに、よくそんな顔が出来ると淳司の胃の底が燃え上がったように熱くなる。
「……俊江さん」
兄が小さく言うと彼女はびくっと肩を震わせる。
誰が誰から誰を守ろうとしているのか。
理解出来ない訳ではないだろう。それなのにあの女は、兄に一番怯えている。
「ただの兄弟喧嘩だ。……大丈夫だから」
立ち去ってくれ。
言外に含まれた言葉を察知したのだろう。俊江は泣き出しそうな顔をして口元を押さえ、廊下をバタバタと音を立てて走り抜けた。
「離せ、兄さんっ! あいつが、あいつが全部悪いんだっ!」
「違う」
「あれは、兄さんを殺そうとしたんだっ!」
「……違うっ」
「違わねぇよ! 罪悪感以外に、兄さんに怯える理由あるのかよっ!?」
「淳司っ」
急に抱きしめられ、淳司は思考を止めた。
身体が震えている。
兄の身体か、自分の身体か。或いは両方か。
ただ修司は強く淳司の身体を抱きしめる。暖かく、肩を掴むように抱きしめる手だけが少し冷たい。
目元が熱い。
ごとんと、裁ちバサミが床に落ちた。
「俺のためにお前が傷付く必要なんかない」
「……俺は別に傷付いてなんか」
「………俺は去年の剣道の大会の時、‘突き’で失格になった」
急に何の脈略もなく始まった話に淳司は聞き入る。
兄は去年まで剣道をやっていた。大会に出るほど強い人だったが、中学の剣道では禁止されている突きをやって失格になってから、剣道を止めた。元々武道は都が「文武両道であるべき」と言ってやらせていたもので、母の死後も兄は続けていた。本人は惰性で続けていただけだと言ったが、剣道を止めた時の兄は肩の荷が下りたようにほっとしながらも何かを失ったような喪失感を覚えている顔をしていた。
「あの時俺は、対戦相手を殺そうと思っていたんだ」
兄の口から聞いたこともない単語に淳司は少し瞬いた。
「……あいつ、直前で兄さんに因縁付けて来た奴だよな?」
修司は淳司を抱きしめたまま頷く。
「お前が俺の邪魔になるような、大会有力者を潰してきた、そう言った」
「兄さんが大会で上位入っているの、他の候補潰したからって? 馬鹿じゃねぇの? 剣道って気持ちを鍛えるものじゃねぇのかよ」
趣味の悪い冗談だと思う。
兄は淳司がそんなことをしなくても強い。手袋をしても手が凍りそうな新潟の冬の朝も、兄は欠かさず素足で稽古をしていた。文と武、両立させるために色々な者を犠牲にして基礎を作ってきた。その努力を知らない人は簡単に兄を「恵まれた才能」と言う。才能という言葉にすら嫉妬した相手は有りもしないことを悪し様に言う。
それでも兄は怒らない。
「もっと酷いことも彼らは言った」
「………俺のこと?」
うん、と頷いたが、兄は相手がどんなことを言ったのか語らなかった。よほど酷い言葉だっただろう。不器用で優しい修司は心を痛め憤った。
「ある意味、それは勝つために俺に有効な言葉だったと思う」
「……」
「向かい合った一瞬、相手に殺意を覚えたのは事実だ。……俺は、その殺意が、怖かった」
だからわざと突きを行って失格になったのか、それとも咄嗟に突きが出てしまったのか修司は言わない。
ただ、剣道を止めた後の修司の表情の意味が未練ならどちらかなのかはっきりしている。
「誰かを憎む気持ちは重い。だから、淳司にはそんなのを背負わせたくない。憎しみで人を傷つけたら、自分はもっと痛い」
「……俺は、兄さんのためなら、兄さんだって殺せるよ。他人なんか、もっと簡単だ」
「俺が望まなくても?」
耳元で囁かれた言葉に淳司は言葉を失う。
「……」
「俺は、お前が大切だ。お前が傷付くのを見たくない。俺は、そんなの望まない」
「俺は兄さんの為なら、何したって傷付かないよ」
「じゃあ、何で泣いてるんだ?」
「それは……」
「俺は、お前には俺の為じゃなく、自分のために生きて欲しいと思ってる」
「兄さん……」
ああ、そうか、と唐突に理解した。
兄が距離を置こうとしているのは俊江だけじゃない。淳司とも距離を置こうとしているのだ。
淳司は修司しか見えない。修司だけいればいいと思っている。
歳を重ねる事にそれは酷くなる。
離れてみて、自分以外を見ろ、そう言っているのだ。
「俺は横浜に行く。逃げる気持ちは少しあるかもしれない。だが、お前を置いていくわけじゃない。必ず戻ってくる。母さんのように、いきなり居なくなったりしない」
力が抜ける。
兄は抱きしめる手を緩めて、淳司を椅子に座らせた。
修司は床に落ちた留紺色の反物を拾い上げた。
「……それ」
「ああ」
「母さんの着物の色だ」
「そうだな。母さんはこの色を一番好んでた。一番深い完璧な紺に、落ち着いた乱菊が織り込まれた着物だった」
「母さんの事、怖かったけど、着物は好きだった。趣味のいい人だったから」
「俺もそう思う」
本当に趣味のいい人だった。
派手な着物を好んだ人ではないが、かといって地味にも見えなかった。着こなしも選び方も綺麗な人だったのだ。自分に似合うものをよく知っていたのだろうと思う。
「時々母さんの夢を見るんだ」
淳司は床に落ちた裁ちバサミを見つめながら呟くように吐いた。




