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私はしばらく、何も言えなかった。

頭の中が真っ白になった。

魔王。魔王軍。

ソルティアを包囲したのも、国境を脅かしたのも——全部、彼の指揮下にあった部隊だ。

私が助けた人たちを、脅かした側の人物が——目の前にいる。


ソルティアの廃屋を思い出した。

震えながら「聖女様が来てくれた」と言った老婆の顔。

見張りに気づかれて、騎士たちが剣を抜いて走り出した時の、あの音。

泥の中を進みながら、子どもの手を引いたあの夜。


あの部隊は——ヴィルの指揮下にあった。

頭の中で、何かが音を立てて組み替わっていく。

「親戚の争いを仲裁している」という言葉の意味が、 「情報が入る立場にある」という言葉の重さが、今更のように全部変わっていく。


(騙されていた)

そう思った瞬間、怒りを覚えた。 確かな、熱い怒りが。

でも——その怒りと同時に、私は別のことも考えていた。

夢の中での百日あまりを、思い返していた。

私が傷ついた人を助けた話をすると、ヴィルはいつも黙って聞いていた。

「静かに本を読んでいたいだけだ」という言葉。丁寧に紅茶を淹れる手。躊躇いがちに頬に触れる指先。私に向ける暖かな眼差し。

それは——全部嘘だったのか。


「……怒っているか」とヴィルが言った。

その声は、いつもより低かった。低く、静かで——覚悟を決めた声だった。

「……怒ってる」と私は言った。正直に。

「そうか」

「だって、あなたが指揮した部隊が、私の助けた人たちを脅かしていた。それは事実でしょう」

「——事実だ」

「なのに、あなたは私に何も言わなかった」

ヴィルは私の言葉に反論しなかった。

ただ静かに、私の怒りを受け取っていた。


「……私が魔王だと、知ってどうするかは君が決めることだ」とヴィルは言った。

「逃げてもいい。怒っていい。夢に来るのを止めてもいい。それでも私は——君に嘘をつき続けることの方が、耐えられなくなった」


「どうして……今」

「君が、本当のことを話してくれたから」


私はゆっくりと息を吸った。

(怒りは、本物だ。でも)

「一つだけ聞いていい?」

「何でも」

「あなたは、何のために戦っているの」


ヴィルは静かに目を閉じた。

「……魔族は、人間とは違う形の命を持っている。非常に長命で、百年前の聖女が起こした惨劇を覚えている者も多い」

「百年前の聖女が……?」

「私はただ、自分の民を守りたい。それだけだ。人間の土地が欲しいわけでも、支配したいわけでもない。だが——憤る部下を完全に押さえつけることも、またできない。そうすれば私を排し新たな魔王を担ぎ出そうとする者たちが現れる……そうなれば全面的な戦争は避けられない」

「……それで、ソルティアを」


「脅しだった」と彼はきっぱり言った。

「市民を殺すつもりは、最初からなかった。ただ、最悪な事態を避けるための——手段だった」

「でも、ソルティアの市民は怖かったわ」

「……それは、正しい批判だ」


彼は目を開けて、私をまっすぐに見た。

「私は、完全に正しい立場にいるわけではない。手段が、必ずしも目的に合っていたとも思っていない。だが——」


「でも、止めたかった」

「そうだ」


私は深く息を吸った。

頭が、整理しようとしている。感情が、ぐちゃぐちゃになっている。

でも——この人が嘘をつき続けることを選ばなかった、というのは本当のことだ。

そして私も、嘘をつき続けることを選べなくなった。


「ヴィル」

「……何だ」

「私、明日——王太子に本当のことを話す」

「本当のこと、とは」

「私が偽物の聖女だということ。医療の知識しか持っていない、ただの人間だということ」

「……危険だ」

「わかってる。でも、もうこれ以上、嘘の上に立ち続けるのは限界」


ヴィルは静かに私を見ていた。


「……そして、もう一つ」

「何だ」

「私は——魔王軍と人間が、戦わずに済む方法を、一緒に考えたい。ヴィルと」


長い沈黙があった。


庭園の黒ずんだ影が、ほんのわずかに——薄くなった気がした。


「……君は、本当に」

「無謀?」

「——いいや」とヴィルは言った。

その声が、今までで一番、柔らかかった。


「勇敢だ」

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