10
その夜、王都への帰還途中の野営地で眠りについた私は、夢の庭園に入った瞬間、何かが違うと感じた。
庭園の端の方——いつもは薔薇が咲き乱れているはずの場所に、黒ずんだ影のようなものが広がっていた。
「……これは」
「来ていたか」
彼の声も、いつもより疲れていた。
「どうしたの? 庭園が……」
「私の精神状態が反映されているのだろうな」と彼は言った。
「少し、荒れている」
「荒れている? どうして」
彼はしばらく黙ってから、静かに言った。
「……ソルティアで、聖女が少数の騎士とともに市内に踏み込んだと、情報が入った」
「っ」
私は息を飲んだ。
「それが……君だと、確信している」
「どうして?」と私は聞いた。
「君は、自分より他者を優先するから。誰かが先陣を切らなければならない時、必ず自分が出る——それは、君の話の端々から感じていた」
「……」
「無事でよかった。だが」
彼の声が、低く、重くなった。
「もう少しで、私は——」
そこで彼は言葉を止めた。
「もう少しで、何?」
「……いや、なんでもない」
「なんでもなくないでしょう!」
私は思わず声を上げた。
「あなたはいつも、ぎりぎりのところで言葉を飲み込む。私だってそう。お互い、本当のことを隠しながら話してる」
「……それは」
「わかってる。お互い事情がある。でも——」
私は、胸の中で何かが溢れ出しそうになるのを感じた。
「この夢が、いつまで続くかわからない。毎晩会えているけど、いつかは終わるかもしれない。その時に、あなたのことを何も知らないまま別れるなんて、私は嫌で、」
彼が口を開きかけた。
「私、あなたのことが好き」
——言ってしまった。
沈黙が落ちた。
彼の紫の瞳が、じっと私を見ている。
「……夢の中で告白を受けるとは、思っていなかった」
「冗談にしないで」
「していないよ」
彼は静かに立ち上がり、ゆっくりと私の前に立った。
指先が、私の頬に躊躇いながらそっと触れた。
「私も——君が好きだ。夢の中であっても、この気持ちは本物だと思っている」
「じゃあ、教えて」と私は言った。
「あなたの名前を。本当の名前を」
彼の指先が、止まった。
長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「……ヴィルヘルム。それが、私の名だ」
「ヴィルヘルム」
「誰にも呼ばれたことのない名を、君に呼んでほしい」
私は、その名前を胸の中で転がした。
「ヴィル——そう呼んでもいい?」
「……好きに呼べ」
照れ隠しの、ぶっきらぼうな返事。
でも、その耳が少し赤いのを、私はちゃんと見た。
「じゃあ、ヴィル」
「何だ」
「私の名前は、神城香織。日本人で、看護師で、異世界に迷い込んだ、ただの人間」
彼は、はっと目を見開いた。
「——ニホン? それは、君の世界の」
「知ってるの?」
「伝説で、聞いたことがある。天界の一つに、そのような名の世界があると」
「天界……」と私は苦く笑った。「天界にしては、ずいぶん普通の場所だけど」
「カオリ」とヴィルが言った。
「君は——今の役割に、本当に苦しんでいるんだろう」
「……うん」
嘘はつかなかった。
「苦しい。怖い。でも、目の前の人が苦しんでるのを見たら、やっぱり動いてしまう。それが私の性分だから」
「……そうか」
彼は静かに頷いた。
「ならば——その性分を、私は尊いと思う」
その言葉が、泣きそうなくらい嬉しかった。




